―どうしてそうなってしまったのか― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「私は山々のために泣き声をあげて嘆き、荒野の牧草地のために哀歌を唱える。そこは、焼き払われて通る人もなく、群れの声も聞こえず、空の鳥から家畜まで、みな逃げ去っているからだ。わたしはエルサレムを石くれの山とし、ジャッカルの住みかとする。ユダの町々を荒れ果てさせ、住む者もなくする。知恵があって、これを悟ることのできる者はだれか。主の御口が語られたことを告げ知らせることのできる者はだれか。どうしてこの国は滅びたのか。どうして荒野のように焼き払われて、通る人もないのか。主は仰せられる。『彼らは、わたしが彼らの前に与えたわたしの律法を捨て、わたしの声に聞き従わず、それに歩まず、彼らのかたくなな心のままに歩み、先祖たちが彼らに教えたバアルに従って歩んだ。』それゆえ、イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。『見よ。わたしは、この民に、苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる。彼らも先祖たちも知らなかった国々に彼らを散らし、剣を彼らのうしろに送り、ついに彼らを絶滅させる。』」

エレミヤ書9章10-16節

 

何か問題が起こった時、まあしかたがないよね、で終わるか、それともなぜそうなったのか、これを検証することって大事ですね。そうしなければ繰り返すだけ。これは様々な分野で言える話だと思います。特に問題なのは、こんなことがあったのは神様のせいだ、だからクリスチャンをやめる、とか責任転嫁をする。ちょっと無茶苦茶ですよね。でもこれ、結構ある話なんです。病めるかどうかは別にしても神様に責任転嫁するって。でも神様は主です。神様は私たちに仕える姿をとってこられましたが、召使ではないのです。何より神様は善にして善を行われる方。私たちは今ひとたび自分の内側に何が満ちているのか、思い返し神様に立ち返ろう、神様のいのちがあなたの内に溢れかえりますように。

 

さて、古代イスラエル王国において、北イスラエルは捕囚され、南ユダを何とか盛り返していたヨシヤ王が殺害されて後、エジプトの傀儡の王エホヤキムが王になったBC607年頃、神様がエレミヤを通して語られたのが↑になります。ここまで神様は私たちに悔い改める、心から神様を求め帰ることを訴えてきました。神様ご自身の、本物の恵みに立ち返るように。地にあるもではなく、まことの天の神様を求めよう、と。神様は見捨てようと思えば見捨てられる、でもあなたが滅びることほどの悲しみはない、と涙で溢れた神様はそれでも、倒れたあなたを起き上がらせ、新しい季節へ招かれるのです、神様の内に生きよ、と。

 

エレミヤは神様のこの思いを受け、「私は山々のために泣き声をあげて嘆き、荒野の牧草地のために哀歌を唱える。そこは、焼き払われて通る人もなく、群れの声も聞こえず、空の鳥から家畜まで、みな逃げ去っているからだ」と語ります。

 

昨日の箇所で、エレミヤの頭が水の入ったバケツのように涙に溢れている姿を見ましたが、彼の涙はもちろん同胞の苦難への涙でもありますが、それ以上に神様の御思いに満たされている、神様の悲しみ、悲痛な思いが彼の内に溢れかえっている、神様は私たちのために悲しまれているのです。ここで「私」エレミヤと、「わたし」神様のことばが一つになるように言葉が交わされているように、神様の悲しみがそこに溢れていたのです。

 

今エレミヤに見せている風景はいわゆるバビロン捕囚の姿です。かつての山々は崩れ去り、その栄光は失われてしまう。かつてシェバの女王を含め、諸外国から多くの人たちがソロモンのその宮殿、またそのうちに輝く神様の栄光を仰ぎ見たいと多くの人が訪れた、あの栄光あるイスラエルは崩れ去ってしまう、いつかは回復するであろうと思われていたのに、「荒野の牧草地」のようになってしまった。青草を茂らせていた牧場は焼き払われ、不毛の地となり、空の鳥から家畜まで逃げ去るほどに、そこに彼らの休まる場所はなくなってしまったのです。

 

これは今目の前で起こっていることを見ているのか、それともこの先に起こることを見せられていることなのか、微妙ですが、いずれにしましても神様はこのやがて来る日をエレミヤに見せつつ、悲しまれているのです。なぜこんな日が来なければいけないんだ、と。

 

神様が「わたしはエルサレムを石くれの山とし、ジャッカルの住みかとする。ユダの町々を荒れ果てさせ、住む者もなくする」と仰り、神様がそうする、というなら、それは神様が彼らを守らなかったから悪いのか?そうではないのです。そもそも神様は悪いものを与え、悪いもので満たす方ではなく、神様は良いものを与えたい神様なのです。すべてのよきものをあなたに備えられているはずなのです。焼き払われ、何もない人生ではないはずです。

 

事実神様が「知恵があって、これを悟ることのできる者はだれか。主の御口が語られたことを告げ知らせることのできる者はだれか」と語られるように、本来は知恵のある人、いや神様の恵みがそこに満ち、神様は預言者などを通して様々語られ、また神様が共におられることを存分に現されてきた、彼らと共におられたのです。しかし、これは私たちにも起こりえる問題なのですが、「彼らは、わたしが彼らの前に与えたわたしの律法を捨て、わたしの声に聞き従わず、それに歩まず、彼らのかたくなな心のままに歩み、先祖たちが彼らに教えたバアルに従って歩んだ」のでした。ここに問題があったのです。

 

いやなんで神様の言うことを聴かなければいけないの?と言う人もいるかもしれませんが、そもそも、律法の本質は私たちの幸せのために与えられたものなのです、神様から。人間が自分の都合のために、自分の利益のために造ったものではない、あなたが神様にある最高の恵みの中、とこしえに幸せに生きること、それがこの律法にあったはずです。神様がモーセに律法を与えた時、「きょう、私が命じておいた主のおきてと命令とを守りなさい。あなたも、あなたの後の子孫も、しあわせになり、あなたの神、主が永久にあなたに与えようとしておられる地で、あなたが長く生き続けるためである」と仰られた通りです。神様はあなたに幸せになってほしいからこそその律法を与えられたのです。

 

ただ、ただあれをしなければいけない、これをしなければいけない、というふうにとらわれていたら、そこには命はありません。正確にはその中に働かれている神様を求める、神様との関係に生きる事なのです。神様を求める事なのです。そこから神様の恵みが溢れる、幸せが溢れるのです。「法」と書いてあるから、何か法律のように感じるかもしれませんが、神様はいつも恵みを注いでくださっている、あなたに幸せになってほしいと恵みを注がれているのです。あれをしたら特別何かいいことをしてあげるよ、ではなく神様も最善を尽くしてあなたを愛し、あなたに恵みを注がれているのです。その恵みに満ち溢れる時、本来↑で語られているような荒野の牧草地や、焼き払われた通りにはなりえないのです。

 

イエス様はその律法は「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」と、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」とに集約されると仰られました。結局のところそこに行きつく、と。それが律法であり、「預言者」、そうエレミヤなどを含めた預言者たちが訴えているところはここに集約されるのです。神様は心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くし、いのちを尽くしあなたを愛される、その愛で満たされるのです。そして本来隣人となりえない、神様から離れていった私たちをそれでも隣人と呼び、愛してくださるのです。愛が注がれるのです。それを、神様を愛する、その愛で結ばれた関係において豊かに溢れることを神様は願っておられるのです。焼き払うような死んだものではない、あなたの内に根深く支配する何かバアルでもない、罪やサタンでもない、神様ご自身で満ち溢れさせたいのです。

 

神様はある時モーセという人の口を通して「エシュルン(イスラエル、そして私たち)よ。神に並ぶ者はほかにない。神はあなたを助けるため天に乗り、威光のうちに雲に乗られる。昔よりの神は、住む家。永遠の腕が下に。あなたの前から敵を追い払い、『根絶やしにせよ』と命じた。こうして、イスラエルは安らかに住まい、ヤコブの泉は、穀物と新しいぶどう酒の地をひとりで占める。天もまた、露をしたたらす。しあわせなイスラエルよ。だれがあなたのようであろう。主に救われた民。主はあなたを助ける盾、あなたの勝利の剣。あなたの敵はあなたにへつらい、あなたは彼らの背を踏みつける」と語られました。

 

神様の御霊が溢れるところに、何ものもあなたを焼き払うことができるものなどいない、神様はあなたの救いとなられる方なのです。神様がその御腕をもって守られ支えられ、あなたを神様ご自身の内に住まわせてくださる、神様の恵みで満ち溢れさせてくださるのです。神様が共におられるからこそ、そこに私たちも幸せなものよ、と言っていただけるほどの恵みが溢れるのです。神様ご自身があなたの盾となり守られ、共に世の思い煩いや罪、サタンと戦ってくださるのです。

 

見えてきたでしょうかね、なぜ焼き払われるようなことになったのか。なぜ苦しみに合うのか。神様はあなたを苦しめたい方ではないのです。私たちは何かあると神様が悪い、と神様のせいにすることがありますが、そうでしょうか。神様はご自身が住まわってあなたを幸せにしようとしてくださっているのに、養ってくださっている、最高のものを注ごうとしているのに、自分は自分、好きなものを選んで、好きに生きるから、といいところどりだけをして、自分の都合の悪いことがあると、神様を排除する、神様を追い出し、好きなものを置く、自分を満たすものを置く、下手をすれば自分が基準だ、と自分を神のように置く。その先に何が待っていますか?カオスですよ、そんなことをしていれば。

 

神様は懲らしめられてばっかり、とある人は言うかもしれませんが、しかしその瞬間あなたの内に神様ではないものを置いていませんか?そもそも問題や罪、それらのものがあなたに突き刺さっていれば、それは痛いですよ。結局あなたが良かれと思っておいたバアル、神的な何かはあなたを救い出すことはできず、あなたを傷つけ苦しめる。

 

しかし神様はそのとげを抜かれ、ジャッカルや世の様々な思い煩い、罪に支配された、焼き払われた町を、あなたを回復させるために神様は見捨てずに、御子イエス様を遣わされたのです。あなたの内にある罪を焼き払い、洗い聖めるために。私たちの負うべき罪の罰を、御子イエス様が身代わりに背負われ、十字架に架けられ、罰せられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、死んだ町、いのち、あなたは聖められ、神様の喜びで溢れる、聖霊様で満ち溢れる場所と変えていただけるのです。私たちがこのイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る時。

 

すべてのリバイバルはこの悔い改めから始まります。やっぱりあっちが言い、こっちがいい、という思いを取り除き、神様の霊で満たしていただこうではありませんか。焼け焦げた風ではなく、聖霊様があなたの内に満ち溢れますように。この聖霊様の住まわれる、満ちた街には食べ物がなくなるのではなく尽きることのない恵みが溢れているのだから。比べることのできない、比べる必要のない神様の恵みが。イエス様のいのちにあって取り戻されたこの命、もう他のものに支配させることなく、いつも神様の朽ち、神様ご自身から溢れ出る恵みをいただき歩もうではありませんか。永遠の神様の恵みを今日も求めようではありませんか。