―涙― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「ああ、私の頭が水であったなら、私の目が涙の泉であったなら、私は昼も夜も、私の娘、私の民の殺された者のために泣こうものを。ああ、私が荒野に旅人の宿を持っていたなら、私の民を見捨てて、彼らから離れることができようものを。彼らはみな姦通者、裏切り者の集会だから。彼らは舌を弓のように曲げ、真実でなく、偽りをもって、地にはびこる。まことに彼らは、悪から悪へ進み、わたしを知らない。―主の御告げ―おのおの互いに警戒せよ。どの兄弟も信用するな。どの兄弟も人を押しのけ、どの友も中傷して歩き回るからだ。彼らはおのおの、だまし合って、真実を語らない。偽りを語ることを舌に教え、悪事を働き、依然として悔い改めない。彼らはしいたげに、しいたげを重ね、欺きに欺きを重ねて、わたしを知ろうともしなかった。―主の御告げ―それゆえ、万軍の主はこう仰せられる。『見よ。わたしは彼らを溶かしてためす。いったい、わたしの民の娘に対し、ほかに何ができようか。彼らの舌はとがった矢で、欺きを語る。口先では友人に平和を語るが、腹の中では待ち伏せを計る。これらのために、わたしは彼らを罰しないだろうか。―主の御告げ―このような国に対して、わたしが復讐しないだろうか。』」

エレミヤ書9章1-9節

 

涙は〇の武器だ、と昔言っていた元総理がいましたが、涙を流すことは男性であろうと女性であろうと悪いことではありません。感情表現の一つですから、なんのおかしなことでもないのです。喜びの涙、悲しみの涙、色々ありますが、そうして人らしくあれるんでしょうね。神様は人ではないんですけど、やはり悲しむことを悲しまれ、喜ぶことを喜ばれる。イエス様も、悲しい時には涙を流されましたし、感情があるんです。それほどに真剣に私たちを愛してくださっているのです。あなたが命を失うことを悲しまれ、あなたが命を得ることを喜ばれる神様が今日もあなたを待っている。その愛を注ごうと。今日私たちは神様に帰ろう。

 

さて、古代イスラエル王国において、北イスラエルは捕囚され、南ユダを何とか盛り返していたヨシヤ王が殺害されて後、エジプトの傀儡の王エホヤキムが王になったBC607年頃、神様がエレミヤを通して語られたのが↑になります。ここまで神様は私たちに悔い改める、心から神様を求め帰ることを訴えてきました。神様ご自身の、本物の恵みに立ち返るように。地にあるもではなく、まことの天の神様を求めよう、と。倒れたあなたを起き上がらせ、新しい季節へと招かれる神様がいるから。神様は今日もあなたの畑を耕して下さっている、その神様の内に生きよう、と。

 

ここまでの神様の預言を聴いたエレミヤは↑で「ああ、私の頭が水であったなら、私の目が涙の泉であったなら、私は昼も夜も、私の娘、私の民の殺された者のために泣こうものを」と告白します。

 

エレミヤという預言者は涙の預言者、と言われています。エレミヤはイスラエルの民が捕囚されていくという現実、いつまでも神様に帰らずにいる彼らの姿を見、滅んでいくそのことを悲しみ涙を流し、それでも語り続ける預言者でした。彼はそれでも泣き足りないくらい悲しんでいる。彼らが自業自得で滅びるのだから、と切り捨てるのでもなく、なんとなく涙をうっすらと浮かべた後に表情が急に元に戻るようなTVの涙でもない、本物の涙に溢れていた、悲しくて悲しくて仕方がなあったのです。ある人はこの↑の最初のことばを、「頭がみんな水のバケツだったら、もっと泣けるものを」と表現しているのですが、もうそれほどに彼の心は涙で溢れていたのでした。

 

エレミヤは語れば語るほどに民に裏切られ、偽預言者が彼を否定し、ついには石で殺されそうになったり、幽閉されたりと、何度も死にそうになります。彼はそれが悲しいのではない、自分が何でこんな苦しめられなければいけないんだ、という事に対して怒っているわけではない、自分の運命を悲観しているわけではない、むしろ彼の心に溢れているのは、民が神様なしでも大丈夫、と知らず知らずのうちに離れていき、神様の恵みを失ってしまっていることを、他人事と考えずに、悲しんだのです。

 

でも、そういう人も確かにいるけどそれが?と思う人もいるかもしれませんが、彼は預言者なのです。神様から遣わされたものであり、神様のスポークスマンのような存在と言えばわかりやすいかもしれませんが、神様の思いと彼の思いはある意味でつながっているのです。彼の思い、彼の内にある涙は、神様の涙。神様の思いが彼の内にあるのです。神様のみことばが、神様の思いが彼の内に溢れ、それはもうとどまるところを知らないほどに涙でいっぱい、悲しみでいっぱいなのです。

 

エレミヤは「私は昼も夜も、私の娘、私の民の殺された者のために泣こうものを」とさらに続けていますが、神様の思いに溢れたエレミヤにとって、いや神様にとって昼も夜も関係ない、「私の」娘、「私の」民を思わない時はないのです。こんな好き勝手にしている民、それでも神様にとっては「わたしの」娘であり、民なのです。神様の家族・子供なのです。その彼らを思わずにはいられないのです。昼も夜も。神様は同情心でエレミヤの心を見たいしているのではない、同情心で彼らに涙をしているわけではない、心から我が子のために悲しまれているのです。

 

我が子が悲しみ辛いところに落ちて、悲しまない親はいません(まあ現実はそういう方もいるのが残念なところではありますが)。神様は歴史を通して語り続けています。それは昔にとどまらず、今も、これからも。それほどに私たちのことを思ってくださっている、語り続けている、生きてほしいと願っておられる。だから神様は時に御使いを遣わし、人となって生まれる前のイエス様を遣わされ、ついには人としてイエス様を生まれさせてくださった。神様は黙ってみているだけ、見過ごされる方ではなく、その愛を実行に移されるのです。

 

そういえば、イエス様を慕っていたマルタ・マリヤ・ラザロという姉弟がいたのですが、ある日弟のラザロが死に駆け付けたイエス様は「イエスは涙を流された」と周りの人が見てもわかるほど、鮮明に記憶に残るほどに涙を流された、という事がありました。イエス様はラザロをそのあと生き返らせるのですが、イエス様はそれでも人の「死」という現実を悲しまれた、そして罪の現状を、罪がもたらす死という問題を悲しまれたのです。それを知らずにさ迷う人々を悲しまれたのです。イエス様は「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか」とラザロが死にそうだ、という知らせを聞いたときに仰られていたのですが、その悲しみの涙を涙で終わらせず、悲しみを喜びを、死をいのちに変えるために、イエス様はよみがえらなければいけない、死ななければいけない、その道を進めていく事になるのです。あの十字架への道を。

 

話を戻し、エレミヤはなお「ああ、私が荒野に旅人の宿を持っていたなら、私の民を見捨てて、彼らから離れることができようものを。彼らはみな姦通者、裏切り者の集会だから。彼らは舌を弓のように曲げ、真実でなく、偽りをもって、地にはびこる。まことに彼らは、悪から悪へ進み、わたしを知らない」と語ります。見捨てられるなら、どれだけ楽なことでしょうね。でも、仕方がないからしているわけではないのです、エレミヤは。それでも民を見捨てない神様が何とか彼らに生きてほしい、と神様はエレミヤをイスラエルの民のもとに遣わされるのです。最後の最後まで神様は語り続けるのです。今、彼らは神様の真実の愛に気づかずに現実ばかりを見ている、偽りに満ちていると言いますが、逆に民もまた偽りに支配されている、神様の真実の愛から目をそらさせる偽預言者たちのことばによって。

 

神様はその偽りを、悪を、死を変えたいのです。その集会を、彼らを神様の愛が溢れる場所に変えたいのです。離れることができるなら離れたい、でも神様は見捨てることができない、その重いがエレミヤの内に溢れかえっているのです。神様の思いが彼の内を支配し、彼はその神様の思いを知るのです。ここまで裏切っていてもそれでも神様は遣わし続ける。

 

そこで神様は「―主の御告げ―おのおの互いに警戒せよ。どの兄弟も信用するな。どの兄弟も人を押しのけ、どの友も中傷して歩き回るからだ。彼らはおのおの、だまし合って、真実を語らない。偽りを語ることを舌に教え、悪事を働き、依然として悔い改めない。彼らはしいたげに、しいたげを重ね、欺きに欺きを重ねて、わたしを知ろうともしなかった。―主の御告げ―それゆえ、万軍の主はこう仰せられる。『見よ。わたしは彼らを溶かしてためす。いったい、わたしの民の娘に対し、ほかに何ができようか。彼らの舌はとがった矢で、欺きを語る。口先では友人に平和を語るが、腹の中では待ち伏せを計る。これらのために、わたしは彼らを罰しないだろうか。―主の御告げ―このような国に対して、わたしが復讐しないだろうか。』」と告げられます。

 

兄弟を信用するな、という言葉は強烈ではありますが、何が真実で正しいのかをしっかりと知る必要があります。あの人がああ言っているから信じてみるか、ではなく、神様は何を語られているのか。口先だけで、本当にその人を生かすことを語っているのか。それともあなたに生きてほしいと、真実を語るか。神様は真実の涙をもって愛し、語られ、行動されます。あなたの魂を奪う者たちと戦うため、復讐するため、あなたを取り戻すために、神様は御子イエス様を遣わされたのです。なぜこんな神様を神様とも思わず、互いに悪を行うようなものたちを救わなければいけない?と見捨てるわけでもなく、最後まで神様はあきらめなかったのです。

 

それでも何とか彼らに神様の愛を知ってほしいと神様は御子イエス様を遣わされ、その間に住まわせ愛を現されました。先程のラザロの話もその中の一つの出来事です。イエス様は真剣だったのです。神様は真剣な思いをもって私たちを救おうとされたのです。しかし民は神様のもとに帰らず、ついにイエス様は私たちの罪を身代わりに背負われ、十字架にかかられ罰せられ、死なれたのです。神様はイエス様をただ一時的な解放のために遣わされたのではない、あなたが神様から離れて死にゆく、その死をいのちに変えるために来られたのです。イエス様は自信を十字架に架け、裏切り罵る民を見ても罵り返さず、十字架から降りれば信じると言われても十字架から降りることはなかった。見捨てて天に帰ることもされなかった。ただただ、私たちがこの十字架によって神様に立ち返り、いのちを得てほしい、と最後までその愛を実行されたのです。そして死なれた。しかし3日目によみがえらされたことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪は赦され、神様の子とされるのです。そして罪に勝利されたのです。

 

偽り、罪に満ちた私たちが神様のものとして変えられる。イエス様の涙、裂かれたみからだと血潮によって私たちは新しくされるのです。あなたの涙は、喜びに変えられる、神様があなたの内を神様でいっぱいに、神様の恵みで満たされるのです。これが世の何に勝ることができるでしょう。あなたのためにいのちを持ってまで愛されたこのイエス様の救いに勝るものはありません。世の情勢、罪の、サタンのささやきに耳を貸している場合ではありません。私たちは今こそこの神様の栄光を待ち望もう。真実なる神様の愛が全地に満ちることを祈ろうではありませんか。罪やわが想いに支配されるのではなく、いつも私たちは神様で満たされ、喜び歩もう。神様の広げてくださったこのいのちに信頼し。