―あい歌― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「『…子どもたちはたきぎを集め、父たちは火をたき、女たちは麦粉をこねて【天の女王】のための供えのパン菓子を作り、わたしの怒りを引き起こすために、ほかの神々に注ぎのぶどう酒を注いでいる。彼らはわたしの怒りを引き起こすのか。―主の御告げ―自分たちを怒らせ、自分たちの赤恥をさらすためではないか。』それで、神である主はこう仰せられる。『見よ。わたしの怒りと憤りは、この場所と、人間と、家畜と、畑の木と、地の産物とに注がれ、それは燃えて、消えることがない。』イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。『全焼のいけにえを、あなたがたのほかのいけにえに加えて、その肉を食べよ。わたしは、あなたがたの先祖をエジプトの国から連れ出したとき、全焼のいけにえや、ほかのいけにえについては何も語らず、命じもしなかった。ただ、次のことを彼らに命じて言った。【わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしは、あなたがたの神となり、あなたがたは、わたしの民となる。あなたがたをしあわせにするために、わたしが命じるすべての道を歩め。】しかし、彼らは聞かず、耳を傾けず、悪いかたくなな心のはかりごとのままに歩み、前進するどころか後退した。あなたがたの先祖がエジプトの国を出た日から今日まで、わたしはあなたがたに、わたしのしもべであるすべての預言者たちを、毎日朝早くから、たびたび送ったが、彼らはわたしに聞かず、耳を傾けず、うなじのこわい者となって、先祖たちよりも悪くなった。あなたが彼らにこれらのことをすべて語っても、彼らはあなたに聞かず、彼らを呼んでも、彼らはあなたに答えまい。そこであなたは彼らに言え。この民は、自分の神、主の声を聞かず、懲らしめを受けなかった民だ。真実は消えうせ、彼らの口から断たれた。【あなたの長い髪を切り捨て、裸の丘の上で哀歌を唱えよ。主は、この世代の者を、激しく怒って、退け、捨てたからだ。】それは、ユダの子らが、わたしの目の前に悪を行なったからだ。―主の御告げ―彼らは、わたしの名がつけられているこの家に自分たちの忌むべき物を置いて、これを汚した。また自分の息子、娘を火で焼くために、ベン・ヒノムの谷にあるトフェテに高き所を築いたが、これは、わたしが命じたこともなく、思いつきもしなかったことだ。それゆえ、見よ、その日が来る。―主の御告げ―その日には、もはや、そこはトフェテとかベン・ヒノムの谷と呼ばれない。ただ虐殺の谷と呼ばれる。人々はトフェテに、余地がないほどに葬る。この民のしかばねは、空の鳥、地の獣のえじきとなるが、これを追い払う者もない。わたしは、ユダの町々とエルサレムのちまたから、楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声を絶やす。この国は廃墟となるからである。その時、―主の御告げ―人々は、ユダの王たちの骨、首長たちの骨、祭司たちの骨、預言者たちの骨、エルサレムの住民の骨を、彼らの墓からあばき、それらを、彼らが愛し、仕え、従い、伺いを立て、拝んだ日や月や天の万象の前にさらす。それらは集められることなく、葬られることもなく、地面の肥やしとなる。また、この悪い一族の中から残された残りの者はみな、わたしが追い散らした残りの者のいるどんな所でも、いのちよりも死を選ぶようになる。―万軍の主の御告げ―』」

エレミヤ書7章18-8章3節

 

私たちは自分の思いを詩にしたり、日本でしたら俳句とか短歌、川柳と言ったところでしょうか、そうしたもので表現します。それを「うた」とも読みますが、あなたの内にはどんな歌があるでしょう。タイトルに「あい歌」と書かせていただきましたが、愛の歌?それとも哀歌?そこには私たちの状態が現れますよね。あなたを哀しみの歌で満たしてはいけない。神様が愛、喜びの歌声に変えてくださるから、だから私たちは神様を求めよう。まことの神様は今日もあなたにその愛を注がれているから。

 

さて、古代イスラエル王国において、北イスラエルは捕囚され、南ユダを何とか盛り返していたヨシヤ王が殺害されて後、エジプトの傀儡の王エホヤキムが王になったBC607年頃、神様がエレミヤを通して語られたのが↑になります。ここまで神様は「…主のことばを聞け。イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。あなたがたの行ないと、わざとを改めよ。そうすれば、わたしは、あなたがたをこの所に住ませよう」と、悔い改める、心から神様を求め帰ることを訴えてきました。神様ご自身の、本物の恵みに立ち返るように。

 

ところがここで、神様は「あなたは、この民のために祈ってはならない。彼らのために叫んだり、祈りをささげたりしてはならない。わたしにとりなしをしてはならない。わたしはあなたの願いを聞かないからだ」と仰られます。なぜそのようなことを言われたのか、それは彼らが「天の女王」を拝んでいることをあげました。これは昨日の分かち合いの中で、ローマではヴィーナス、日本では天照大神という名前であがめられている話をしましたが、知らないうちに日本にまで浸透してきている。サタンはその姿をうまく隠しながら、それこそアダムとエヴァの前に蛇(当時は美しい姿だったと言われている)の姿に変えたりもしました。そうして神様から引き離していく。

 

神様は、そこに大きな問題があることを訴えているわけです。サタンは神様を疑わせ、別なものを拝めばもっとよくなる、神様は何もしないじゃないか、と疑わせて、心を奪っていく、神様の恵みを奪おうとしてくるのです。ただ、神様はそんな存在もしなければ息もない偽神ではない、本物の神様であること、神様を侮るのではなく、本物の神様が、本物の愛を注がれる、これに生きるよう訴えるわけです。

 

ところで、この「天の女王」問題は昨日に続いて↑の箇所でも問題視されているのですが、私はどうもこの「天の」という表現に違和感を覚えるのです。たまに天の母なる神様とか、何かいろんな言葉をつけて拝ませるカルトもいますが、「天の」に続くのは神様以外にはいません。神様はこの点でも訴えているわけです。イスラエルの民は、「天の女王」にいけにえを捧げ、全焼のいけにえをささげている、でも彼らは何も答えないわけです。天の女王でなくてもそうですよ?人は多くの何かを「天の〇〇」と考えて、心を注ぎだし、お金を賽銭として出すわけですが、それらはあなたに答えない。かなった気がする、うまくいった気がするだけ。本質的な大事なものは与えないし、そもそもそれは天からのものではなく、あなたが欲する地上のものでしょう?「天の〇〇」でもなんでもないですよね。

 

神様はここで「全焼のいけにえを、あなたがたのほかのいけにえに加えて、その肉を食べよ。わたしは、あなたがたの先祖をエジプトの国から連れ出したとき、全焼のいけにえや、ほかのいけにえについては何も語らず、命じもしなかった。ただ、次のことを彼らに命じて言った。『わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしは、あなたがたの神となり、あなたがたは、わたしの民となる。あなたがたをしあわせにするために、わたしが命じるすべての道を歩め。』しかし、彼らは聞かず、耳を傾けず、悪いかたくなな心のはかりごとのままに歩み、前進するどころか後退した。あなたがたの先祖がエジプトの国を出た日から今日まで、わたしはあなたがたに、わたしのしもべであるすべての預言者たちを、毎日朝早くから、たびたび送ったが、彼らはわたしに聞かず、耳を傾けず、うなじのこわい者となって、先祖たちよりも悪くなった。あなたが彼らにこれらのことをすべて語っても、彼らはあなたに聞かず、彼らを呼んでも、彼らはあなたに答えまい。そこであなたは彼らに言え。この民は、自分の神、主の声を聞かず、懲らしめを受けなかった民だ。真実は消えうせ、彼らの口から断たれた」と語られます。

 

そんなに求めているならしてごらん、でも彼らは答えないよ、と仰るわけです。あなたの肉をここに注ぎだしても答えない。私たちの心を注ぎだす相手を間違えてはいけないのです。自分たちのつくりだす「天の○○」ではない、あなたを造られ、あなたを愛し、あなたを救われる神様に聴くよう神様は仰られるのです。「わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしは、あなたがたの神となり、あなたがたは、わたしの民となる。あなたがたをしあわせにするために、わたしが命じるすべての道を歩め」と仰られる神様は、あなたの神様として、あなたに語られる、あなたを幸せに導かれるのです。「気がする」レベルではないですよ。神様は存在される方、天の御座におられる方が、かの出エジプトの際、一緒に住まわれ、一緒に進まれたように、神様は、「天の神様」があなたと共におられるのです。

 

イスラエルの民のように、でもこの時はこうしてくれないああしてくれない、と不平不満を言っている場合ではありません。私たちは地にあるものを求めるのではなく、天の神様、あなたの父となられた、神様となられた神様、天の父なる神様をいつも求めようではありませんか。神様は「あなたの長い髪を切り捨て、裸の丘の上で哀歌を唱えよ。主は、この世代の者を、激しく怒って、退け、捨てたからだ」と仰られましたが、私たちの魂を哀歌にしようとする地にあるものではなく、私たちはこれらを退け、捨てなければいけない。あなたの内にある問題、思い煩い、痛み、罪、一切を神様が退けてくださる、新しい愛で、「愛」歌であなたを包まれる。あなたの内に天から恵みを注いでくださるのです。偽物ではない、本物を。

 

↑で、神様は「それゆえ、見よ、その日が来る。―主の御告げ―その日には、もはや、そこはトフェテとかベン・ヒノムの谷と呼ばれない。ただ虐殺の谷と呼ばれる。人々はトフェテに、余地がないほどに葬る。この民のしかばねは、空の鳥、地の獣のえじきとなるが、これを追い払う者もない。わたしは、ユダの町々とエルサレムのちまたから、楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声を絶やす。この国は廃墟となるからである」と仰られますが、このトフェテというところで、彼らは幼児供養をしていたのです。生きたまま、火で焼いていけにえにする。信じられますか?彼らの心はそこまで乱されていたのです。神様は何もしない?だからもうなりふり構わずです。しかし、そこに何があるのか、すべてを失い、荒廃となるだけではありませんか。その果てに何が待っていますか?

 

神様はそれでも滅びゆくあなたを何とか救わんと、あなたの天の神様、父なる神様として、あなたを救うために、御子イエス様を人として生まれさせてくださり、その間に住まわせてくださりました。私たちと神様をもう一度和解、つなぐために。そして私たちの重荷も罪も一切を身代わりに背負われ、十字架に架けられ、私たちの罪の刑罰をその身に負われ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪は赦され、神様の子とされるのです。神様が私たちの父、神様となられるのです。天と地がこのイエス様の十字架によって繋がれ、私たちは地に捕らえられたものではなく、自由にされ、神様の恵みに生きるものとされる、見捨てるのではなく招かれたのです。

 

イエス様は今日、あなたの哀歌を、叫びを知っておられる。今私たちは誰に心を注ぎだすでしょうか。荒廃した中を私たちはさ迷うのではなく、この荒廃した地に神であられるのに人となってまで降りてこられあなたを探し、この地を、この命を新しくされた、もう一度神様の恵みのもとに招いてくださったのですから、私たちはこの神様の広げられる御国の中を歩ませていただこう。哀しみの叫びを喜びの歌に変えられる神様を今日も求め歩みたいものです。さて、あなたの神様は、誰ですか?