―本当にすごいのは― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「この人が、ペテロとヨハネにつきまとっている間に、非常に驚いた人々がみないっせいに、ソロモンの廊という回廊にいる彼らのところに、やって来た。ペテロはこれを見て、人々に向かってこう言った。『イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち、私たちの父祖たちの神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。あなたがたは、この方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。そのうえ、このきよい、正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。…』」

使徒の働き3章11-16節

 

私たち人間は様々なことを誇ります。みなさんは何を誇るでしょうか。自分の経験?成功?地位?考えてみますと、何をもって優れていると言えるのか、ですよね。一つ忘れてはいけないのは、この世の何者も勝ることのできない方がいるという事です。それは神様、神様はこの天地万物を造られ、この世界が始まる前から存在しており、保持し、守り、今もその愛を注ぎ続けて下さっているという事。この方があなたを造られ、今日もあなたの内にその御心を注がれている。あなたのために御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えてくださった神様の愛があなたの内に今日も注がれている。この方に勝るものはどこにいましょう。私たちは神様に身を委ね、神様の大いなる御業が現わされることを日々祈ろう。

 

さて、↑はイエス様の昇天後、約束されていた新しい助け主なる聖霊様が降臨され、教会が誕生した、それから少し経ったある日の話です。使徒ペテロとヨハネが宮に祈りに向かう途中、生まれつき足の萎えた男性と出会い、彼をイエス様の御名によって癒した、立ち上がらせた後の話です。彼はペテロとヨハネと一緒に宮について行きます。

 

そこでこの出来事を見た人たちはソロモンの廊という回廊にいるペテロたちのところにやってきます。そこでペテロは「イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか」と彼らに言います。彼らはペテロやヨハネに優れた何か力があるから、この男性を癒したかのように見ていますが、そうではない、というのです。むしろペテロは施しを求める彼に向けて「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、立ち上がって(復活のいのちに)歩きなさい」と言って、彼の右手を取って立たせると、たちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだし、ついには神様を賛美したのです。

 

この男性が癒されたのは、使徒たちが優れているから、彼らに何か特別な力があるから癒されたのではない、もちろん癒しの賜物というのもあるのですが、その根拠はその人が特別な力がある、という事ではないのです「イエス様の御名」に力があるのです。イエス様の御名、イエス様の十字架と復活による救い、このイエス様に悔い改め立ち返る、その時に与えられる復活のいのち、その復活のイエス様がはたかれる、聖霊様の力によって癒しが起こったのです。

 

この癒された男性をよく見てみますと、彼は癒されてラッキー、ではなく、「神様を賛美し」て、さらにペテロとヨハネについて行ったのです。宮に、ここに生きよう、神様のいのちの内を歩もうと決断したのです。彼は何か偶然癒されたのではない、彼の内に神様の驚くべき力が働き癒された、これは人のわざ、力ではない、神様の力なんだと知り、神様を賛美したのです。

 

ペテロとヨハネは自分たちの力による癒しではないことはもちろん知っていましたし、そのように誇ることはなく、むしろ自分たちの弱さを知っていました。イエス様の十字架を前にして逃げ出したこと、ペテロに至ってはこともあろうに、いざイエス様が捕まれば、自分が捕まることを恐れて3度にわたってイエス様を知らない、と否定し、3度目には呪いをかけてまで否定した。自分のこの罪がイエス様を十字架に架けたことを知っていたのです。

 

しかし、彼は変えられたのです。復活のイエス様が彼に会いに来てくださり、悔い改めに導いてくださった、そして彼はイエス様にある新しいいのち、イエス様の御名によって罪赦され、神様の子とされた。彼にイエス様は息を吹きかけ、生きたものとされ、聖霊様の降臨によって、この神様の霊に満たされた、聖霊様に導かれる者へと変えられたのです。彼が優れていたのではない、彼の内に働かれる神様が素晴らしいのだ、と。

 

一つ癒しについて大事なことを話さなければいけません。癒しの賜物というのはたしかにあるのですが、中には癒される人も癒されない人もいます。それで癒されない人を見て、その人の不信仰、不信心ゆえに癒されないんだ、と裁く人がいますが、それは違います。使徒たちでさえ癒されない人たちもいました。初代教会に大きない影響を与えたパウロという人でさえ、何度も祈っても癒されることはなかった病気がありました。また、死に至る病にかかった人もいました。理不尽に殺された人もいました。彼らが不信仰だったのですか?本当に優れているのは誰なのか、癒しのもとはどこにあるのか、もう一度思い出してほしいのです。

 

ペテロは彼らが「信心深いから」この癒しがあったのではない、とはっきりと言っています。ペテロが語っているのは癒しは彼らの力ではなく、神様からきている、神様の力が彼を覆って起こったことなんです。最大の癒しはイエス様の救いをいただくこと、罪赦され神様の子とされること、それこそが最大の癒し、新しい命へと代えられる、死から命へ変えられるのですから、これ以上の癒しはありません。そのうちに癒しがあればハレルヤ、なくてももっと神様が自分が思う以上のことをされると信じてハレルヤ、なのです。あなたは、本当の癒し、救いを求めていますか?その癒された、救われたいのちのうちに、わたしの願うことではなく神様の御心がいつもなることを求めていますか?

 

ペテロは「…あなたがたは、この方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。そのうえ、このきよい、正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです」と語りました。私たちは今、イエス様の御名によって立ち上がらせていただいたものであることを忘れてはいけません。イエス様を十字架に引き渡し十字架に架けたのは、ペテロを追いかけてきた人たちもそう、ペテロもそう、私たちもイエス様を十字架に架けたのです。

 

ペテロは自分もイエス様を十字架に架けた一人なんだ、と言うのです。しかしその自分をイエス様が赦し、イエス様の御名によって今立ち上がらせていただいた、復活のいのちが与えられ、これに生きさせていただいている、と告白するのです。私たちが強いのではない、自分の思い通りになるから素晴らしいのではない、私たちのためにいのちさえ惜しまず与えてくださった、このイエス様の十字架と復活によって与えられたこのいのちが素晴らしい。癒しはその一つ、私たちは今何を求めていますか?

 

私たちはもっと神様の偉大さが、栄光が現わされることを祈ろうではありませんか。私の願うところを超えた神様の完全なる御業が、御心がいつも現され、溢れ流れることを切に祈ろうではありませんか。見かけだけ立ち上がって、梃子でも自分は自分と座り込むのではなく、イエス様の十字架の御前に立ち返り、このいのちの内を主と共に歩ませていただこうではありませんか。