―赦された喜び― | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「ヨシヤ王の時代に、主は私に仰せられた。『あなたは、背信の女イスラエルが行なったことを見たか。彼女はすべての高い山の上、すべての茂った木の下に行って、そこで淫行を行なったわたしは、彼女がすべてこれらのことをしたあとで、わたしに帰って来るだろうと思ったのに、帰らなかった。また裏切る女、妹のユダもこれを見た。背信の女イスラエルは、姦通したというその理由で、わたしが離婚状を渡してこれを追い出したのに、裏切る女、妹のユダは恐れもせず、自分も行って、淫行を行なったのをわたしは見た。彼女は、自分の淫行を軽く見て、国を汚し、石や木と姦通した。このようなことをしながら、裏切る女、妹のユダは、心を尽くしてわたしに帰らず、ただ偽っていたにすぎなかった。―主の御告げ―』主はまた、私に仰せられた。『背信の女イスラエルは、裏切る女ユダよりも正しかった。行って、次のことばを北のほうに呼ばわって言え。背信の女イスラエル。帰れ。―主の御告げ―わたしはあなたがたをしからない。わたしは恵み深いから。―主の御告げ―わたしは、いつまでも怒ってはいない。ただ、あなたは自分の咎を知れ。あなたは自分の神、主にそむいて、すべての茂った木の下で、他国の男とかってなまねをし、わたしの声を聞き入れなかった。―主の御告げ―背信の子らよ。帰れ。―主の御告げ―わたしが、あなたがたの夫になるからだ。わたしはあなたがたを、町からひとり、氏族からふたり選び取り、シオンに連れて行こう。また、あなたがたに、わたしの心にかなった牧者たちを与える。彼らは知識と分別をもってあなたがたを育てよう。その日、あなたがたが国中にふえて多くなるとき、―主の御告げ―彼らはもう、主の契約の箱について何も言わず、心にも留めず、思い出しもせず、調べもせず、再び作ろうともしない。そのとき、エルサレムは【主の御座】と呼ばれ、万国の民はこの御座、主の名のあるエルサレムに集められ、二度と彼らは悪いかたくなな心のままに歩むことはない。その日、ユダの家はイスラエルの家といっしょになり、彼らはともどもに、北の国から、わたしが彼らの先祖に継がせた国に帰って来る。』」

エレミヤ書3章6-18節

 

人を赦「さない」ということは相当エネルギーが必要です。それはいつまでも憎しみなどによって支配され、疲れる。私もとても赦し難いことをされた時、本当に疲れ、最後はあきらめました。後は神様に委ねます、と。ただ、最近その方が相も変わらずな話を聞いてショックと言えばショックなのですが。そう考えると神様ってすごい、と思います。好き勝手に来て、困った時だけ神頼みな私たちを見捨てず、むしろ私たちを救うために御子イエス様を身代わりに罰して死なせるほどに愛されたのだから。そこに込められた神様の思いはいかばかりか。この神様の溢れんばかりの愛に生かされ、神様と共に歩ませていただきたいものです。

 

さて、↑は紀元前627年、南ユダ王国をヨシヤ王が統治していた頃から紀元前587年、ゼデキヤ王の治世11年目、バビロン捕囚までの間、エレミヤを通して神様が預言していった言葉になります。エレミヤは時代に流されることなく、世の情勢に媚を売るでも忖度をするのでもなく、神様に従い歩んでいた、そんな彼を神様は召し出し、預言者として、この終わりの時代(バビロン捕囚に向かっていく中)、南ユダに向けて今神様は語り始めました。

 

↑の前の預言では、神様がそのような関係に招いてくださっていたのに好きなように離れて神様が結ばせようとしていた実ではなく悲しみの実を結ぶことへの嘆き、世の、罪の奴隷・縄目を負ってしまったことへの嘆き、彼らを何とか命あるものへ変えよう、聖めようとしていること、もう一度キリストの花嫁として迎えようとしてくださる、だから帰っておいで、と訴えるのでした。

 

そんな中、ヨシヤ王の時代に神様はなおエレミヤに「あなたは、背信の女イスラエルが行なったことを見たか。彼女はすべての高い山の上、すべての茂った木の下に行って、そこで淫行を行なったわたしは、彼女がすべてこれらのことをしたあとで、わたしに帰って来るだろうと思ったのに、帰らなかった。また裏切る女、妹のユダもこれを見た。背信の女イスラエルは、姦通したというその理由で、わたしが離婚状を渡してこれを追い出したのに、裏切る女、妹のユダは恐れもせず、自分も行って、淫行を行なったのをわたしは見た。彼女は、自分の淫行を軽く見て、国を汚し、石や木と姦通した。このようなことをしながら、裏切る女、妹のユダは、心を尽くしてわたしに帰らず、ただ偽っていたにすぎなかった。―主の御告げ―」と告げられます。

 

どういうことなのかといいますと、まず背信の女イスラエルは北イスラエル王国、妹のユダは南ユダ王国を指しているのですが、もともとは一つの王国だったのです。しかし3代目のソロモン王の後、王国は分裂しました。北イスラエルは南ユダのレハブアムの重税、高慢について行けずヤロブアムという人について行って分かれたのですが、ヤロブアムは民が結局都もうで、礼拝をしに、南ユダに民が行ってしまうから、このままでは民は自分から離れてしまう、と考え、偶像を作り、それを神だといって拝ませた、そこから北イスラエルは徹底的に崩壊に向かっていくのでした。

 

神様は彼らに何度も立ち返るように、多くの預言者を送っていたのです。神様のところに命があるから、と。語るだけではなく、奇跡もなされ、神様が無意味な、息もない、何もできない偶像ではないこと、生きた本物の神様がいるんだ、と示されていたのです。それにもかかわらず、彼らは神様から離れ、ついにBC722年にアッシリヤによって捕囚されていくのです。そしてそれを見ていたはずの南ユダ、彼らは神様の恵みをたくさん受けていた、北イスラエルの惨状も見ていた、それにもかかわらず、北イスラエルに倣い、偶像崇拝に走っている、これはいったいどういうことなんだ、という流れなのです。

 

両者の共通点を考えますと、↑で神様の目から見た彼らの様子は「これくらいしても大丈夫だろう」と神様を侮っていたことにあります。どうせ神様は赦してくれるでしょう?下手をすれば、偶像は何もできないんだし、この神様も同じなのでは、と侮って好き放題していたのかもしれません。ある意味では神様を軽視していたといいますか、神様のくださったいのちを、恵みを軽んじて自分を失っていたように見えます。

 

神様は「彼女(南ユダ)は、自分の淫行を軽く見て、国を汚し、石や木と姦通した(要するに偶像崇拝)」と仰りましたが、彼らは神様を軽んじるだけではなく、あっちこっちの偽神に手を出していた。それは、これを真の自分の神、とするよりも、あれもこれも手を出して、一つ一つを大事にしていない、軽んじているようです。ある意味では自分が満たされないからあれやこれやと手を出していた。本物のいのちを生きていない、自分の満たされない何かを求め、埋めようとあれこれ走っていたのです。

 

私たちも、自分の満たされない何かを埋めるべくあれこれ求めます。どうせどれも同じだろう、と恥も外聞もなくあれこれ手を出します。下手をしたら神様さえ同列にして、神様を侮る。しかしそもそもの話、あなたの人生を軽んじすぎてはいませんか?そのいのちは偶然なったものではなく、神様から与えられた、神様によって造られた大切な命なんですよ?他の息もなければ自分で動くこともできない「石」や「木」の偶像、偽神的なものを作りすぎてはいませんか?しかし神様は生きておられる方、あなたが作り出したものではなく、神様があなたを造られた、その神様があなたに語られる、あなたを養い、また生かされるんです。

 

私たちは神様から与えられたいのちを軽んじてはいませんか?神様があなたを軽んじず、与えようとしている恵みを他の書物やらパワースポットやら、八百万の神と一緒にしていませんか?あなたに息ある関係、いのちの息吹を注ぎ、本物の息ある、いのちある関係に神様は招かれているのです。神様は「このようなことをしながら、裏切る女、妹のユダは、心を尽くしてわたしに帰らず、ただ偽っていたにすぎなかった」と仰られていますが、神様はそれでも語られるのは心を尽くしてあなたを愛してくださっているからです。偽りの関係ではなく、本物、本物のいのちある関係にあなたを回復させたいと願っておられるのです。

 

その神様の思いが「背信の女イスラエルは、裏切る女ユダよりも正しかった。行って、次のことばを北のほうに呼ばわって言え。背信の女イスラエル。帰れ。―主の御告げ―わたしはあなたがたをしからない。わたしは恵み深いから。―主の御告げ―わたしは、いつまでも怒ってはいない。ただ、あなたは自分の咎を知れ。あなたは自分の神、主にそむいて、すべての茂った木の下で、他国の男とかってなまねをし、わたしの声を聞き入れなかった。―主の御告げ」という↑のことばに現れているのではないでしょうか。

 

なんと北イスラエルの方が正しい、というのです。王国分裂後の時代を見れば、いかに北イスラエルがひどかったかがよくわかるのですが、彼らと南ユダには決定的な違いがありました。それは北イスラエルは自分たちのしていることを悪い、罪深いことと認め、神様の恵み深さを知って神様に立ち返るのです。今北に向けて告げながら、南ユダにも同じように、だから立ち返れ、神様に帰るところに神様の義が、正しさがそこに現され、空しい悲しみや怒り、虚無感に支配されるのではなく、神様の愛がかれらをおおうのだから、と。

 

神様に心から立ち返る時、そこに心からの愛が生まれる。いやそこに神様の赦しというこれ以上ない恵みがあなたを覆うのです。神様の赦しのある所に命あがる。失われた、罪人としての関係ではなく、神様の子というこれ以上ない恵みに生かされるのです。その新しい命に生きるのです。神様の霊がそこに注がれるのです。

 

神様はなお「背信の子らよ。帰れ。―主の御告げ―わたしが、あなたがたの夫になるからだ…彼らはもう、主の契約の箱について何も言わず、心にも留めず、思い出しもせず、調べもせず、再び作ろうともしない。そのとき、エルサレムは【主の御座】と呼ばれ、万国の民はこの御座、主の名のあるエルサレムに集められ、二度と彼らは悪いかたくなな心のままに歩むことはない」と語られます。そのような背信の子らであろうとも、それでも彼らを我が妻、子として迎え入れるよ、と訴えるのです。そして永遠の神様の愛が、彼らを覆う時が来る、と。

 

神様はいつまでも怒り、私たちを捨てるのではなく、様々なものによって失われたあなたをもう一度取り戻す、罪人としてではなく、神様の子として向か入れるため、私たちの思い煩い、罪、一切を御子イエス様に身代わりに背負わせ、十字架に架けられ、罰し、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪は赦され、神様の子とされるのです。永遠の御座に住まわれる主があなたをそこに招かれるのです。神様のいのちが、霊が、恵みが、力が…すべてが溢れ流れる、今あなたに注ごうと神様は十字架から招かれたのです。真心からの愛が、恵みがあなたを覆うのです。

 

私たちの座には誰がついていますか?あれやこれやとっかえひっかえして自分を失う、神様から与えられたいのちを奪わせたり支配されてはいけない。あなたという命を軽んじなかった神様が憐れみ、恵みを注がれる、そのいのちを私たち自身軽んじてはいけません。今こそ私たちは神様に立ち返り、この古い自分を脱がせていただき、新しいいのち、新しい神様の霊によって生かされ、歩ませていただこうではありませんか。