―変えられた人生― | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、『兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか』と言った。そこでペテロは彼らに答えた。『悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。』ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、『この曲がった時代から救われなさい』と言って彼らに勧めた。そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行なわれた。信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」

使徒の働き2章37-47節

 

人は変わるというのはなかなか難しいものです。アルコール中毒などもそう。何かあった時やめようと考える、でも何かのきっかけで戻ってしまう。誰かの助けがなければ変わらない、何か劇的な事があって初めて変わる、いやかえていただけるのです。神様はあなたが神様から離れ、その恵みを失ってしまった、そのあなたを取り戻すためなら、と御子イエス様のいのちを惜しまず与えられた、そこまでしてあなたを取り戻そうとされたのです。私たちは神様に帰ろう、神様のいのちを受け、この神様のくださる一つ一つの恵みに生かされ歩もう。

 

さて、↑は神の御子イエス様が私たちの罪の身代わりに十字架にかかり、死なれ、3日目によみがえられて後、天に昇られた後の話。イエス様の復活から50日、ついにイエス様が約束されていた新しい助け主なる聖霊様が降られ、祈り求めていた一人一人の内にとどまるのでした。その時、弟子たちは上からの大きな力を受け、変えられます。彼らは十字架前に宗教家たちを恐れ逃げ、イエス様が死なれた後、部屋に鍵をかけ閉じこもっているほどにおびえていました。

 

しかし彼らは聖霊様を受け、変えられたのです。もう自分たちが捕まり殺されるかもしれないという事を思わず、大胆に福音を語ります。彼らは「ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです」と大段に語るのです。

 

そんなことを言えばどうなるか、なんて思わなかったのです。しかしこれが大事なのです。当たり障りのないことばが人に救いをもたらすのではない、イエス様の十字架と復活こそが私たちに救いをもたらすのです。

 

今分かち合わせていただいています使徒の働きは聖霊様の働き、聖霊行伝ともいわれるほど、聖霊様の働きが随所に現れます。使徒たちの上にも聖霊様が降られ、彼らは変えられ、大胆に語り始めるのですが、力を受けることがスタート、ゴールではないのです。力を受けたんだ!この力であれをしよう、これをしよう、と結びつけるのも結構なのですが、実は本質が抜けぬことがあるのです。さあ、聖霊様、自分の事業を成功させてください、そのためにあなたの爆発的な力を求めます、はちょっと違うのです。聖霊様の働き、その力の本質は何か奇跡とか、この世的な成功のためではありません。実際それを勘違いして、聖霊様の力を自分の商売のためにお金で買おうとして、結果滅びの道に進んだ魔術師の話もこの使徒行伝の中で出てきます。

 

聖霊様の働きは私たちを救いへと導く大きな力です。そう、目指す先は救いなのです。リバイバル、何かすごい奇跡が起こることではない、本当のリバイバルはその人が救われる事、そのために大きなおどろくべきことが起こる、人の力ではなく、聖霊様の爆発的な力、それを降された神様のご意思によってそれは爆発的に起こるのです。人の意思であれをさせる、これをさせるのではなく、神様のご意思がそこに現されるのです。

 

イエス様が奇跡をおこなわれたのも、その人が神様を知る、救いへと招くために行われたものです。何か、自分の自己実現のために聖霊様、神様、あれしてください、これしてください、ではご利益宗教と変わりません。自分の実現のために神様を利用する、自分の目的が第一なのではなく、神様の御心を求めることが第一です。そこに神様は驚くべきことをされるのです。

 

聖霊様がペテロを通して語られたことは、聖霊を受けて後は好きに生きなさい、ではなく、十字架と復活を語られました。そう、神様の願うことは私たちの自己実現とかそういうものではなく、私たちが救われることです。神様が変えてくださるのです。イエス様のいのちをとしてまで与えられたいのちへと。

 

ではどうしたらいいのか、という民に対してペテロは聖霊様を求めなさい、とは言わなかった、ペテロを通して聖霊様が語られたのは「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです」という事です。

 

見えましたね。聖霊様が誰にでも注がれる、というよりも、私たちが悔い改める事、そして罪を赦していただくために、イエス様の御名によってバプテスマ(洗礼)を受ける事。その時、聖霊様が与えられるのです。自分はイエス様、神様なんてどうでもいい、聖霊様の力だけあれば、自分を成功させる力さえあれば、は成り立たないのです。このイエス様にあって新しくされたこの命の内に主の御心を求める、そのうちに驚くべきことが起こる、信じるすべての人の内に聖霊様が与えられる、私たちは驚くほどに変えられる、そのうちに神様の爆発的な働きが起こるのです。そういう意味で、どんなに人間的に良いと思うことをしても、十字架と復活のないところにはリバイバルは起きません。リバイバル、本当の回復は、イエス様の十字架と復活があるからこそ起こることなのですから。救われて終わりではなく、そこから神様とのめぐみの日々が続くのです。それこそリバイバルされた、聖霊様によって変えられたいのちなのです。

 

聖霊様の働きは何か奇跡的な力のことを言うわけではありません。もちろん、奇跡的なおどろくべきことも起こりますが、その本質は奇跡ではなく、私たちがイエス様こそ主だと知り、私たちが救われる事、救われて終わりではなく、この恵みの内を大胆に生きる、そのために聖霊様は大胆に働かれます。実際、この後、このイエス様の十字架と復活をないがしろにしていた人たちが聖霊様の働かれる命ではなく、イエス様から離れ恵みを失っていく姿がたくさん出てきます。しかしそれで本当にいいのでしょうか、あなたは何を求めていますか?救われて終わり、聖霊様を受けて終わりではなく、ここから始まる命に生きよう。

 

私の卒業した神学校の元学長は、この聖霊様の力について「福音を理解する力」、「敵をさえ愛する力」、「殉教を恐れない大胆な伝道の力」の3点にあることを聖書の中から語りました。私たちは神様を知り、イエス様の救いを受ける、この愛に思いをはせる時、イエス様がどれだけ素晴らしい方なのかを知り、その愛を知った時敵を愛し、また神様を知らない人たちへ伝道する力が注がれるのです。私たちと神様の関係はイエス様の十字架と復活によって癒され、変えられる、リバイバル、驚くべき恵みが起こるのです。

 

イエス様を迫害し、教会を迫害していたパウロという人は聖霊様に触れられ、変えられ、イエス様を救い主として受け入れたのですが、その彼は「神の御霊によって語る者はだれも、『イエスはのろわれよ』と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません」と語りました。パウロは聖霊様に触れられてこそ、イエス様こそ主であると告白できるんだ、と彼自身の体験を通しても語ったのです。イエス様こそ主であることを聖霊様が私たちのどんな歩みの中においても教えてくださる、知らせてくださるのです。

 

神様が御子イエス様のいのちにあって私たちを変えてくださった、この命を喜び歩もう。そして聖霊様の力によってすべての人たちがこのイエス様の救いを知り、イエス様を主と告白し、この新しいいのち、恵みに生きる日が来ること、あなたの遣わされているところどこにおいても私の働きではなく、主の御心が成る、驚くべき神様の恵みが溢れることを祈ろう。聖霊様が働かれるとき、私たちが悔い改め神様に立ち返り聖霊様を受ける時、3千人の救いで終わるのではなく日々その働きは続き、神様に立ち返る人たちが起こされたような驚くべき恵みがあるから。私たちはただとどまって終わるのではなく、この神様から与えられた恵みを↑の使徒たち、この時救われた人たちのように分かち合う、愛をもって仕え合う、支え合う、励まし合うものでありたい。聖霊様の爆発的な働きが全地にあふれ、イエス様の素晴らしい命に全ての人が立ち返り永遠のいのち得ることを祈りつつ。