―いつかあるといいね、と願われたことが実現した日― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。わたしは天と地に、不思議なしるしを現わす。血と火と煙の柱である。主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。しかし、主の名を呼ぶ者はみな救われる。主が仰せられたように、シオンの山、エルサレムに、のがれる者があるからだ。その生き残った者のうちに、主が呼ばれる者がいる。」

ヨエル書2章28-32節

 

人の歩みはそれぞれ。だから、なんだ他の人はいい目を見ているのに自分にはないの?と思う人もいます。それを否定するのもなかなか難しいところがあるのですが。ただ神様は私たちを不公平に愛される方ではない、神様はそれぞれにそれぞれへの計画を持っている、私たちのタイミングで神様が答えないから、と神様は愛してくれない、と思ってはいけないのです。神様はあなたにいつもその御手を伸ばされている。恵みを注がれているのです。私たちは神様を求め続けよう。神様は驚くべきことをなして下さるから。

 

さて、↑は紀元前840-801年頃、ヨアシュが南ユダを統治していた頃に南ユダに向けて、私たちに向けて、神様が預言者ヨエルを通して語られた言葉になります。ヨアシュの前の王アタルヤの暴虐から救い出された神様が変わらず共にいるから、今神様を覚えよう、と今訴えます。やがて来るイナゴとバッタ、世の様々な問題、罪、サタンにあなたの魂が食い尽くされる前に、立ち返ろう、と。神様が共にそれでもいる、神様の内に救いがある、だから神様を正しく恐れることを、聖なる山、神様のもとに帰ってくるように、と仰られます。ねたむほどに愛される神様があなたを回復させるから、と。

 

そして神様は聖霊様がやがて降臨される預言をされます。これは先日使徒の働きの分かち合いの中で、ペテロが引用した、あのヨエルの預言です。それが、どこかで反故にされることなく確かに実現した、イエス様を十字架に架けた者たちを、裏切った弟子たちを見て神様は取り下げることなく実現したのが、↑のこの預言なのです。

 

神様は「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ」と仰られましたが、成就したのはこの時から830年以上先の話です。この間、北イスラエルは元より南ユダも堕落の道を行き、南北共に捕囚されていきます。また今述べましたような弟子たちの裏切り、群衆も救い主を待ち望んでいながら、自分たちの考えに合わないから、とイエス様から離れていき、ついには神の御子、救い主イエス様を十字架に架けるという暴挙に出た、それでも神様の約束は変わらなかったのです。イエス様が救ってはい、終わり、ではなかったのです。すべての人が新しい霊によって生きる事を神様は願われたのです。聖霊様、新しい助け主なる聖霊様が住まわれ、とどまり、導かれる、その御霊によって、生きるもの、神様の恵みが溢れる本来の命に生きる事を願われたのです。賜物について使徒の働きの分かち合いを含めてヨエル書で触れてきましたが、 語られる何か特別な力というよりも、神様の恵みが全ての人の内に現され、生きる、神様の恵みが、霊が私たちを聖め、整え、導かれるのです。 

 

話は逸れますが、紀元前1440年くらいのこと、エジプトの奴隷として400年ほど捕らえられていたイスラエルの民を救うため、神様はモーセをリーダーにたて、アロンというお兄さんをサポート役に置き、彼らを通してエジプトから救い出します。そしてかつて先祖たちが住んでいた地、再びこの地に帰ると約束されていた地を目指していた旅の途中、様が日々養っていてくださっていた、しかしそれに飽きてきた民が、ある日エジプトではごちそうがあっただのなんだのと不平不満を神様に言い、民のあまりの不満の数々に疲れたモーセは神様にどうしたらいいのか相談をしたのです。

 

その時神様は「イスラエルの長老たちのうちから、あなたがよく知っている民の長老で、そのつかさである者七十人をわたしのために集め、彼らを会見の天幕に連れて来て、そこであなたのそばに立たせよ。わたしは降りて行って、その所であなたと語り、あなたの上にある霊のいくらかを取って彼らの上に置こう。それで彼らも民の重荷をあなたとともに負い、あなたはただひとりで負うことがないようになろう。…主の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる」と語られました。そしてモーセはのことばを民に告げました。そして民の長老たちのうちから七十人を集め、彼らを天幕の回りに立たせると神様は雲の中にあって降りて来られ、モーセと語り、彼の上にある霊を取って、その七十人の長老にも与え、その霊が彼らの上にとどまったとき、彼らは預言しはじめました。そのとき、エルダデとメダデという人が宿営に残っていたのですが、彼らの上にも霊がとど待っていたのですが、その彼らも宿営の中で預言するという出来事が起こるのです。

 

この時、モーセの次のリーダーとなる、従者ヨシュアは彼らの預言をやめさせるようにモーセに訴えるのですが、モーセは「あなたは私のためを思ってねたみを起こしているのか。主の民がみな、預言者となればよいのに。主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに」とモーセがヨシュアに言ったのですが、これがヨエルの時代に約束として与えられ、使徒の時代に成就、今まさに聖霊様の働きがあふれる時代となったのです。

 

モーセが全ての民に、と願っていた時、あまりに多くの人がモーセのところに相談に来ていましたが、神様はそもそも天地創造の時代から含めて神様は一人一人に働かれ、恵みを注がれてきていたはずなのです。神様から離れていった人たちのところにも何とか立ち返ってほしい、とその愛を向けられていました。彼らに対してもそうだったはずです。彼らが気付かないだけで。モーセの願っていたのは、全ての人が何か特別な能力を持つこと(この時は預言をし始めた)ではなく、全ての人がリーダーになることでもなく、全ての人が神様と繋がり生きる事なのです。神様の霊によって生きる事なのです。

 

これまで何度か聖霊様の賜物について分かち合ってきましたが、預言も確かに聖霊様による賜物です。しかし、それは未来「予言」とは違います。神様の語られたことを信じ、語る、それによって自身も生きるのです。神様の霊が導く、神様の語られる言葉に信頼し生きるのです。もちろんその先に起こる神様の「約束」が語られることもあります。しかしその本質は、その神様の約束の前にどう生きるか、神様に信頼して従い歩むか、そこにあるわけです。

 

彼らは、神様と距離がある、個人的な関係にありませんでした。しかし一人一人の内にその霊を注ぎたいのです。使徒たちに注がれたのもそうでしょう?一人一人の上に降り、とどまったのです。年を取っている、若いとかそういうのではない、神様はすべての人を神様ご自身の恵みの内に、いのちの内に招かれているのです。

 

神様は↑で唐突にこの預言を語られたわけではありません。↑の少し前の箇所で神様は「シオンで角笛を吹き鳴らせ。断食の布告をし、きよめの集会のふれを出せ。民を集め、集会を召集せよ。老人たちを集め、幼子、乳飲み子も寄せ集めよ。花婿を寝室から、花嫁を自分の部屋から呼び出せ。主に仕える祭司たちは、神殿の玄関の間と祭壇との間で、泣いて言え。『主よ。あなたの民をあわれんでください。あなたのゆずりの地を、諸国の民のそしりとしたり、物笑いの種としたりしないでください。国々の民の間に、【彼らの神はどこにいるのか】と言わせておいてよいのでしょうか。』」と、仰られていました。

 

神様が、このおふれを出された、呼びかけられた、神様がご自身の「きよめの集会」に招かれた、この命の関係に招かれたのです。老人たちも、幼子も、乳飲み子も、みんなです。花婿も、花嫁も。それぞれ、生活も環境も違う、でも神様が彼ら一人一人の内に聖め、神様の息吹が、聖霊様が満ち溢れ、全ては刷新される、御霊様がそこに満ち溢れ、御霊様に満ち溢れたものへと変えられるのです。

 

モーセの時代もそうですが、神様はその恵みを注がれている、でもそれを一人一人が求めているか、それが問われているのです。ヨエルを通して神様が角笛を吹き鳴らしてお触れを出して、招集するように神様は仰られた、今、神様はあなたに呼びかけられているのです。↑で神様は、「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ」と仰られていますが、確かに実現するのはそこから800年以上先の話ですが、じゃあ神様はそれまでなにもされないのか?ご自身の霊を注がれないのか?いえそうではありません。神様はありとあらゆる人を通して語られたり、奇跡を現されたり、その霊を注がれ奮い起こし、神様と出会った人もいた、神様の恵みを受け取るイスラエルの民以外の人もいたのです。神様は「今」私たちが神様から霊を受け生きる事を願われ、招かれているのです。古い霊、悪霊、サタン、罪の支配から癒され、神様の霊、聖霊様によって生きる事を願われているのです。聖書でも何度も何度も、「御霊によって歩みなさい」と語られています。神様はその個人的な関係に招かれているのです。誰かの宗教ではない、神様はあなたにはあなたへの愛を注がれている、あの人はどうだ、この人はこうだ、と気にする必要はない、神様はあなたという一人の人に神様の霊を注がれるのです。この御霊様の導きにどうして期待せずにいられるでしょう。

 

神様は↑でヨエルを通して「あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。わたしは天と地に、不思議なしるしを現わす。血と火と煙の柱である。主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。しかし、主の名を呼ぶ者はみな救われる。主が仰せられたように、シオンの山、エルサレムに、のがれる者があるからだ。その生き残った者のうちに、主が呼ばれる者がいる」と語られていますが、私たちはこの御霊様によって変えられる、いや神様は変えたいとあなたを招かれている。しもべでも、はしためでも、神様の語られる御言葉、見せられる夢、幻、その語られ、見せられる神様が注がれ、現わされる大いなる愛に生きよ、と今訴えるのです。あなたが大いなる恐るべき日、裁きによって、神様を失い、その霊ではなく世の勢力、罪、サタンに飲み込まれるのではなく、神様の呼びかけ、角笛を聴いて、救われ、生きよ、と。

 

神様は、いつか恵みからね、ではなく、今あなたに生きてほしいと願われ、神様との和解を受けるべく、神様は御子イエス様を私たちの罪の身代わりに十字架に架けられ、身代わりに罰せられ、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人、神様に立ち返る全ての人の罪を洗い聖め、神様の子とされる、新しい命、聖霊様によって満たされるのです。

 

この神様の完全な愛が、イエス様にあって実現し、あなたは新しい息吹を、聖霊様を受け、神様の不思議、大いなる愛に今日生かされています。↑の預言は今のこと、これから起こることともに預言されていますが、私たちは今もこれからもおられ続ける神様に信頼し、神様の不思議、神様の現わされる大いなる御業がなることを祈り続けようではありませんか。イエス様のいのちにあって呼び出された、招かれた聖めの集会が、神様の恵みが展開される癒し、御業に大いに期待しよう。ここを支配するのはサタンではない、聖霊様がここに満ち溢れているのだから。