「『しかし、今、―主の御告げ―心を尽くし、断食と、涙と、嘆きとをもって、わたしに立ち返れ。』あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、主に立ち返れ。主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださるからだ。主が思い直して、あわれみ、そのあとに祝福を残し、また、あなたがたの神、主への穀物のささげ物と注ぎのぶどう酒とを残してくださらないとだれが知ろう。シオンで角笛を吹き鳴らせ。断食の布告をし、きよめの集会のふれを出せ。民を集め、集会を召集せよ。老人たちを集め、幼子、乳飲み子も寄せ集めよ。花婿を寝室から、花嫁を自分の部屋から呼び出せ。主に仕える祭司たちは、神殿の玄関の間と祭壇との間で、泣いて言え。『主よ。あなたの民をあわれんでください。あなたのゆずりの地を、諸国の民のそしりとしたり、物笑いの種としたりしないでください。国々の民の間に、【彼らの神はどこにいるのか】と言わせておいてよいのでしょうか。』」
ヨエル書2章12-17節
人って言っている事とその思っているところは違うことがあってなかなか読めないことがありますよね。本音のところどうなの?と。相手に合わせて話をするのもそうですが。本音、本心で話せるって大事ですよね。神様の前で私たちは自分を着飾ったりしていないだろうか。自分には神様など不要だ、と強がって神様から離れてはいないだろうか。神様はあなたを本当に命ある関係に招いてくださっているのです。御子イエス様のいのちにかけて。そこまでかけて愛された、回復された関係に私たちは生きよう。
さて、↑は紀元前840-801年の時代、ヨアシュが南ユダを統治していた頃に南ユダに向けて、私たちに向けて、神様が預言者ヨエルを通して語られた言葉になります。ヨアシュの前の王アタルヤの暴虐から救い出された神様が変わらず共にいるから、今神様を覚えよう、と今訴えます。やがて来るイナゴとバッタ、世の様々な問題、罪、サタンにあなたの魂が食い尽くされる前に、立ち返ろう、と。神様が共にそれでもいる、神様の内に救いがある、だから神様を正しく恐れることを、聖なる山、神様のもとに帰ってくるように、と仰られます。
神様は今ヨエルを通して「しかし、今、―主の御告げ―心を尽くし、断食と、涙と、嘆きとをもって、わたしに立ち返れ」と告げられます。↑の前の箇所で神様は「シオンで角笛を吹き鳴らし、わたしの聖なる山でときの声をあげよ。この地に住むすべての者は、わななけ。主の日が来るからだ。その日は近い。やみと、暗黒の日。雲と、暗やみの日。山々に広がる暁の光のように数多く強い民。このようなことは昔から起こったことがなく、これから後の代々の時代にも再び起こらない。彼らの前では、火が焼き尽くし、彼らのうしろでは、炎がなめ尽くす。彼らの来る前には、この国はエデンの園のようであるが、彼らの去ったあとでは、荒れ果てた荒野となる。これからのがれるものは一つもない。その有様は馬のようで、軍馬のように、駆け巡る。さながら戦車のきしるよう、彼らは山々の頂をとびはねる。それは刈り株を焼き尽くす火の炎の音のよう、戦いの備えをした強い民のようである。その前で国々の民はもだえ苦しみ、みなの顔は青ざめる…」と、やまだかつてない大患難の時が来る、誰も逃れることがない日が来る、と告げられます。それはイエス様の12弟子の一人だったヨハネもイエス様から啓示を受け黙示録として書き残しています。
ただ、神様は同時に救いの宣言をここでされているのです。↑の前の箇所で言うならシオンの山、神様のおられるところに角笛を吹き鳴らし、招かれている、帰っておいで、と集められているのです。国々はこのように恐ろしい裁きを受けるけど、今、あなたがたは立ち上がれと神様は訴えるのです。立ち上がって、向きを変え、帰っておいで、と。
実はこの神様の訴えはとても深いものがあります。もう知らない、あなたがたはそのまま他の国々と一緒に、他の罪人たちと一緒に滅びてしまえばいい、ではないのです。「しかし」の神様なのです。しかもこの「しかし今」という言葉は、正確に訳すと、「しかしなお、今」なのです。今からでも遅くない、と神様が最後の最後まで待っている。もう大患難の時が訪れ、もう神様の家の扉は閉ざされたのか、と思う中にあって神様はその扉をそれでも開かれ、今なお待っているよ、と訴えるのです。
ただ、神様は後でもいいよ、とは言っていないんですよね。どうせ後で信じても救われるなら別に今じゃなくてもいいじゃん、という人もたまに見かけるのですが、それは少し違います。1章で、イナゴとバッタが食い尽くす預言について触れられていましたが、あなたに与えられているはずの神様の恵みの時を、自分で食い尽くしてはいけない、いつか信じればいい、とあなたの命を世に、罪に、サタンに食い荒らさせてはいけないのです。神様は終わりの時、大患難の時にも確かにその御手を開かれている、でもその前の「今」もなお神様はあなたを待っているのです。そうなる前に、あなたがそのような様々な敵、悪魔に苦しめられる命ではなく、神様の恵みの中生きてほしい、と今、招かれているのです。
知者とも知られる古代イスラエル王国3代目の王ソロモン王はかつて、富、名声など様々なものを得ましたが、それらは結局空しいものだった、そしてその書の最後に「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない』と言う年月が近づく前に。太陽と光、月と星が暗くなり、雨の後にまた雨雲がおおう前に。その日には、家を守る者は震え、力のある男たちは身をかがめ、粉ひき女たちは少なくなって仕事をやめ、窓からながめている女の目は暗くなる。通りのとびらは閉ざされ、臼をひく音も低くなり、人は鳥の声に起き上がり、歌を歌う娘たちはみなうなだれる。…結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである」と書き残します。
いつか信じればいい、と先延ばしにしたところでなにも心の喜びも平安も得られなかったことを、全てを得たかのように人から見られていたソロモンは言うのです。空しいだけだった、と。神様と一緒に歩んでいた時が一番「喜びのある日」だった、と。神様がそれこそ日々を創造、彼の内に作り上げてくださっていた、それこそが彼の喜びだったんだ、と。何の喜びもない日が覆うのではなく、神様の喜び、恵みが覆う一日一日を求める、神様と共に生きる事を訴えるのです。神さまこそが人間にとって、私たちにとってすべて、神様が全てを備えてくださっているのだから、私たちの創造者たる神様に帰ろう、と。
私たちはいつか信じればいいや、と神様との関係を後回しにしてはいけない。あなたを造られた神様はあなたに全力で心を尽くし、神様から離れたあなたをそれでも涙と嘆きをもって心を引き裂かれる思いで、御子イエス様をあなたに与え、身代わりに十字架に架けて罰し死なせてでもあなたを愛することを決断された、選ばれた、その神様を蔑ろにしてはいけません。軽く見てはいけません。神様があなたに与えておられる恵みは、どれだけのものか。なぜ神様が何の罪もない御子イエス様をあなたのために差し出さなければいけなかったのか、それはあなたが今、いのちを得てほしい、あるべき姿に回復してほしい、永遠のいのちに、神様の子として生きてほしい、という思いが溢れていたからではありませんか。私たちは古い自分を断ち、自分が食している世の様々なものから離れ、古い自分、死にゆく自分に涙し、神様に帰ろう。神様はあなたを迎え入れてくださります。
そこに神様が用意されているのは、罪人だったのだからあなたは古い罪人として扱う、ではないのです。神様は↑で「あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、主に立ち返れ。主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださるからだ。主が思い直して、あわれみ、そのあとに祝福を残し、また、あなたがたの神、主への穀物のささげ物と注ぎのぶどう酒とを残してくださらないとだれが知ろう」と仰られています。あなたが引き裂いた心、引き裂かれた心を神様が埋めてくださる、神様の情け深く、憐み深い愛によって、怒りによるあなたとの関係ではなく、御子イエス様のいのちにあって赦された、その愛によって新しくされるのです。災いではなく神様の愛があなたに注がれる、恵みが注がれる、その祝福があなたの内に現されるのです。あなたのために与えられた穀物のささげものと注ぎのぶどう酒、御子イエス様の裂かれた御からだと血潮によって私たちは神様と和解させていただいた、それがどれだけ素晴らしいものなのか、私たちは忘れてはいけません。心を引き裂かれてもあなたを愛された神様、その本音の愛によって建て上げられる関係はいかばかりか。
イエス様は「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者が入るのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです」と仰られました。
イエス様はあなたが口先だけ神様神様と言っているけど、本当の恵みを受けずに嵐で倒れることがないように、口先だけの愛ではなく心、いやいのちを引き裂いてでもあなたを愛されました。私たちは口先だけの、形だけの関係で生きている場合ではありません。神様から引き離されたところに何があるでしょう。離れていけ、と言われてどうなるでしょう。しかしイエス様はそれでもあなたを引き戻されたのです。
↑で神様は「シオンで角笛を吹き鳴らせ。断食の布告をし、きよめの集会のふれを出せ。民を集め、集会を召集せよ。老人たちを集め、幼子、乳飲み子も寄せ集めよ。花婿を寝室から、花嫁を自分の部屋から呼び出せ」と、すべてのものを呼び集めるように、神様に立ち返るように訴えます。神様はすべての悪を断ち切り、聖められた、神様との命の関係に招かれているのです。自分はもう老人だから、若いから、子どもだから、なんてもったいない、今私たちはこのイエス様によって新しくされた、聖められた命を喜び生きよう。神はどこにいるのか、と彷徨う私たちのために、祭壇で、十字架でその愛を惜しむことなく現されたイエス様が、引き離すのではなく引き寄せられた、神様はここにいるんだ、という喜びに。
私たちは今日、形式だけの神様との関係を断つ、卒業し、本気の神様との関係に生きよう。神様は本気であなたを愛し、愛を貫かれる方です。今もなお、終わりの時、艱難の時も。今、あなたの内に建て上げられる神様の愛を心から求めるものであろう。神様は今、今日、あなたを待っておられるから。イエス様のいのちにあって注ぎだされた愛が、恵みが、憐みが、神様の全てが、全力をもって今日も注がれるから、私たちも心から神様を求め、これに生きよう。イエス様の流された涙、愛が今日あなたを生かしてくださるから。
