―もう一度回復を― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「主はヤコブの誇りにかけて誓われる。『わたしは、彼らのしていることをみな、いつまでも、決して忘れない。このために地は震えないだろうか。地に住むすべての者は泣き悲しまないだろうか。地のすべてのものはナイル川のようにわき上がり、エジプト川のように、みなぎっては、また沈まないだろうか。その日には、―神である主の御告げ―わたしは真昼に太陽を沈ませ、日盛りに地を暗くし、あなたがたの祭りを喪に変え、あなたがたのすべての歌を哀歌に変え、すべての腰に荒布をまとわせ、すべての人の頭をそらせ、その日を、ひとり子を失ったときの喪のようにし、その終わりを苦い日のようにする。見よ。その日が来る。―神である主の御告げ―その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。彼らは海から海へとさまよい歩き、北から東へと、主のことばを捜し求めて、行き巡る。しかしこれを見いだせない。その日には、美しい若い女も、若い男も、渇きのために衰え果てる。サマリヤの罪過にかけて誓い、【ダンよ。あなたの神は生きている】と言い、【ベエル・シェバの道は生きている】と言う者は、倒れて、二度と起き上がれない。』」

アモス書8章7-14節

 

現在は「飢饉」という形ではあまり食べられなくなることはありませんが、病気やけが、家庭の事情などで生活困窮者となった時、思わぬ形で食べるのに困るような時が来ます。今まで気にせず、食べられるのが当たり前、と思っていたことがひっくり返される、これが辛いですね。私も大学生になった時に初めて一人暮らしをして、今までは家に帰れば何かがある、でもこれからは自分で用意、造るんだ、と思った時、寂しさと大変さを覚えました。考えてみれば、世の中当たり前の事なんてない、すべては神様が備え、助けてくださっている。神様は、神様の口から出る一つ一つのことば、恵みによって私たちを生きたものにしてくださる、その神様から私たちは離れず歩みたいものです。

 

さて、↑は古代イスラエル王国が分裂して、南ユダをウジヤ王が、北イスラエル王国をヤロブアム2世が統治していた紀元前785年頃の話になります。当時の北イスラエルはある意味では繁栄していましたが、貧しい人たちを虐げ、その格差は大きく広がり、また偶像崇拝によって苦しんでいました。そのような中で神様は、北イスラエルを含めた周辺諸国に対して宣告を行っていきます。ただ裁いて終わりとするのではなく、彼らが選びの民、大切な、愛する子ゆえに見捨てられない、死にゆくことがないように、あなたに生きてほしい、と。そこでアモスに神様は5つの幻を見せ、そのうち4つまで、彼らが世に、サタンに搾取されることなく神様に満たされること、神様がその救いの道を、共にいること、終わりの日が来る時までしっかりと神様につながり続ける事を示されてきました。

 

神様は4つ目の幻、一かごの夏のくだものについての神様のことば、「わたしの民イスラエルに、終わりが来た。わたしはもう二度と彼らを見過ごさない。その日には、神殿の歌声は泣きわめきとなる。―神である主の御告げ―多くのしかばねが、至る所に投げ捨てられる。口をつぐめ」に続けてなおアモスを通して「わたしは、彼らのしていることをみな、いつまでも、決して忘れない。このために地は震えないだろうか。地に住むすべての者は泣き悲しまないだろうか。地のすべてのものはナイル川のようにわき上がり、エジプト川のように、みなぎっては、また沈まないだろうか。その日には、―神である主の御告げ―わたしは真昼に太陽を沈ませ、日盛りに地を暗くし、あなたがたの祭りを喪に変え、あなたがたのすべての歌を哀歌に変え、すべての腰に荒布をまとわせ、すべての人の頭をそらせ、その日を、ひとり子を失ったときの喪のようにし、その終わりを苦い日のようにする」と語られます。

 

ここでは二度と見過ごされない、という厳しさとともに、その時について具体的に言及されています。彼らが富んでいると勘違いし貧しいものを虐げ、搾取し、真実を捻じ曲げてきた、そのことが彼ら自身の内にかえる、まさにそのような状態について神様は話されています。4つ目の幻で、収穫が終わる時、終わりの時について言及されていましたが、その前味のようにこのまま突き進むとどうなるのか、神様は訴えるのです。

 

希望がない、神様は絶望に堕とすために語られているのか?いえ、そうではない、だからこそ悔い改めて生きる事を願っているのです。こうならないように。アモス書でもこれまでも何度も生きよ!と神様はアモスを通して語られてきましたが、実はバビロンに捕囚されたイスラエルの民に向け、神様はエゼキエルという預言者を通して「それゆえ、イスラエルの家よ、わたしはあなたがたをそれぞれその態度にしたがってさばく。―神である主の御告げ―悔い改めて、あなたがたのすべてのそむきの罪を振り捨てよ。不義に引き込まれることがないようにせよ。あなたがたの犯したすべてのそむきの罪をあなたがたの中から放り出せ。こうして、新しい心と新しい霊を得よ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。―神である主の御告げ―だから、悔い改めて、生きよ」と神様は語られています。

 

それでも神様の願われることは、もうそのまま滅びればいい、ではなく、生きる事なのです。そむきの罪を捨てて、立ち返ること。その時、彼らは、私たちは生きたものとなるのです。「新しい心と新しい霊」が与えられるのです。神様が「なぜ、あなたがたは死のうとするのか。わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ」と仰られるように、彼らが、あなたが死ぬことを、神様から離れあらゆる意味で死ぬことを望まれない、それは神様の喜びではない、むしろ生きろ、生きよ!と訴えているのです。我慢して生きよ、といっているわけではないですよ?神様が、新しい心と新しい霊を与え、生きたものにしてくださる、だから帰っておいで、と訴えるのです。

 

新しい霊、と神様は触れられていますが、お気づきでしょうか。ちょうど昨日の分かち合いの中で、新しい助け主なる聖霊様が降られる時「天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った」とありましたよね。天からその風、聖霊様が降ってこられる、神様のご意思でその霊は、新しい助け主なる聖霊様があなたのうちに降られ、響き渡す、↑の預言でいうなら地を震わせるのです。そしてこの天からの響きは全地へと広がっていく。滅びへの震えではない、神様は新しい霊、聖霊様によってあなたのうちを命によって、喜びによって、霊が満ち溢れ、響き渡らせてくださるのです。

 

↑の直前の「一かごの夏のくだもの」の幻の中で、収穫物がどこにいくのか、腐っているから破棄されるのか、それとも神様の食卓、神様の家族へと招かれるのか、それは神様につながっている中で良い実となっていくことを見ましたが、↑で言及されているナイル川のように、氾濫し、また水が引く、それによって地がダメージを受けるような激しい地の揺れによって、世の荒波、罪、サタンの波によって私たちが飲み込まれ、死ぬことがないように、神様は今語られる、新しい心と言いますか、神様の愛そのもの、お心が今あなたに注がれ、あなたの心を奮い立たせ、生きたものとされるのです。生きよ!と。神様がくだものを手入れしてくださり、良い実へと変えてくださるのです。

 

↑で語られている、「真昼に太陽を沈ませ、日盛りに地を暗くし、あなたがたの祭りを喪に変え、あなたがたのすべての歌を哀歌に変え、すべての腰に荒布をまとわせ、すべての人の頭をそらせ、その日を、ひとり子を失ったときの喪のようにし、その終わりを苦い日」のようにならないように、沈む太陽ではなく神様の変わらない愛、義の太陽によってあなたを輝かせ、枯れたものをもう一度潤わせてくださる、悲しみの歌、声を喜びの声に変えてくださるのです。神様を求めるものには、義の太陽が昇り、その翼には、癒しがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回るような喜びへと変えられるのです。

 

子牛は、飼い主が大切に育てます。そしてその子牛はそんな飼い主の足元にすりより、まるで遊んで、と言わんばかりな行動をするそうなのですが、神様は私たちを大切に育ててくださり、そのような喜びの関係に変えてくださるのです。いや、もともと神様がそれだけの愛情を注いでくださっていたことを私たちが気付かないだけなのかもしれませんが。

 

ただ、牛舎にいる子牛でもなんでも、飼い主さんがくれるミルクなどがなければ生きていけません。もちろんお母さん牛もいますが、3か月程度です。人の赤ちゃんだって、両親から離れて生きることはできませんし、誰か育てる人がいなければ自力で生きることはできません。私たちもです。私たちは神様からいただく一つ一つの食物によって生きる、神様が生かして下さっている、日々私たちを養ってくださっているのです。しかしその神様から離れてどうして私たちは生きていく事ができるでしょう。

 

それゆえ神様は↑で、「見よ。その日が来る。―神である主の御告げ―その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。彼らは海から海へとさまよい歩き、北から東へと、主のことばを捜し求めて、行き巡る。しかしこれを見いだせない。その日には、美しい若い女も、若い男も、渇きのために衰え果てる」と語られます。飢饉。しかもただの飢饉ではありません。神様のみことばの飢饉です。今は神様が様々な預言者を通して語られている、何とか悔い改めて生きてほしい、生きよ!と多くの預言者を通して神様は語られているのです。しかし、それがやむとき、どうやって人は神様に立ち返ることができるでしょう。

 

イエス様は「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」と仰られていました。旧約時代も神様はモーセという人を通して語られていたのですが、そのご意思は昔もこの時も、今も変わらない。神様の養い、パンはもとより(パンは自分で、とは言っていない)、御言葉、いや神様の恵み一つ一つによって私たちは生きるのです。生かしてくださるのです。その神様のご意思は昔も今も変わらないのです。

 

イエス様はある時「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません」と語られました。神様との飢饉、断たれた関係によって飢え渇く、枯れ果てていく私たちを救うために、神様は御子イエス様に私たちのこの痛みも悲しみも、何より罪も一切を身代わりに背負われ、十字架に架けられ、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子としてくださるのです。

 

この和解、いのちの関係において神様が尽きることのない恵みによって、私たちはもう飢えることも渇くこともありません。神様がイエス様のこの愛ゆえに、私たちに新しい命を、いのちの息吹を吹き込まれ、あなたのうちに響き渡らせてくださるのです。私たちは飢饉が来ることをだれも望まないでしょう。もう神様から離れることなく、私たちは神様との飢饉という失われた関係ではなく、御子イエス様のいのちにあって今注がれている恵み一つ一つを求め、生かされ、歩みたいものです。神様から離れさ迷い歩くものではなく、神様の導かれる、神様の霊が満ち溢れる命の道を歩み続けようではありませんか。