「神である主は、私にこのように示された。そこに一かごの夏のくだものがあった。主は仰せられた。『アモス。何を見ているのか。』私が、『一かごの夏のくだものです』と言うと、主は私に仰せられた。『わたしの民イスラエルに、終わりが来た。わたしはもう二度と彼らを見過ごさない。その日には、神殿の歌声は泣きわめきとなる。―神である主の御告げ―多くのしかばねが、至る所に投げ捨てられる。口をつぐめ。』聞け。貧しい者たちを踏みつけ、地の悩む者たちを絶やす者よ。あなたがたは言っている。『新月の祭りはいつ終わるのか。私たちは穀物を売りたいのだが。安息日はいつ終わるのか。麦を売りに出したいのだが。エパを小さくし、シェケルを重くし、欺きのはかりで欺こう。弱い者を金で買い、貧しい者を一足のくつで買い取り、くず麦を売るために。』」
アモス書8章1-6節
「一かごの夏のくだもの」と、タイトルをつけましたが、いくら今年の春が暖かいとはいえこの時期に?と思われた方もいますよね。でも、そういう話が今回出てくるので申し訳ありませんね。まあ、夏が終われば次の季節が来ます。神様は季節を定め、また日々この世界を支え、守られています。私たちの季節、辛い季節を変えることができるのも神様、それを終わらせ新しい季節を迎えさせてくださるのも神様です。私たちは神様の喜びの実をそのかごに抱え迎えさせてくださる日を待ち望もう。あなたが神様の喜びあるものへと変えられる日が来ることを祈りつつ。
さて、↑は古代イスラエル王国が分裂して、南ユダをウジヤ王が、北イスラエル王国をヤロブアム2世が統治していた紀元前785年頃の話になります。当時の北イスラエルはある意味では繁栄していましたが、貧しい人たちを虐げ、その格差は大きく広がり、また偶像崇拝によって苦しんでいました。そのような中で神様は、北イスラエルを含めた周辺諸国に対して宣告を行っていきます。ただ裁いて終わりとするのではなく、彼らが選びの民、大切な、愛する子ゆえに見捨てられない、死にゆくことがないように、あなたに生きてほしい、と。そこでアモスに神様は5つの幻を見せ、そのうち3つまで、彼らが世に、サタンに搾取されることなく神様に満たされること、神様がその救いの道を、共にいることを示されてきました。
ところが、北イスラエルの王宮つきの祭司アマツヤがアモスを追い出す、神様の預言を受け付けないといって、預言が一度中断されました。しかしアモスは恐れることなく預言を、神様のことばを語ることをやめません。神様はアマツヤの最後を預言しつつ、それならと彼らを捨てることなく、神様は幻を示し語ることをやめません。
↑で神様は再びアモスに4番目の幻を示さます。神様はまず「一かごの夏のくだも」が「あった」というその状態を示します。そして神様は「アモス。何を見ているのか」と仰られました。「あった」という言葉に私は気になったのですが、これは偶然あったものではなく、神様がアモスに「示された」ものです。それはそこに神様のご意思が確かにあった、という事です。先程も触れましたが、7章の後半で、アマツヤが神様の預言・幻を退けたことによって、もう取り除かれても文句も言えない、そのような状態です、北イスラエルは。しかし神様は幻を、預言をやめてそのままアッシリヤに取り晒させるのではなく、今なお彼らに立ち返る機会を与えているのです。アモスの活動時期は紀元前785年、アッシリヤ捕囚は紀元前722年というところでみますと、まだ60年先です。神様は最後の最後までその御手を伸ばされていたのです。
まだ神様の愛は、神様ご自身はそこにある、あり続けているのです。私たちが苦難困難にある時、神様はどこにいるんだ?と思う時、神様は確かにおられのです。いえ、預言・幻が語られる前から神様はそこにおられたように、神様はそのような苦難にある前から、いや天地創造のはるか前から確かにそこにおられた、あなたの生まれる前から、あなたが生まれて、今に至るまで、そしてこれからも。私たちは今ある、語られる神様にどれだけ信頼しているでしょうか。ただ、神様っているんだ、で終わるのではなく、神様がアモスにこのような状況下、自分を排除しようとする勢力に恐れることなく今、「アモス。何を見ているのか」と語られているように、この神様を見る、求めるように、神様の見せ、語られることに耳を傾けるよう訴えるのです。あなたは何を見ているのか、と。あなたは神様を求めていますか。
話を進めて、神様はここで「一かごの夏のくだもの」をそこに見せます。それを見たアモスに神様は「わたしの民イスラエルに、終わりが来た。わたしはもう二度と彼らを見過ごさない。その日には、神殿の歌声は泣きわめきとなる。―神である主の御告げ―多くのしかばねが、至る所に投げ捨てられる。口をつぐめ」と語られました。
夏のくだもの、とありますが、何で夏のくだものを神様は示されたのでしょう。他のくだものではだめなのでしょうか。神様が見よ、と言ったのですから意味があるのでしょうね。どうしても気になってこの夏のくだものについて調べたのですが、どうも「夏のくだもの」という言葉は、もともとのことばの、それだけで「夏」を意味するそうです。さらに、この動詞は「夏を過ごす」という意味だけでなく、「目を覚ます」という意味もあり、まさに神様は「夏が終わって、目を覚ます」ように、とここで示されているのです。
まあそもそもくだものをかごに取り入れている時点で、その季節の終わりを告げ知らせていることが見えないこともありませんね。夏になったくだものを収穫する。ただ、楽しい季節が終わって次の季節が来るというレベルの話ではないことが、この幻の後半の「わたしの民イスラエルに、終わりが来た。わたしはもう二度と彼らを見過ごさない。その日には、神殿の歌声は泣きわめきとなる。―神である主の御告げ―多くのしかばねが、至る所に投げ捨てられる。口をつぐめ」という言葉から見えてきます。そう、終わりの時が来る、と。
これは非常に厳しいメッセージです。もう彼らの罪を見逃さない、と。だから終わりが来る、だからこそ今、目を覚ます必要があるのです。神様の意思を今ないがしろにしてはいけない。彼らはこれまで見てきたように、神様を蔑ろにし、神様の愛する民をないがしろにしてきた。神様に同じように愛されていた民を神様から引き離し、搾取し、神様の恵みが民は見えなくなった、それだけでも十分ですが、さらに彼らに神様が与えているはずの祝福を奪い取っていた、搾取していた、それを神様はもう見逃さない、というのです。これは彼らだけへのメッセージではないことを私たちはしっかりと受け止める、「見る」必要があります。
ある人は、この夏のくだものが入れられていた「かご」は関係がない、というのですが、神様の見せられたのは、「目を覚ます必要がある」夏のくだものが木で実っているのでも、腐っているのでもない、かごの中に入れられている姿を見せているのです。つまり、収穫されたものです。とった魚や鳥といった生き物を入れるかごです。そのかごに入っているものは何でしょうか。良い実ですか?悪い実ですか?
イエス様はその公生涯を歩まれた中で様々な事を語られましたが、ある日イエス様はまさにここ、北イスラエルの首都、サマリヤに来られました。当時サマリヤといったら雑婚や過去の北イスラエルの歴史から差別されていました。見向きもされない地域となっていたので、ユダヤ人たちはここと交流することを良しとせず、下手をすれば嫌悪感さえ持ったほどでした。どうせサマリヤでしょ?と。しかしサマリヤの人々はいつか来る救い主について多くの語られていたことをしっかりと受け止めていたのです。そして神様を求め続けていたのです。そして、今彼らの求めていたイエス様が彼らを見捨てずに来られたことを喜び、こぞって彼らはイエス様のもとに来たのです。
この時イエス様はある女性と話をしていたのですが、彼女に救いを語られたのであって、何か病気を癒されたとかそういうことをされたわけではありません。もちろん苦しみ悩んでいた彼女に出会い、彼女の悩みを語る前に知ってそれを癒そうとされた、という事はありましたが。彼女は、またサマリヤの人たちにとってイエス様から頂いた実ほど、イエス様と出会ったことほど喜びはなかったのです。神様を求め繋がり続けた彼らは実を結ばず倒れるのではなく神様の恵みの時が来たのです。イエス様のいのちという収穫を得る日が来たのです。
その時イエス様は「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです」と仰られました。
イエス様がここで刈り入れるのは、まさにご自身の御もとと言いますか、永遠のいのち、神様の子として招かれているのです。それこそがイエス様の喜びなのです。「わたしの食物」と仰られるほどの喜びなのです。そうして、蒔くものと刈る者、つまりイエス様もあなたも喜びに満ち溢れるのです。
一方でイエス様は最後の晩餐の時、最後の最後まで彼らの救いを願い語られている時、「だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます」と仰られました。イエス様はあなたが投げ捨てられ、火に投げ込まれることを望まない、↑でいうところの裁きに会うことを悲しまれるのです。先程の逆です。
神様は、確かに刈り入れをなさる時が来ます。あなたの今の実はどのような状態ですか。火に投げ込まれる実?それとも永遠のいのちに招かれる実ですか?神様が「わたしはもう二度と彼らを見過ごさない。その日には、神殿の歌声は泣きわめきとなる。―神である主の御告げ―多くのしかばねが、至る所に投げ捨てられる」と言われたように、あなたが火に投げ込まれるかごではなく、永遠のいのち、永遠の喜びへと招かれるかごへ入れてくださるために、古い、死の季節を命の季節に変えるために、私たちが永遠の裁きにあうことがないように、見過ごさず救うために、神様は御子イエス様を私たちの罪の身代わりに十字架に架けられ、罰せられ、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦され、神様の子とされる、滅びではなく、永遠のいのちへと招き入れられる、その時天でも地でも、あなたにも喜びが満ち溢れるのです。
では、私たちはこの夏の季節を、終わりの時が来るまでどう過ごすでしょう。神様は↑で目を覚ましこれを見るように、訴えています。目を覚まそうではありませんか。あなたは今誰につながり、生きていますか?あなたのために御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えられた神様の愛を疑ったり、離れたりしていませんか?イエス様の喜びがあなたにも満ち溢れることを願われこの愛を実行されたイエス様から今こそ目を離さず、歩みたいものです。アマツヤのように神様を疑い、その御業を止めるものではなく、不平不満には口をつぐみ、神様の御心をもとめるものであろう。今日もイエス様があなたに注がれている愛に信頼して。滅びに向かうはずのサマリアを喜びに変えたイエス様が、今日あなたがイエス様のもとに帰ってくるのを待っているから。