―迷子を命がけで捜された― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。獅子がほえる。だれが恐れないだろう。神である主が語られる。だれが預言しないでいられよう。アシュドデの宮殿と、エジプトの地の宮殿に告げて言え。『サマリヤの山々の上に集まり、そのうちの大恐慌と、その中のしいたげを見よ。彼らは正しいことを行なうことを知らない。―主の御告げ―彼らは自分たちの宮殿で、暴虐と暴行を重ねている。』それゆえ、神である主はこう仰せられる。『敵だ。この国を取り囲んでいる。彼はあなたの権威を地に落とし、あなたの宮殿はかすめ奪われる。』主はこう仰せられる。『羊飼いが、雄獅子の口から、二本の足、あるいは耳たぶを取り返すように、サマリヤに住んでいるイスラエルの子らは、寝台の隅やダマスコの長いすから救い出される。』『聞け。そして、これをヤコブの家に証言せよ。―神である主、万軍の神の御告げ―まことに、イスラエルがわたしに犯したそむきの罪を、わたしが罰する日に、わたしはベテルの祭壇を罰する。その祭壇の角は折られて、地に落ちる。わたしは冬の家と夏の家とを打つ。象牙の家々は滅び、多くの家々は消えうせる。―主の御告げ―』」

アモス書3章7-15節

 

私が小学校5年生の頃、「担任」からのいじめによって一日登校拒否をしたことがあります。親に黙って登校したふりをして3Fの屋根裏に隠れていました。そうしたら、ちょうどその日、近くで誘拐事件が発生しく、連絡もなしに登校してこない私を校長先生も教頭先生も、慌てて町中を探し回ってくれたそうです。結局見つかったのですが、どやされると思ったら、校長先生たちは私の話を聞いていじめをしていた担任に対して相当の注意をされたそうです。まあ、そのせいで余計にその担任から1年間いびられ続けたのですが。それでも校長先生たちには感謝しています。と、私の話はどうでもいいのですが、神様はこのようにさ迷い歩く私たちを見捨てられず、命をかけ、探しに来てくださりました。あなたを救うためならそのありようを捨てられないとは考えずに。今日、神様はあなたを救わんと探されています。あなたはあなたの名前を呼ぶ神様にどう応えるでしょうか。

 

さて、↑は古代イスラエル王国が分裂して、南ユダをウジヤ王が、北イスラエル王国をヤロブアム2世が統治していた紀元前785年頃の話になります。当時の北イスラエルはある意味では繁栄していましたが、貧しい人たちを虐げ、その格差は大きく広がり、また偶像崇拝によって苦しんでいました。そのような中で神様は、北イスラエルを含めた周辺諸国に対して宣告を行っていきます。何とか彼らが神様の恵みに気づき立ち返ってほしい、と願われ神様は、今アモスを通して訴えるのです。たださばいて終わりとするのではなく、彼らが選びの民、大切な愛する子ゆえに見捨てられないから、訴えるのです。

 

神様は↑で「まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。獅子がほえる。だれが恐れないだろう。神である主が語られる。だれが預言しないでいられよう」と語られていますが、本当に気にくわない、なら最初から滅ぼせばいい、でも神様はそれをなさらないのです。預言者などを通して神様は何とか彼らに命を得てほしい、といつも訴えるのです。北イスラエルがいかに不正に満ちたことをし続けていても。

 

思い返してみますと、例えば「ソドムとゴモラの町」への裁きですが、神様はいきなり裁きを降すことはなさりませんでした。そのソドムとゴモラの町に御使いたちが、その目で確かめたい、と言っていた、その御使いたちはまず、その町に住むロトという人の叔父、アブラハムのところに立ち寄ります。そこでもやはり、↑で語られているように、御使いたちは「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか」と話され、アブラハムにこれからソドムとゴモラの町の様子を見て、裁きを降すかどうかを判断されることを語られました。そこでアブラハムは正しい人が一緒に滅ぼされるのはいいのでしょうか?と、正しい人が10人いれば滅ぼさないでほしいというところまで執り成し、御使いも了承しました(ちなみにこの御使いの中に、受肉前・人となってお生まれになる前のイエス様もいらっしゃりました)。

 

神様は、待たれる神様なのです。語られ、何とか命を得てほしい、と願い行動されたのです。そしてソドムとゴモラの町でその様子を見、最後はロトの家族を連れてくるように言いましたが、結局ロトの妻と娘2人のみ一緒に逃げる(妻は途中で引き返したため塩の柱となりましたが)のでした。神様は最後の最後まで待たれたのです。

 

また、もう少し皆さんの馴染みのある出来事を見ますと、ノアの箱船などもいい例でしょう。あまりに地上が乱れ、洪水によって滅ぼされることを神様は決断され、それをノアに告げ、箱船を造るように命じます。ところが面白いことに、もちろん人類初の船ですから時間がかかったというのも分からないことはないのですが、その製造に100年の時間を要します。すぐに滅ぼすことを決断されたのなら、神様ご自身がノアを助け、すぐに完成させることもできたでしょうに、それをなさらなかったのです。民の視点から見れば、100年という悔い改める猶予期間があったようにも見えます。しかし彼らが100年もの間、裁きを覆すほどの悔い改めはなかったのです。神様はあらかじめ語られ、待たれていたことが見えますね。

 

さらに、今北イスラエルに対する脅威となっているアッシリヤ帝国ですが、実は捕囚時より100年ほど前に、神様が彼らに裁きの宣告をされていたのです。このままでは滅びるよ、と。しかもイスラエルを苦しめる国ですから、神様が早々に裁きを降されてもいいはずなのに、神様はむしろ預言者をアッシリヤの首都ニネベに派遣し、「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる」と、当時残虐を極めていたこのニネベの町中に語り続けたのです。悔い改めるように、と。そしてなんと、王様から家畜までみんな断食と悔い改めをし、何と、「彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になった。それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった」、裁きを免れる形となるのでした。その際預言者はこのことがわかっていた、と「私は、あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直されることを知っていたからです」と神様に向かって語りました。

 

神様は情け深く、憐み深い神様、怒るに遅く、恵み豊かな神様なのです。神様は時に確かに厳しいことを語られますし、その報いを、刈り取りをしなければいけないことも確かに私たちにはありますが、むしろ私たちが悔い改め、神様の救い、恵みを刈り取ることを神様は願われている、いのちを、永遠のいのちを得てほしい、と語られるのです。イエス様も裏切られることも、殺されそうになることもわかっていながら、それでも獅子たちの中で、見捨てることなく語られたのです。それはあなたを愛するからです。

 

神様はなお、「アシュドデの宮殿と、エジプトの地の宮殿に告げて言え。『サマリヤの山々の上に集まり、そのうちの大恐慌と、その中のしいたげを見よ。彼らは正しいことを行なうことを知らない。―主の御告げ―彼らは自分たちの宮殿で、暴虐と暴行を重ねている。』」とアモスを通して語られます。サマリヤは北イスラエルの首都ですが、そこにある神殿は、ペリシテ人やエジプト人でさえおどろくほどの暴虐に満ちていたのです。他国にそうされたのではなく、自分たちで、自分たちの宮を汚した、暴虐と暴行で満たしていたのです。しかしそれでも神様は、神様の恵みで満たそうと、立ち返るよう、今語られたのです。あのアッシリヤをかつて変えたように(結局残虐な民に戻ってしまうのですが)。あなたの内側を思い煩いや傷、痛み、罪で見たいしてはいけない、それらを神様のいのちが覆い、癒し、聖めてくださろうと、今訴えるのです。このままアッシリヤ捕囚によって、世の波、サタンの手によって北イスラエルが捕囚、あなたという宮が壊されることがないように。

 

神様はその思いについて「羊飼いが、雄獅子の口から、二本の足、あるいは耳たぶを取り返すように、サマリヤに住んでいるイスラエルの子らは、寝台の隅やダマスコの長いすから救い出される」と語られます。まさに迷い出た羊を神様が救うために、取り戻すために来られる、来られたことがここで語られるのです。そう、イエス様が私たちを救うために来られたのです。

 

イエス様はその公生涯の中で「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです」と、たとえ話をされました。

 

まさにイエス様が、神様であられながらそのありようを捨てられないとは考えずに、罪を犯さないという点を除いて完全に人となって生まれてこられたのです。どんなに裏切られ、罵られ、傷つけられようとも、私たちを見捨てるのではなく、暗闇のどん底、罪の中に、その呪いに沈む私たちを救うため、私たちの罪をイエス様が身代わりに背負われ、十字架にかかられ、死なれたのです。それはたった一人のあなたという人が命を得るためなら、という思いが込められて。天に広がる喜びが、この命がけの救いによってあなたにも広がるように、と。そしてイエス様は3日目によみがえられたのです。そうして、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪は赦され、神様の子として迎え入れられる、この新しい命にあって、あなたの内に天に満ち溢れる喜びがあなたのうちにも溢れるのです。

 

↑の最後で神様は「聞け。そして、これをヤコブの家に証言せよ。―神である主、万軍の神の御告げ―まことに、イスラエルがわたしに犯したそむきの罪を、わたしが罰する日に、わたしはベテルの祭壇を罰する。その祭壇の角は折られて、地に落ちる。わたしは冬の家と夏の家とを打つ。象牙の家々は滅び、多くの家々は消えうせる。―主の御告げ―」と語られます。結局彼らが拠り所していた富、権威、力はすべて打ち砕かれていく、と。ただ、砕かれた先に神様は、イエス様にある回復を今備えてくださっています。偽の富、あなたを苦しめる権力、権威、力、罪の呪いやサタンはこのイエス様の十字架によって完全に打ち砕かれ、勝利されたのです。そのイエス様が今あなたを立て直され、その霊、愛、いのちで満たし、輝かせてくださるのです。

 

パウロという伝道者は「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。…すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです」と語ります。その本物の富、いのちをイエス様のいのちにあって今日あなたにもたらされている、あなたを導かれます。私たちは今日、古い自分から離れ、イエス様のいのちとともに私たちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神様に望みを置き歩もうではありませんか。迷子の羊だった私たちを見つけた神様が喜ばれたその喜びが今日もあなたに注がれているから。