―それでも一緒に歩こう― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「イスラエルの子らよ。主があなたがた、すなわちわたしがエジプトの地から連れ上ったすべての氏族について言った、このことばを聞け。わたしは地上のすべての部族の中から、あなたがただけを選び出した。それゆえ、わたしはあなたがたのすべての咎をあなたがたに報いる。ふたりの者は、仲がよくないのに、いっしょに歩くだろうか。獅子は、獲物がないのに、森の中でほえるだろうか。若い獅子は、何も捕らえないのに、そのほら穴から叫ぶだろうか。鳥は、わながかけられないのに、地の鳥網にかかるだろうか。鳥網は、何も捕らえないのに、地からはね上がるだろうか。町で角笛が鳴ったら、民は驚かないだろうか。町にわざわいが起これば、それは主が下されるのではないだろうか。まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。獅子がほえる。だれが恐れないだろう。神である主が語られる。だれが預言しないでいられよう。」

アモス書3章1-8節

 

名前を覚えられているってうれしいですよね。子どもの入学式が8日にあったのですが、先生は名簿を見ず、顔だけを見て名前を一人一人覚えていたのにはびっくりしました。相当準備されていたんだろうな、と。入学式だけではなくその後のクラスの事を考えれば、顔と名前が一致していないと大変ですしね。ところで神様は、いったいこれまで人類が始まって以来どれだけの人を見てきたのだろう、どれだけの人を覚え、守り養い、導いてこられたのだろう。神様は一人一人を造られた、親のように我が子を愛し、養い導いておられます。神様にですよ?すごいですよね。私たちは神様にどれだけ愛されているのかを忘れてはいけません。イエス様のいのちを持ってまであなたを取り戻された、愛された、その神様が今日あなたと共におられることを。

 

さて、↑は古代イスラエル王国が分裂して、南ユダをウジヤ王が、北イスラエル王国をヤロブアム2世が統治していた紀元前785年頃の話になります。当時の北イスラエルはある意味では繁栄していましたが、貧しい人たちを虐げ、その格差は大きく広がり、また偶像崇拝によって苦しんでいました。そのような中で神様は、北イスラエルを含めた周辺諸国に対して宣告を行っていきます。何とか彼らが神様の恵みに気づき立ち返ってほしい、と願われ神様は、今アモスを通して訴えるのです。ここまで北イスラエル周辺諸国への裁きの宣告がされてきましたが、ここから北イスラエル自身に焦点が当てられていきます。

 

なお神様はアモスを通して「イスラエルの子らよ。主があなたがた、すなわちわたしがエジプトの地から連れ上ったすべての氏族について言った、このことばを聞け。わたしは地上のすべての部族の中から、あなたがただけを選び出した」と語られます。

 

これを神様が「北イスラエル王国」に向けて語られているという事はすごいことなのです。まずこの言葉は、かつてイスラエルの民がエジプトに奴隷として約400年にわたり捕らえられていた頃、神様はモーセという人の内に働かれ、語られ、強め、彼を通してエジプトに裁きを下し、出エジプトさせ、救い出してくださったことがあったのですが、その道中、神様は彼らに「主は、あなたの先祖たちを愛して、その後の子孫を選んでおられたので、主ご自身が大いなる力をもって、あなたをエジプトから連れ出された。それはあなたよりも大きく、強い国々を、あなたの前から追い払い、あなたを彼らの地に入らせ、これを相続地としてあなたに与えるためであった。今日のとおりである。きょう、あなたは、上は天、下は地において、主だけが神であり、ほかに神はないことを知り、心に留めなさい。きょう、私が命じておいた主のおきてと命令とを守りなさい。あなたも、あなたの後の子孫も、しあわせになり、あなたの神、主が永久にあなたに与えようとしておられる地で、あなたが長く生き続けるためである」と語られていました。まさに↑でアモスを通してきたイスラエルに語られている通りなのです。

 

神様は大きな民でもない、他でもない、彼らイスラエルを選び、その祝福の基とされた、と宣言されていたのです。差別?と言われるかもしれませんが、これはなかなか難しい問題なのですが、差別ではありません。役割の問題。彼らは神様の祝福の基として選ばれた、というだけであって、他の民を愛していなかったというわけではありません。だってそうでしょう?それぞれは神様が造られた大切な存在なのですから、神様が愛していない、というわけではなく、神様はその御目を注がれている、御手を伸ばされているのです。主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。それは、神様の恵みによって彼らが、私たちがしあわせになるために。

 

その神様の御思いが今、北イスラエルに同じように語られているのです。ユダもそれなりに問題があり、神様から離れている時期もありましたが、それでも神様を求め続けていました。しかし、今アモスが語られている北イスラエル王国は、その王ヤロブアム2世は相当問題がありましたし、北イスラエルは浸すから神様から離れ、神様の忌み嫌われることを行い続けていた、もう見捨てられてもおかしくない、それでも神様はこの同じ思いを語られるのです、彼らもまた神様に選ばれ、また彼らが幸せになることを願っているという事を。

 

2章で彼らの現状について神様がどういっていたか、「イスラエルの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取り消さない。彼らが金と引き換えに正しい者を売り、一足のくつのために貧しい者を売ったからだ。彼らは弱い者の頭を地のちりに踏みつけ、貧しい者の道を曲げ、父と子が同じ女のところに通って、わたしの聖なる名を汚している。彼らは、すべての祭壇のそばで、質に取った着物の上に横たわり、罰金で取り立てたぶどう酒を彼らの神の宮で飲んでいる」と告げられていたではありませんか。そのような状態の彼らを神様はそれでも覚えておられたのです。そしてその神様の愛ゆえに私たちは成長させていただき、多くの実を結ばせてくださる、幸せへと導いて下さるのです。

 

しかし、だからこそ私たちが神様から離れればそれとは逆の方向に行く、それが今北イスラエルの惨状の原因でした。神様のみおしえから離れては本当のいのちに満ち溢れることはない。それはそうでしょう?人は愛されて満たされる。神様は北イスラエルのその惨状を見て、見捨てるのではなく、彼らが回復すること、そしていのちを得ることを何より願われたのです。

 

それゆえなお神様は「ふたりの者は、仲がよくないのに、いっしょに歩くだろうか。獅子は、獲物がないのに、森の中でほえるだろうか。若い獅子は、何も捕らえないのに、そのほら穴から叫ぶだろうか。鳥は、わながかけられないのに、地の鳥網にかかるだろうか。鳥網は、何も捕らえないのに、地からはね上がるだろうか。町で角笛が鳴ったら、民は驚かないだろうか。町にわざわいが起これば、それは主が下されるのではないだろうか」と語られます。

 

まあこれは因果関係のようなことについて言われているように感じますが、裏を返すと、神様は本来見捨てられてもいいはずの北イスラエルといっしょに歩く必要はない、見捨てられてもおかしくない関係にありました。北イスラエルはむしろ神様を捨てていましたしね。私は私、自分の価値観に神様はそぐわないから、と神様が教えてくださったいのちの道から離れてしまっていたのです。それなら勝手にしなさいよ、と神様は見捨ててもいいはず。獲物に彼らがとらえられ(今彼らに差し迫っていたのはアッシリヤ帝国)ようが、自業自得、神様を捨てたのだから、と言われてもおかしくはないのです。災いが降ろうとも、それは自業自得でしょ?自分たちの蒔いた種なのだから、と言われてもおかしくはないのです。その通りいま判決を下されてもおかしくはないのです。だってそうでしょう?主権者は神様ですし、民が自分たちが何をしようが自由だ、というなら、わたしも自由だと言われても仕方ない、でも神様はそれでも今、北イスラエル、もまた、「神様が選ばれた民」と宣言されるのです。

 

神様はそれでも、彼らと何とか一緒に進み救いに招こうとされていたのです。先程出エジプトをした話をとり上げましたが、その旅の最後、約束の地に着く直前、この旅の顛末を、最初から最後まで見てきたモーセは「主は荒野で、獣のほえる荒地で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた。鷲が巣のひなを呼びさまし、そのひなの上を舞いかけり、翼を広げてこれを取り、羽に載せて行くように。ただ主だけでこれを導き、主とともに外国の神は、いなかった。主はこれを、地の高い所に上らせ、野の産物を食べさせた…」と告白しました。

 

途中、イスラエルの民は神様に見捨てられてもおかしくないことを何度も何度も繰り返され、途中ついには神様はモーセから新しい民を起こす、と言われたこともありました。しかし神様はそれでも彼らを見捨てず、親鳥が子をまもるように、その翼で彼らを覆い、あらゆる敵、困難、問題から守られ、養ってきた、導かれてきた、他の何者も彼らを救うことはなかったけど、それでも神様は彼らを見捨てず、今この地にまで連れてきたんだ、と仰られたのです。

 

↑で神様は「わたしは地上のすべての部族の中から、あなたがただけを選び出した。それゆえ、わたしはあなたがたのすべての咎をあなたがたに報いる」と仰られていますが、あなたがた「だけ」を選び出した、神様が愛されているこの強い訴えを、あなたはどう受け止めますか?特別視されている、というよりも、それほどにあなたが愛されていることに確信はありますか?神様は「報いる」と仰られていますが、神様が報いてくださるのです。私たちが神様から離れて、先ほどのある意味では因果応報論のように、仕方がないじゃないか、という話ではなく、むしろ私たちは神様から離れるのではなく、神様の御側にいさせていただいて、神様の報い、命、豊かな実を、ご計画を求めませんか?咎に対して受ける報いではなく、神様の愛を私たちは受けようではありませんか。

 

神様は本来、罪ゆえに仲良い関係から離れてしまった私たちを見捨てるのではなく、むしろ私たちにあるべきいのち、永遠のいのちを得させる、そこに恵みを神様と一緒に共有、見させるため、神様の報い、恵みを私たちに見せ洗わせるため、御子イエス様を私たちの罪の身代わりに十字架に架け、死なせました。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださる。この新たな命の内を、永遠のいのちを、イエス様が共に歩み、進んでくださるのです。

 

イエス様はそれでも共に歩もう、と私たちの十字架を背負ってその道を進まれました。そのイエス様は「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします」と仰られました。私たちの古い十字架をイエス様が背負ってくださった、そして今新しいイエス様の十字架による命を背負わせていただけている、その中でイエス様はご自身の復活の恵みを私たちにも今日現して下さるのです。そのイエス様が共に歩んでくださるのですから、私たちはこのイエス様から離れず歩みたいものです。そしてイエス様の愛を共に分かち合い、仕えるものでありたいです。