「テオピロよ。私は前の書で、イエスが行ない始め、教え始められたすべてのことについて書き、お選びになった使徒たちに聖霊によって命じてから、天に上げられた日のことにまで及びました。イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。『エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。』そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。『主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。』イエスは言われた。『いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。』こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。そして、こう言った。『ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。』」
使徒の働き1章1-11節
小さいころからずっと付き合いがある人…私は引っ越し族だったので、そうはいません。途中再会したりすることはあっても、引っ越しの繰り返しでしたからね。ただ、今のご時世スマホもありますし、会えずとも連絡は取れたりするのが救いと言ったところでしょうか。神様は私たちを何とか救い出したいと御子イエス様を遣わされましたが、それは今から2000年近く前の話でも、今も変わらずあなたに御手を伸ばされている、様々な形であなたにご自身を現されています。私たちは今日イエス様に忘れられておらず、覚えておられることに感謝し、イエス様を求めよう。イエス様こそ道であり、真理であり、いのちなのですから
さて、新約聖書の分かち合いは、前回でルカによる福音書が終わり、イエス様の昇天のところまで分かち合いました。↑は同じルカがその続きを書いたものになります。まず、ルカは福音書に続き、テオピロという人に語り始めますが、彼はローマの役人、結構な立場の人でした。彼は直接イエス様と会うことはありませんでしたが、イエス様はその公生涯限定で誰かを愛された、救われようとされていたわけではない、そのイエス様の愛は昔も今も変わらないことが見えますね。イエス様はルカを通してテオピロという人に、彼らが直接見ることのできなかったイエス様の公生涯について語るのでした。そしてこのようにこの書簡を残すほどに、イエス様の働きは変わっていない、愛は変わっていないのです。
私たちは自分の基準、時間軸の中、神様が荒れしてくれた、これをしてくれない、と嘆きますが、神様の時間は永遠です。神様のあなたへの愛は同じようにまだ注がれている、今日もあなたに何かをなさとうとされています。イエス様は昔だけ存在していたのではない、昔も今もこれからもあなたと共にいる、聖書の中の物語ではなく、現実。あなたは神様をどれだけ求めているでしょうか。
↑でルカは「イエス様は苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示され」たことを語っていますが、復活からの40日間だけでイエス様は多くの人と出会っています。各福音書などを見ますと、まず復活されたその日の朝に墓を訪れた女たち、またマグダラのマリヤに出会われ、12弟子ではありませんでしたが、イエス様のおからだが墓から消えていて困惑していたエマオの途上にあった二人の弟子たちとも出会われ、離され、共に食事をされましたね。そして、復活された日の夕方、ペテロを含むエルサレムにいた弟子たちに、それから8日後、トマスも含めた弟子たちに、ガリラヤのある山で11人の弟子たちに、ガリラヤ湖の湖畔で7人の弟子たちに、そして弟子たちや親しい人たちだけではなく、五百人以上の兄弟たちに、しかも同時に現れた、という事もありました。
イエス様はいのちをかけて私たちを十字架と復活をもって救われました。死んで終わりではなく、そこから引き上げて新しい歩みへと導かれたのです。十字架と復活で終わらせたのではなく、イエス様は彼ら弟子たちを含め多くの人たちと出会われました。もちろんまだ彼らが信じられていなかった、という事もありますが、それも含めて彼らを命の道へと導かれたのです。
先程トマスという弟子について取り上げましたが、彼は最初弟子たちの前にイエス様が来てくださったとき、彼はそこにはいませんでした。トマスは弟子たちが、イエス様と会った、という話を聞いても、「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言って信じませんでした。そのトマスのためにイエス様はもう一度会いに来てくださり、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と仰られ、彼がつまずいているところから立ち上がらせて下さり、見ずに信じる、まさに見なくても確かにそこにイエス様はおられる、確かな愛と導きが示されたのです。
それはイエス様が「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです」と仰られた、聖霊様がこの後降られることによって約束が果たされ、今も後も私たちの助け主として導かれます。あの時で終わりではなく、今も、あなたが道を失い、暗闇の中にいる時も、確かにそこにおられ、神様に確かにつながる命の道へと導かれるのです。弟子たちの求める復興、本当の意味での神様の家族としての関係が復興され、そこから御国が広がっていくのです。
イエス様は昇天される前に「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」と語られました。イエス様が召天されて後、聖霊様を必ずお遣わしになられる事、エルサレム、イエス様が仰られること、イエス様ご自身の内に留まる、イエス様の十字架による救い、命に与ろうとイエス様のもとに立ち返る全ての人の内に臨まれます。臨もうとされるのは聖霊様、私たちはそれを求めるでしょうか。この遣わされた聖霊様に満たされる時、力を受ける(詳しい話は2章前半で見ます)、人の力が増すのではなく、神様ご自身の愛が、御心が、御力があなたの内に満ち溢れる、その時、まさかそんなところまで、と思うようなところまで主の愛によって変えられていきます。そこは主の国、御国へと変えられる、神様の愛が、ご支配が満ち溢れる場所となるのです。
イエス様が再び雲に乗り同じように降りてこられるまで。私たちはイエス様を求め続けよう。イエス様はあの十字架と復活であなたと神様をつながれ、新しい助け主、聖霊様が今もあなたを導かれる。イエス様が再び来られるその日まで、私たちは聖霊様に満たされ、イエス様に生きよう。イエス様を待ち望む、イエス様の愛ですべての国が満ち溢れることを祈り、また私たちも遣わされた場所にあってこのイエス様の愛を伝える、愛をもって仕えるものでありたい。
