「主はこう仰せられる。『ユダの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取り消さない。彼らが主のおしえを捨て、そのおきてを守らず、彼らの先祖たちが従ったまやかしものが彼らを惑わしたからだ。わたしはユダに火を送ろう。火はエルサレムの宮殿を焼き尽くす。』主はこう仰せられる。『イスラエルの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取り消さない。彼らが金と引き換えに正しい者を売り、一足のくつのために貧しい者を売ったからだ。彼らは弱い者の頭を地のちりに踏みつけ、貧しい者の道を曲げ、父と子が同じ女のところに通って、わたしの聖なる名を汚している。彼らは、すべての祭壇のそばで、質に取った着物の上に横たわり、罰金で取り立てたぶどう酒を彼らの神の宮で飲んでいる。エモリ人を彼らの前から滅ぼしたのは、このわたしだ。彼らの背たけは杉の木のように高く、樫の木のように強かった。しかし、わたしはその上の実と下の根とを滅ぼした。あなたがたをエジプトの地から連れ上り、荒野の中で四十年間あなたがたを導き、エモリ人の地を所有させたのは、このわたしだ。わたしは、あなたがたの子たちから預言者を起こし、あなたがたの若者から、ナジル人を起こした。イスラエルの子らよ。そうではなかったのか。―主の御告げ―それなのに、あなたがたはナジル人に酒を飲ませ、預言者には、命じて、預言するなと言った。見よ。束を満載した車が押さえつけるように、わたしはあなたがたを押さえつける。足の速い者も逃げ場を失い、強い者も力をふるうことができず、勇士もいのちを救うことができない。弓を取る者も立っていることができず、足の速い者ものがれることができず、馬に乗る者もいのちを救うことができない。勇士の中の強い者も、その日には裸で逃げる。―主の御告げ―』」
アモス書2章4-16節
世の中を見回すと、いろんな問題があり、それを見て神様がいるなら何でこんなことが起こるんだ、と神様の存在を否定する人をたまに見かけます。じゃあ神様がいなければそんなことは起きないの?神様が放置したら、そんなことは起きないの?むしろ逆でしょ?神様は事細かに語られ、またすべてを備えてくださっています。そして与えられているものをもって互いに愛することも教えられました。私たちはみな一度神様がどれだけの愛を注がれているのかを覚え、この喜びに生きる、分かち合うものでありたいものです。何より神様の愛から離れず歩みたい。
さて、↑は古代イスラエル王国が分裂して、南ユダをウジヤ王が、北イスラエル王国をヤロブアム2世が統治していた紀元前785年頃の話になります。当時の北イスラエルはある意味では繁栄していましたが、貧しい人たちを虐げ、その格差は大きく広がり、また偶像崇拝によって苦しんでいました。そのような中で神様は、北イスラエルを含めた周辺諸国に対して宣告を行っていきます。何とか彼らが神様の恵みに気づき立ち返ってほしい、と願われ。
↑ではさらに南ユダ王国と、北イスラエル王国に向けた神様の裁きの宣告が始まります。まず、神様は南ユダ王国に向けてアモスを通して「ユダの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取り消さない。彼らが主のおしえを捨て、そのおきてを守らず、彼らの先祖たちが従ったまやかしものが彼らを惑わしたからだ。わたしはユダに火を送ろう。火はエルサレムの宮殿を焼き尽くす」と語られます。この「取り消すさない」という言葉は「到底赦し難いもの」を現すという事を前回、前々回申し上げましたが、これまでの彼らの指摘た残虐な行為と比べると、なぜそこまで言われなければいけないのか、と思う内容になっています。しかも南ユダ、北イスラエルも含めてですが、この国は神様が導かれ、神様の助けのもと成り立っていた国です。どうしてそこまで言われるのか。
はい、まさにそこにあるのです。彼らのしたことは「彼らが主のおしえを捨て、その掟を守らず、彼らの先祖たちが従ったまやかしのものが彼らを惑わしたからだ」ということですが、そもそもの話、彼らにしても私たちにしても、この神様が私たちを救われ、共に歩む中に本当の命があるのです。神様はそもそもの話が、私たちをご自身の似姿に似せて創造されました。ですから、神様の最高作品なのです、本来。そして神様はただの土くれではなく、ご自身の息吹を吹き込み、そこで始めて生きたものとなりました。
しかし、アダムとエヴァは完璧な神様の養いの中(過保護、という意味ではない)、生きていた、生かされていたのに、サタンの策略があったとはいえ、神様から食べてはならない、と言われたものを、神様は自分たちに本当に良いものを与えてくださらない、自分たちが神様のようになることを嫉妬されているんだ、と疑い食べてしまったのです。結果として、その罪から死が入ってきて、神様の家族、エデンの園から追放されることとなったのです。そう、神様はもう二度とそのような事があってはいけない、彼らの命が失われることそのものが「到底赦し難いこと」なのです。だからそうならないよう、今訴えているのです。
神様のこの訴えは、もちろんやがてバビロン捕囚につながっていくのですが、まだ200年近く先の話であり、また神様は猶予期間を持たせてくださっています。その宣告はもう少し先のヒゼキヤの時代にされ、その決定期になったのはその息子マナセ王の時です。そうならないよう、アモスの時代に神様は今、彼らに立ち返るよう訴えているのです。今こそ立ち返り、いのちを得よ、と。実際神様に聞き従っている時代は王国は繁栄していました。しかし離れている時はいつも苦しみの中にありました。もちろん戦いや困難はありましたが、そこに神様がいた、救い出された、それはまさに神様の恵み、憐みそのものです。
ここで「みおしえ」とありますが、なぜ神様はそのみおしえ、律法を語られたのか、それは「あなたがたの神、主の命令、主が命じられたさとしとおきてを忠実に守らなければならない。主が正しい、また良いと見られることをしなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、主があなたの先祖たちに誓われたあの良い地を所有することができる。そうして、主が告げられたように、あなたの敵は、ことごとくあなたの前から追い払われる」と、神様に導かれ、モーセは語ります。あなたの幸せ、神様の恵みの中とこしえに生きる事、神様がとこしえに恵みを注がれること、そうして本当の意味で生きることが神様の願いなのです。神様にとっては彼らが、あなたが失われることは到底赦し難いことなのです。神様の愛から離れた結果あなたという宮が焼き払われ失われることを良しとできない、だから今切実な思いを込めて訴えているのです。
そうしますと、北イスラエルへの神様の裁きの宣告の意味が変わってきます。神様は北イスラエルについては、アモスを通して「イスラエルの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取り消さない。彼らが金と引き換えに正しい者を売り、一足のくつのために貧しい者を売ったからだ。彼らは弱い者の頭を地のちりに踏みつけ、貧しい者の道を曲げ、父と子が同じ女のところに通って、わたしの聖なる名を汚している。彼らは、すべての祭壇のそばで、質に取った着物の上に横たわり、罰金で取り立てたぶどう酒を彼らの神の宮で飲んでいる。エモリ人を彼らの前から滅ぼしたのは、このわたしだ。彼らの背たけは杉の木のように高く、樫の木のように強かった。しかし、わたしはその上の実と下の根とを滅ぼした。あなたがたをエジプトの地から連れ上り、荒野の中で四十年間あなたがたを導き、エモリ人の地を所有させたのは、このわたしだ。わたしは、あなたがたの子たちから預言者を起こし、あなたがたの若者から、ナジル人を起こした。イスラエルの子らよ。そうではなかったのか。―主の御告げ―それなのに、あなたがたはナジル人に酒を飲ませ、預言者には、命じて、預言するなと言った。…」と語られました。
これは1章で北イスラエルの当時の現状について少し分かち合いましたが、それがまさにここで神様は語られているのです。彼らがなぜ到底赦し難い状態になっているのか。彼らは貧しいものを狙って人身売買をし、弱い者や貧しい者に対して、彼らが踏みつけられるような判決を下すという不正な裁判を行います。これはもちろん、賄賂が裁判官に渡されているからです。金のある者が勝つように。同じ女のところに、なんと父と子が通うという不道徳、さらに宗教行事の中で、質で取った着物、罰金で取り立てたぶどう酒を使って、神様の宮で酔いしれるという、虐げと不敬虔がまかり通るという、どれだけ経済的に豊かになっていても、その闇は計り知れないものがありました。
実は、先ほど神様の「みおしえ」について触れましたが、その中では人身売買をゆるさず、かえってもっともその人に近い親族がその人をわかりやすく言うと保護するように教えています。彼らの土地が、彼ら自身がそれこそ人身売買などによって奪われることがないように、守るように、と。もちろんその彼らの土地は、あくまで彼らのもの。買い取った人のものではない。神様は要するに困った人をちゃんと助けるように、と仰られているのです。他、誘拐は死刑、不正な裁判もダメ、とすべてそのみおしえの中で語られているのです。
↑で神様は彼らを神様の憐れみのゆえに約束の地につかせ、安住をゆるされ、王国まで建てられ、まさに祝福されていた。乳と蜜の流れる地、神様の祝福によって生かされていた、彼らは富を得ていたのに、その富を自分たちの力で得たものと勘違いし、好き放題使っていたのです。彼らは神様の恵みが溢れ流れることを自分たちでせき止めていた、さらにそれは自分たちのものだ、と神様の恵みを求めなくなっていった結果、国はやがてアッシリヤの脅威にさらされ、奪われ、ついには捕囚、離散させられていく形となります。彼らの地位は失われ、貧しいものとなっていく、虐げられるものとなっていくのです。
神様の愛を私たちが勝手にこの人はいいけど、このひとはダメ、などという事はできません。むしろ神様は全世界に出ていき、全ての造られたものに福音を宣べ伝えなさい、と仰られました。イエス様も、聖書全体が「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ、ということと、あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」、というところに行きつくことを語られました。神様の願いは、御子イエス様を信じる人が一人として滅びることなく永遠のいのちを持つことです。
そのために、この究極の実践として、あなたを愛する神様は隣人、罪人出会った私たちを友と呼び、その友のために、私たちのために、私たちの罪の身代わりに十字架に全てを背負われ、かかられ、身代わりに罰せられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、この十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださるのです。砕かれた宮ではなく、神様の住まわれる御国へ。すべての造られしものにこの救いの知らせがイエス様から溢れ流れていくのです。
私たちはこの救いから溢れる神様の豊かな赦し、恵みを自らの手でせき止めてはいけない。むしろ私たちはこの十字架の前に遜り、このイエス様の溢れんばかりの恵み、愛に満たされ、生かしてください、と祈りたいものです。私たちが到底赦し難いものとされ、死ぬことではなく、イエス様が身代わりに壊され、死なれた、そして復活と共にもう一度建て直され、回復されていく事を切に祈り歩みたいものです。