―取り消すことのできない罪状を塗りつぶしたのは― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「主はこう仰せられる。『ダマスコの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取り消さない。彼らが鉄の打穀機でギルアデを踏みにじったからだ。わたしはハザエルの家に火を送ろう。火はベン・ハダデの宮殿を焼き尽くす。わたしは、ダマスコのかんぬきを折り、アベンの谷から、王座についている者を、ベテ・エデンから、笏を持っている者を断ち滅ぼす。アラムの民はキルへ捕らえ移される』と主は仰せられる。主はこう仰せられる。『ガザの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取り消さない。彼らがすべての者を捕囚の民として捕らえ移し、エドムに引き渡したからだ。わたしはガザの城壁に火を送ろう。火はその宮殿を焼き尽くす。わたしはアシュドデから、王座についている者を、アシュケロンから、笏を持っている者を断ち滅ぼす。わたしはエクロンにわたしの手を向け、ペリシテ人の残った者を滅ぼす』と神である主は仰せられる。主はこう仰せられる。『ツロの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取り消さない。彼らがすべての者を捕囚の民として、エドムに引き渡し、兄弟の契りを覚えていなかったからだ。わたしはツロの城壁に火を送ろう。火はその宮殿を焼き尽くす。』主はこう仰せられる。『エドムの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取り消さない。彼が剣で自分の兄弟を追い、肉親の情をそこない、怒り続けていつまでも激しい怒りを保っていたからだ。わたしはテマンに火を送ろう。火はボツラの宮殿を焼き尽くす。』主はこう仰せられる。『アモン人の犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取り消さない。彼らが、自分たちの領土を広げるために、ギルアデの妊婦たちを切り裂いたからだ。わたしはラバの城壁に火を放とう。火はその宮殿を焼き尽くす。これは戦いの日のときの声と、つむじ風の日の暴風のうちに起こる。彼らの王は、その首長たちとともに、捕囚として連れて行かれる』と主は仰せられる。」

アモス書1章3-15節

 

取り返しのつかないことをした、という表現があります。そして後悔先に立たずと言いますか、ぎすぎすした関係になり、元通りには戻れない。心のどこかであの時あの人はこう言ってた、自分にした、というものが残っているからか。しかしもし本当に和解に至れたなら、より強い絆で結ばれるのではないか、と思います。そこに神様の愛を覚える時、赦し、和解へと向かっていく。神様に、取り返しのつかない罪を犯し、見捨てられてもおかしくない中、御子イエス様のいのちを持ってまで和解させてくださった、その愛を思う時、私たちは何を思うだろう。神様がなして下さる大いなる御業に期待しよう。

 

さて、↑は古代イスラエル王国が分裂して、南ユダをウジヤ王が、北イスラエル王国をヤロブアム2世が統治していた紀元前785年頃の話になります。当時の北イスラエルはある意味では世的に繁栄していましたが、貧しい人たちを虐げ、その格差は大きく広がり、また偶像崇拝によって苦しんでいました。そういう意味では、上に立つ者の責任は大きいのと、彼らが間違いを犯さず、また神様を恐れるよう、私たちは祈りたいものです。それらすべてを超えて働かれる神様に期待することをやめてはいけません。

 

話を進めて、その北イスラエルに向けて、南ユダの比較的安全な中で生活するアモスを神様は遣わし、預言者として立てます。↑は、北イスラエルへの預言・裁きの話の前に、まず彼らの周辺の7諸国への裁きの宣告が成されていきます。

 

今日は前半の5つの諸国への宣告についてみていきたいのですが、↑を見ると、すべて「『三つのそむきの罪、四つのそむきの罪』のために、わたしはその刑罰を取り消さない」と宣言されています。7つの大罪?いえ、そういう事でもありません。何とかの罪だから赦す、何とかの罪だから赦さない、ではないのです。何より、周辺諸国への裁きだから、周りへの神様の警告なのだから自分には関係ない、と私たちは思ってはいけません。罪のある所に恵みも増し加わる、むしろそれを見て神様に立ち返り、恵みを得てほしい、いのちを得てほしい、という思いがここに込められているのではないでしょうか。

 

正直な話、↑の裁きは相当厳しいです。↑に出てくる「取り消さない」という言葉ですが、神様が取り消さない、と宣言されているという事は神様の怒りと同時に悲しみがある事が見えますが、この言葉の意味自体に「撤回しない、後へは引かない、ゆるさない、決してゆるさない」ともう神様との絶縁が言い渡されたようなもの、ある意味では死刑判決です。神様の重い重い決断、決定事項がここでなされていくのです。3つのそむきの罪、4つのそむきの罪、と罪を重ね続けたのです。

 

では、彼らはなぜそのような判決を受けることとなったのか。まず、ダマスコについてですが、これは現在のシリヤに該当するところになります。そのダマスコは「鉄の打穀機でギルアデを踏みにじった」というのですが、どういうことかと言いますと、ギルアデはヨルダン川沿いの東側の地域・住民になるのですが、ここは放牧に適したところでした。そこにはマナセ半部族とガド族の地(ようするに、北イスラエルの国内)になっていたのですが、そこにダマスコの王ハザエルが攻め込んだのです。しかも、その方法は残虐極まりなく、要塞に火を放ち、その若い男たちを剣で切り殺し、幼子たちを八裂にし、妊婦たちを切り裂くという残虐な行為が行われたのです。その彼らに対して神様は裁きの宣告をされます。

 

次のガザの場合は、ペリシテが北イスラエルと戦い、彼らを捕えた時に、イスラエルと敵対するエドムに引き渡したゆえに、彼らは裁きを受けることになり、最後はハスモン朝のアレクサンドロス・ヤンナイオスがガザを攻め、ペリシテ人は殺されることとなりました。

 

さらにツロ(レバノン)についてですが、彼らはガザが犯した罪と同じように、捕囚の民を売りました。けれどもガザとの違いは、「兄弟の契りを覚えていなかった」だったことをアモスは指摘しています。まだ王国が分裂する前、その当時のツロの王ヒラムは、ダビデから続いていた友情を保っていたので、息子ソロモンと友好関係、契約を結びました。それにも関わらず彼らを売った、裏切った、それゆえの裁きです。

 

続けて、エドムについてですが、彼らは先ほども申し上げました通り、イスラエルの兄弟国です。しかし彼らは、ツロやガザがユダヤ人を売ってきた時に開放、助けるのではなく、かえって彼らを買い取り虐待するのでした。兄弟が本当の困っている時に助けるのではなく、かえって苦しめる、それが彼らの問題となりました。

 

そしてアモンですが、実はイスラエルの兄弟国なのですが、ここは今でいうところのヨルダンの北部辺り。彼らはダマスコと同様に、ギルアデの町を攻め入り、そこの妊婦たちを切り裂き、虐殺していきます。しかもその理由が酷いことに、ただ単に自分たちの領土を広げるため、単なる貪欲のために行われたのです。それが彼らへの裁きの理由でした

 

神様は、北イスラエルの問題を知っておられます。それでも神様は彼らを憐れまれ、彼らの周辺国、彼らを苦しめている問題、積み重ねてきた数々の痛みを神様が取り除いて下さる事をここに宣言されたのです。そこであなたがたはどうしますか?と。

 

↑のダマスコにしてもアモンにしても、彼らの犯したことはもう問題外と言われたらその通りですが、ツロやエドムの特性を考えると、彼らに弁明の余地はなかったのか?私たちだってそうですよね。神様の御前に罪を犯したら、何の弁明の機会もなくうち滅ぼされるのか?という話なのですが、そうではありません。

 

ツロはダビデ王朝やソロモン王朝の中で神様の恵みに触れる機会がありましたし、エドムも神様から土地も財産も祝福されていた、そういう意味では神様に触れる機会があったのです。彼らは神様の御前に罪を3つと4つと重ね続けましたが、神様は、その愛を積み重ねてくださりました。彼らは神様は自分たちに何もしてくれないから、と好き放題し、自分の復讐心や欲望を満たそうと様々な行動に出ました。しかし、その前に彼らは気づいていなかった、彼らは神様が覚え、その御手を伸ばされ、彼らの血筋のように、神様につなげようとしてくださっていたのです。↑のダマスコだって、神様は彼らの英雄と言われた、重い皮膚病に犯されていた将軍を、敵国でありながら癒されていた、そうして神様の愛を示されご自身の恵みに繋げようとされていたのです。

 

こうしてみると、このように本来取り消すことのできない神様の裁きにあう前に何とか命を得てほしい、と神様が御手を伸ばされていた、神様の愛が積み重ねられていたのです。北イスラエルも、神様の御前に罪を積み重ねて、こうした絶望に取り囲まれていました。しかしその彼らを何とか救いたい、と神様は今アモスを通して語られているのです。ここで悔い改めてよ、とどん底にまで神様は御手を伸ばされ、救わんとされたのです。

 

私たちは神様があれしてくれない、これしてくれない、と自己都合で見やすいですが、神様はあなたにその愛を日々日々、一瞬一瞬あなたに注がれているはずです。この億劫になるほどの周辺諸国への罪状の数々を、取り消すことのできないこの問題が起こる前に神様が彼らに愛を示されていたように、神様は取り消すことができない日が来る前にあなたに命を得てほしい、と最大の愛を示されました。もうどん底に沈んだ北イスラエルのように、救いようがない状態にある私たちを救うために、神様は御子イエス様を私たちの罪の身代わりに十字架に架けられ、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子としてくださったのです。

 

イエス様が命をもって十字架と復活による救いを与えられ、教会時代が始まったころ、彼らを迫害したパウロという人は後にイエス様に赦され、「あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました」と手紙で書き送りました。彼自身本来赦されるべきではないほどの大罪をある意味では犯していた、何より私たちもそうですが救い主を迫害し、十字架に架ける彼の罪の債務証書を十字架によって塗りつぶし、無効にし、新しく神様の子としての宣言がそこに書き加えられた、勝利の行列に今加えられた、加えられているのです。

 

私たちは今、このイエス様の命がけの愛が日々積み重ねられ生かされています。本来弁明できない、取り消すことのできないはずの裁きを、イエス様の命がけの救い、十字架によって免れ、生かされているのです。この神様の家族として加えられた、契りが結ばれた今、私たちはこれ以上罪を3つ4つと積み重ねている場合ではありません。むしろ私たちは↑の諸国のように困っている人たちを虐げる者としてではなく、愛する者でありたいものです。そこに神様の測ることのできない大きな恵みが注がれることを信じて。神様の驚くべき愛はすべてをひっくり返し救う力がある、その神様に大いに期待して。