―枯れ果てないように注がれたのは― | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「テコアの牧者のひとりであったアモスのことば。これはユダの王ウジヤの時代、イスラエルの王、ヨアシュの子ヤロブアムの時代、地震の二年前に、イスラエルについて彼が見たものである。彼は言った。『主はシオンから叫び、エルサレムから声を出される。羊飼いの牧場はかわき、カルメルの頂は枯れる。』」

アモス書1章1-2節

 

私はよく、雨を「恵みの雨」と表現します。もちろん大雨で被害が出ることもあるので何とも言い難いのですが。ただ、雨があるから作物は育ち、雨があるから大地は潤す。ある意味では欠かせないんですよね。その雨を降らさないこともできる中で神様は注いでくださる。いや、天候的な雨だけではなく、神様の恵みそのものを雨のように、乾いた心に注いでくださるのです。私たちが枯れ果てないために。私たちは神様の霊、雨が降り注ぎ、私たちを本当の意味で満たし生かしてください、と祈りたいものです。

 

さて、先月まで分かち合っていたイザヤ書に続き、イザヤの初期の時代に同じように活動していたアモス書を分かち合いたいのですが、イザヤが古代イスラエル王国の南ユダの王がウジヤの時代から活動していたその時期、北イスラエルでもまたヤロブアムⅡ世の治世にこのアモスという人が神様から遣わされていきます。

 

覚えているでしょうか。南ユダはともかく、北イスラエルはともかく堕落の一途をたどり、神様から彼らは徹底的に離れていました。だから見捨てられてもおかしくはない、しかし神様は、南ユダだけに預言者イザヤを遣わすのではなく、北イスラエルにもアモスという預言者を遣わしていた、それはまさにその渇ききった、疲れ果てた国、土地に対して神様は憐みを注がれた、この地を何とか癒そうとされている意思がまさに現されているのではないでしょうか。

 

ただ実際は裁きの数々が↑の続きの箇所から語られていくのですが、それは裏を返せば、だから神様に立ち返って命を得てね、という思いが込められてのことではないか。北イスラエルがアッシリヤ帝国によって陥落される前、何とか何とか、と最後の訴えを。それに呼応するかのように、アモス書の最後の方で「イスラエルが主に立ち返るというかすかな希望」も語られます。

 

ということで、まず「テコアの牧者のひとりであったアモスのことば」とあります。このアモスという人はテコア出身の羊飼いでした。彼は北イスラエルとはある意味では全く関係ない場所に住んでいました。このテコアという場所ですが、エルサレムから南に20kmほど行った場所にある南ユダ王国の町のひとつ、田舎町でした。

 

 

そんな誰の目にも気にされないような、留められないようなアモスに神様は目を留め、また用いられたのでした。一方で見捨てられてもおかしくない、目に留められず捨てられてもおかしくない北イスラエル、これを神様がその愛でつなげようとアモスを遣わします。まさに希望の知らせ、光を照らし、恵みの雨を注ぐため。

 

アモスという人は、貧しいところに住んでいたとはいえ、南ユダの中に住んでいましたから、ある意味で何もしなければ安泰と言えば安泰。預言活動によって北の危険な地域にわざわざ行かなくてもいい中に彼は暮らしていました。↑でウジヤの治世とありますが、彼は問題は多少ありなあらも、神様の憐れみによって52年も南ユダ王国を治めていました。ウジヤ王は西にいるペリシテ人を制圧し、東のアモン人、南のアラビア人を抑えていました。また、彼の政治的影響力はエジプトの国境にまで及んでいたようです。そう考えますと、神様のご加護、神様の守りの中にあったのです。

 

一方、北イスラエルのヤロブアム2世のほうになりますが、彼は北イスラエル王国の13代目の王で、エフー王朝の四代目の王です。同じ名を持っているヤロブアム一世は、旧約聖書の歴史の中で悪名高い存在でした。彼は金の子牛をイスラエルに持ち込んだ王です。その偶像礼拝の罪のゆえに、聖書では手厳しく断罪されています。

 

世俗的な面から見るならば、ヤロブアム一世は北王国の創設者であり、手腕のある存在でしたが、その名を受け継いだ事自体、ヤロブアム二世が一世と肩を並べる程の人物だったようです。そのヤロブアム二世の父ヨアシュは、隣接する敵国であるアラムに奪われた領土の一部を奪回しましたが、息子のヤロブアム二世は領土拡張政策を継続していった結果、国内の生活の水準は著しく向上し、建設事業推進の機運が高まって行きました。

 

なんだ、うまくいっているならそれでいいではないか、とある人は言うかもしれませんが、確かに目に見えているところでは、今申し上げましたこととの具体的な策として、通商のための幹線道路を自国の領域に入れ、富が蓄積され、商業が発達し、高所得の者たち、上流階級も増えてきました。人々は豪華な家も建て始め、その富の中に溺れ、豪奢な生活に明け暮れた者たちもいました。しかし彼らは、同じ民、自国民である貧しい人たちを蔑ろにしていきました。経済的にも、また裁判所においても真実が曲げられ、彼らを虐げました。同胞の民なのに奴隷にし、道徳的にも退廃している状態にありました。

 

本来は富というのは神様から受けるものです。この地上にあるもの全ては神様のものですから。私たちは神様の恵み、溢れんばかりの、尽きることのない富によって生かされているのです。それを自分たちで得たものとして、それを好きなように使い、困っている人を助けずにいたのです。彼らから神様の恵みを搾取していたのです、気づかないうちに。そうして、彼らはもっともっと富を、とある意味では経済の奴隷になっている状態でした。神様の御前に富まない彼らは完全に乾ききった状態になっていました。

 

私たちは、確かになんだかんだで生きています。しかし、神様なしに私たちは本当の意味で生きることはできません。だから私たちの心や魂は疲弊するのです。本当に自分を満たすなにかを求めてさ迷い歩くのです。そして何に頼ったらいいか分からない時に突然何かが起こると私たちはどうしたらいいのかわからなくなります。イスラエルの民も、ここまで神様なんていなくても大丈夫、と平然として生きてきていましたが、周辺で力をつけているアッシリヤによってこの後陥落され、離散させられます。彼らは神様の民という素晴らしい恵みに与っていたのに、そのアイデンティティを失うこととなる、本来神様の恵みに生きる、満ち溢れるものであったはずが、彼らは一番大事な神様の恵みを、祝福を失うこととなるのです。

 

彼らをそれでも神様は失うことを悲しまれるゆえに、今アモスを遣わされるのです。それは、神様は彼らが、私たちが羊飼いのいない羊のようになり弱り果てていく事を良しとできないのです。

 

イエス様は、その公生涯を歩まれていた時、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆる煩いを癒されていました。もちろん、困っている人を助けるという目的もあったでしょうが、それ以上に彼らを見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われたのです。それこそ内臓がひっくり返るほど。その時イエス様は弟子たちに、「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい」と語られたのですが、今癒す人が必要、彼らを神様の恵み、いのちのもとに導く人が必要なんだ、と仰っていたのです。それゆえに、神様はその働き手、アモスを北イスラエルに送られたのです。

 

彼らにも神様は裁きの宣告がこれから語られていくのですが、それは羊飼いがいないでどうしたらいいのか分からない羊たちと同じ、私たちを生かされる神様を見失いさ迷い歩く私たちを神様の恵みのもとに立ち返らせるため、神様は今その愛を示すべく、アモスを通して語ろうとされたのです。乾いた地に、神様の恵みの雨を今注がれようとしているのです。

 

もちろんアモスを北イスラエルに派遣するという事は彼にとっては危険なことでもあります。実際非常に厳しい裁きをこれから語っていく事になりますから、危険極まりない状態になることは明らかです。しかし、神様は北イスラエルで苦しむ民、北イスラエルで神様を知らずにさ迷っている彼らの持つ重荷、痛み、罪を、大切なアモスに負わせるのです。ちなみにアモス、という名前には「重荷を負う」という意味があります。ただ、彼らは自分たちが重荷を負っていることを知らないでさ迷っている、だからまず神様から預言者アモスを遣わされ、彼らの重荷を担わせたのです。

 

イエス様は「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます」と仰られていましたね。私たちが気付かず負ってしまっている重荷を神様が身代わりに背負ってくださるのです。そして、一緒に負って神様の御もとに導かれるのです。くびきは一人で負うものではありません。強い方と弱い方がペアになり、弱い方は強い方から学ぶそうです。まさにイエス様が一緒に歩みながら恵みの道を共に歩んでくださる。平安の道へと、安らぎへと導かれるのです。アモスを遣わした神様は一緒にアモスに重荷を負わせることによって、まさに彼らに安らぎ、平安をもたらせるためだった、本当の意味で回復することを願われたのです。

 

↑で神様は「主はシオンから叫び、エルサレムから声を出される。羊飼いの牧場はかわき、カルメルの頂は枯れる」と仰られていますね。羊飼いにとって大切な牧場が渇けば羊が生きていけないように、それは致命的な話。また、カルメル山とありますが、そこは北イスラエルの地中海に面するところにある山です。そこは海からの湿気によって、雨がたくさん降るため緑豊かなのです。しかし、その頂までもが枯れるという事は尋常ではありません。このまま裁きの海風によって彼らが枯れ果てて死にゆく、完全に彼果て失われることがないよう、神様は恵みの海風・雨による回復を願われているのです。たとえ神様ご自身が心を痛めようとも、それでも羊飼いのいない羊のように私たちが彷徨い、失われることがないよう、アモスを今遣わされたのです。世を枯らし、新しい息吹でもう一度潤し回復させるために。

 

私たちに対しても、神様のその思いは同じです。私たちが世の荒波、嵐、思い煩い、何よりサタンによる攻撃によって私たちが疲れ果て、壊され、枯れることがないよう、御子イエス様に私たちのそれらの砦となり、また重荷を背負わせるべき人として生まれさせてくださりました。そして私たちの重荷、罪、一切を身代わりに背負われ、十字架にかかられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪は赦され、神様の子とされた、新しい息吹を、その命がけの愛をもって吹かれ、私たちをもう一度あるべき姿に回復させてくださったのです。

 

今日、神様はあなたの重荷を背負うためにあなたに語られます。もう一度あなたに命の息吹を吹きかけ、聖霊様で満たし、また導かれます。そして潤された頂から水が、命が、神様の御心があなたという山を潤し、あふれ流れ、あなたの行く道を照らされるのです。あなたのために心を痛められ、御子イエス様のいのちを与えてまで、あなたを取り戻された神様があなたにどれだけの恵みを注がれようとしているか、今一度覚えようではありませんか。命をかけて遣わされた羊飼いイエス様が、復活と共に導かれるこの新しい命、道から逸れることなく、ただイエス様を見上げ、歩みたいものです。