「主はこう仰せられる。『天はわたしの王座、地はわたしの足台。わたしのために、あなたがたの建てる家は、いったいどこにあるのか。わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。―主の御告げ―わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。牛をほふる者は、人を打ち殺す者。羊をいけにえにする者は、犬をくびり殺す者。穀物のささげ物をささげる者は、豚の血をささげる者。乳香をささげる者は、偶像をほめたたえる者。実に彼らは自分かってな道を選び、その心は忌むべき物を喜ぶ。わたしも、彼らを虐待することを選び、彼らに恐怖をもたらす。わたしが呼んでもだれも答えず、わたしが語りかけても聞かず、わたしの目の前に悪を行ない、わたしの喜ばない事を彼らが選んだからだ。』主のことばにおののく者たちよ。主のことばを聞け。『あなたがたを憎み、わたしの名のためにあなたがたを押しのける、あなたがたの同胞は言った。【主に栄光を現わさせよ。そうすれば、あなたがたの楽しみを見てやろう。】しかし、彼らは恥を見る。』聞け。町からの騒ぎ、宮からの声、敵に報復しておられる主の御声を。彼女は産みの苦しみをする前に産み、陣痛の起こる前に男の子を産み落とした。だれが、このような事を聞き、だれが、これらの事を見たか。地は一日の陣痛で産み出されようか。国は一瞬にして生まれようか。ところがシオンは、陣痛を起こすと同時に子らを産んだのだ。『わたしが産み出させるようにしながら、産ませないだろうか』と主は仰せられる。『わたしは産ませる者なのに、胎を閉ざすだろうか』とあなたの神は仰せられる。エルサレムとともに喜べ。すべてこれを愛する者よ。これとともに楽しめ。すべてこれのために悲しむ者よ。これとともに喜び喜べ。あなたは、彼女の慰めの乳房から乳を飲んで飽き足り、その豊かな乳房から吸って喜んだからだ。主はこう仰せられる。『見よ。わたしは川のように繁栄を彼女に与え、あふれる流れのように国々の富を与える。あなたがたは乳を飲み、わきに抱かれ、ひざの上でかわいがられる。母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰め、エルサレムであなたがたは慰められる。あなたがたはこれを見て、心喜び、あなたがたの骨は若草のように生き返る。主の御手は、そのしもべたちに知られ、その憤りは敵たちに向けられる。』」
イザヤ書66章1-14節
「あなたは愛されているよ」と言われるとなんか嬉しいですよね。受け入れられている感があるからでしょうか。でももっと大切なことがあるんです、それは神様にあなたが愛されているという事。神様の愛が、命が注がれている、そのあなたは素晴らしいんです、いやその神様が素晴らしいのですが。神様があなたの内に住まわれる時、あるべきあなたへと回復する。神様を今日求めよう。神様を小さく見てはいけない。神様はあなたが思う以上に大きな愛をもって愛し、あなたのうちに大いなることをなして下さっているのだから。
さて、↑はイザヤが老年期に神様が語られた終わりの時についてになります。↑の前まででは、「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ」と神様は新天新地の創造を語られてきました。この世では測れない、神様の驚くべき御国が来ること、その神様が今日あなたを導かれていることを。
なお神様はその御国の到来を告げるとともにそれを備える神様がどのような方なのか、今イザヤを通して「天はわたしの王座、地はわたしの足台。わたしのために、あなたがたの建てる家は、いったいどこにあるのか。わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか」と語られます。これはすごい話ですね。地に、神様の足代があって、天に座られていて。こんな絵を描いてみたら神様の大きさがいかに計り知れないのかがわかるかもしれませんが、神様を私たちが何かに治めて、ここにお住い下さい、と言える方ではないのです。
これを書きながらふと思い出したのですが、ある時イエス様は、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれたことがあったのですが、彼らの目の前で、イエス様の御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった、ということがありました。しかも、モーセ(律法の代表な存在)とエリヤ(預言者の代表的な存在)が現われてイエス様と、イエス様の十字架について話し合っていました。
その時ペテロはイエス様に「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ」と言ったのです。その時、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」という神様の声がしました。弟子たちが怖がっていると、イエス様が彼らのところに来られて手を触れ、「起きなさい。こわがることはない」と仰られたのでした。そして彼らが目を上げて見ると、だれもいなくて、ただイエス様おひとりになっていました。
イエス様のこの姿に驚いてペテロがこのようなことをいったのは分からないこともありません。記念に、とか。幕屋を建てるので、ここにお住い下さい、いつまでもいてください、とそんな感じでしょうか。ただ気になるのは、イエス様だけではなく、モーセやエリヤにも幕屋を建てるといったことでしょうか。先程補足で書き加えたところからもわかるように、モーセもエリヤも旧約を代表するほどの人物です。そして、この律法と預言者が語っていることがイエス様の十字架と復活にあって成就する、それがこの場面の本質なのですが、彼の考えはずれていました。
まず、エリヤとモーセはイエス様に勝ることはできません。彼ら一人ずつにイエス様と同じように幕屋を建てるという事自体がおかしいのです。彼らは神様から召し出され、神様の語られることを語り、行いましたが彼らがすごいというわけではないのです。何より、イエス様は地上で他の宗教家たちのように有名になりたかったのではなく、むしろ謙遜に仕え、イエス様が、まさに彼らと話していたように、十字架と復活によって天と地を、私たちと神様を結ばれたのです。その時、イエス様のみ顔が輝いたように、私たちは神様のこの地上では測れない、神様の栄光を、素晴らしさを仰ぎ見させていただけるのです。
そう、↑の神様の「天はわたしの王座、地はわたしの足台。わたしのために、あなたがたの建てる家は、いったいどこにあるのか。わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ」と語られた言葉、これはただ神様の大きさだけをこれは言っているのではないのです。人が何か建物を建てるからそこにいるのではない、神様がその御名を置かれるところに御国が現わされるのです。そのなされるところは、私たちの思う、願いをはるかに超えた神様の御心がなるのです。
以前神様がイザヤを通して「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。―主の御告げ―天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える」と語られた預言を見ましたが、神様の思いは天が地よりも高いように、私たちの思いをはるかに超えたものなのです。その天地を超えた大いなるみこころ、神様のくださるパンが、私たちに注がれる、御心があなたの内に成され、まさに天と地が神様のこの愛によって繋がれるのです。御心が天で行われるように、それが地に成されるのです。大きな大きな神様の愛、御心があなたに注がれるのです。
神様が建て上げてくださる完全な御国の到来は終わりの時に確かにきます。人が建てるものではない、天地をはるかに超えた神様が建て上げられ、そこに私たちは招かれるのです。地から天に自分では上がることはできませんが、神様が引き上げてくださるのです。終わりの時に、いや今も神様は私たちの内にその完璧なる愛を注がれ、招いてくださっているのです。この完全な御国を備える完全なる神様が、ご自身のもとに、いのちを得てほしいと。神様が憩いの場を広げてくださる、神様ご自身が憩いの場となり、神様があなたを癒し、またキリスト様の似姿に近づけてくださるのです。
私たちは自分の理想を神様に押し付けて、神様をその中に押し込めていないでしょうか。しかしそもそも私たちは神様のものです。神様によって造られたものです。神様が神様の理想と言いますか、イメージを、愛をもってあなたを日々形造られるのです。私たちは↑で言われているように、神様の喜ばないことを選ぶ、自分の喜ぶことを神様に押し付けていないでしょうか。自分の神様像はこうだから、こうしてくれ、と。しかし私たちは「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ」と神様が仰られているように、この神様の御心の前にまず遜ろう。天にその玉座を設け、地を足台とされる神様が招かれるこの神様の家に立ち返ろう。そして神様がイメージされているあるべきあなたへと作り変えていただこう。神様の息吹をいただき、本当の意味で生きたもの、神様の恵み、神様の形づくられた最高のいのちの内を歩もうではありませんか。
神様は↑の最後で「見よ。わたしは川のように繁栄を彼女に与え、あふれる流れのように国々の富を与える。あなたがたは乳を飲み、わきに抱かれ、ひざの上でかわいがられる。母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰め、エルサレムであなたがたは慰められる。あなたがたはこれを見て、心喜び、あなたがたの骨は若草のように生き返る。主の御手は、そのしもべたちに知られ、その憤りは敵たちに向けられる」と語られています。私たちは神様から離れ、死が入り込んでしまいました。霊的にも。私たちは赤ちゃんがお母さんから離れて生きられないように、神様から離れて生きることはできません。しかし、神様はその私たちをもう一度命あるもの、神様の造られた最高の姿に回復させるため、私たちの痛みを、重荷を、罪の刑罰、死を御子イエス様に身代わりに背負わせ、十字架に架けられ、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪は赦され、神様の子とされるのです。
その時、まさにこの約束が成就されます。もちろん今地上にいる間は不完全であっても、神様の恵みにあって古い私たちの痛みはすべて拭い去られ、新しくされる。イエス様の血潮が私たちの内に行き、生かして下さり、神様のくださる繁栄、命、愛によって私たちは生きるのです。イエス様のいのちにあって結ばれた天と地、その中に神様がもたらされる富はいかほどばかりか。私たちは今日、私のお心、国ではなく、この神様の御国を待ち望もう。今、神様が私たちの内に注がれる恵み、建て上げる日々、御国に身を委ねよう。命をかけてすべてを変えてくださったイエス様が回復させてくださる、新しくしてくださる命に期待しようではありませんか。