―神様はお忙しいのか?神様の手は長いのか?短いのか?― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。実に、あなたがたの手は血で汚れ、指は咎で汚れ、あなたがたのくちびるは偽りを語り、舌は不正をつぶやく。正しい訴えをする者はなく、真実をもって弁護する者もなく、むなしいことにたより、うそを言い、害毒をはらみ、悪意を産む。彼らはまむしの卵をかえし、くもの巣を織る。その卵を食べる者は死に、卵をつぶすと、毒蛇がとび出す。そのくもの巣は着物にはならず、自分の作ったもので身をおおうこともできない。彼らのわざは不義のわざ、彼らの手のなすことは、ただ暴虐。彼らの足は悪に走り、罪のない者の血を流すのに速い。彼らの思いは不義の思い。破壊と破滅が彼らの大路にある。彼らは平和の道を知らず、その道筋には公義がない。彼らは自分の通り道を曲げ、そこを歩む者はだれも、平和を知らない。」

イザヤ書59章1-8節

 

私たちはどこかで困っている人がいると助けたい、という思いがあります。この感覚、いいですよね。ただ、やはりできることにも限界はあり、手を差し伸べることのできる範囲にも限界があります。忙しく疲れれば聞こえる声も聞こえなくなる。じゃあ神様はどうなのでしょう。神様は忙しいのか?たくさんの人を助けるからとても手が回らない、なんてことはあるのだろうか。いえ、神様はその手が届かないところはなく、天から降って人となってこられたこと、十字架で死に陰府にまで降られたこと、その後復活されたことを考えればいけないところなどありません。私たちは自ら神様から離れたところに自分を置いていないでしょうか。神様はあなたを今日もみもとに招いてくださっています。この神様があなたの内に成そうとしてくださっていることに信頼し、歩みたいものです。

 

さて、↑はイザヤが老年期のころに神様が語られたものになります。↑の前では、神様が公正と正義を今なそうとしてくださるのだから、今神様を求める事、また安息の内に招かれること、永遠の名、イエス様の御名において私たちを神様につなげてくださっていること、その安息に、花嫁として招かれていること、そのイエス様が終わりの時、必ず戻ってこられ勝利を治めてくださる、だからこの神様に従い続けることを訴え、神様の与えてくださる地、恵みに生きる事を訴えてこられました。何より神様ご自身が減り砕かれ、心砕かれ私たちを救いに来てくださった、その愛に今日、招こうと訴えられていきました。形骸化された関係ではなく、とこしえに続く神様の恵みの関係へと。

 

ただ、現実として当時のイスラエルの民は、マナセ王の圧政によって国は苦しみ、さらにはバビロンによる圧迫もあって、神様がそんなに愛しているのならなぜこのような状況にあるのか、と訴えるわけです。そこで神様はイザヤを通して「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ」と民に訴えます。

 

私たちは苦難困難がある時、まさにそのような疑問に陥るわけですが、しかし神様の御手は短いわけではなく、救えないわけではなく救えるんだ、耳が遠くて、忙しくて聞こえないのではなく聞えているのです。この広大な宇宙を考えてみてください。未だにロケットがあっても宇宙の最果てに人類は届きません。科学がどれだけ発展しても、その限界を見ますよね。しかし、神様はこの天地万物を造られた、隅から隅まで、余すことなく、完全に。神様のお心、関心も含めてその御手が御業が届かないところなどないのです。

 

では、何が問題があるのか。神様は「あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ」とお答えになります。ようするに、罪が問題なんだ、と。

 

罪、と書くと嫌煙されがちなのですが、しかし罪だから、罪人だから見捨てる、と神様はされるわけではありません。むしろその罪人を見捨てない、それがアダムとエヴァが罪を犯したときから変わらない神様の愛、決断だった、見捨てられてはおらず、むしろ神様は、彼らの時を含めて多くの助け、預言者、また彼らを通して奇跡を現され、語られ、時に直接的な働きかけをもって助け、救わんとされてきました。パウロという人はその手紙の中で、「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです」と書き、各地の教会に送りました。

 

彼自身イエス様を、クリスチャンを迫害するものでした。神様から罰せられ滅ぼされてもおかしくないほどのことをした、しかし神様はそんな彼を憐れまれ、救いに招かれたのです。むしろ罪が支配するのではなく、イエス様の義の賜物、命、救いが満ち溢れるように、永遠のいのちを持つことをイエス様は願われ、彼は十字架の対象外、とはせず、彼をも救いに招かれたのでした。

 

この章の中で神様は罪の問題について語られていきます。続きの箇所でも出てきますが、それは私たちを突き放すためではなく、かえって「神様から遠く離れてしまった私たち」を救わんと御手を伸ばされ、また語りかけられているのです。

 

神様は「あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ」と仰っていますが、神様は御顔をあなたに向けておられる、しかしその罪が遮っている、というのです。その象徴的な出来事が、まさに初めて人類に罪が入ってきた時に起こりました。

 

初めの人、アダムとエヴァはエデンの園に住んでいました。しかし、サタンがエヴァを誘惑し、神のようになれるから神様の取って食べてはいけない、と言われていた実を食べさせます。エヴァはこれを拒否せず、選んだのでした。サタンの「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです」という言葉に、神様が自分が神のようになることをねたんでいるからこれを与えない、ベストを与えない、と見当違い、向くべき方向を別なほうに向けてしまったのです。神様は愛し、すべてのことを与えてくださっている、その神様に対する心が的外れな方向に向かってしまったのです。そう、この的外れ、に該当する言葉が↑に出てくる「罪」という言葉なのです。

 

アダムもエヴァに言われて食べてはいけないと言われていた木の実を食べてしまった、そこで神様はアダムとエヴァを探しに来ます。その時のことが「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。『あなたは、どこにいるのか。』」と記されています。神様は嵐をもって彼らに近づいてきたのではなく、園を静かに歩き回られていたのです。神様は「あなたはどこにいるのか」と語っていますが、別に神様は彼らの居場所が分からないのではなく、神様はご存じだったのです。行き場を失いさ迷っている彼らを何とか悔い改めに導き恵みを注ぎたいと招いていたのです。

 

しかし、残念ながらこの時、アダムの方が遠ざかりました。食べてはならないと神様が命じておられた木から取って食べたとき、彼は神様の御顔を避けて、木と木の間に身を隠したのです。「アダム、あなたはどこにいるのか」神様が呼びかけても、彼は神様を恐れ、神様の前に姿を見せようともしませんでした。もともと人間は神によって造られ、神様を愛し、神様と交わるように造られたのに、遠ざかってしまったのです。

 

神様はアダムたちの声を聴き、その御手を伸ばされていた、お心を注ごうとされていた、しかし彼らの罪が神様を恐れ、拒否し、聴いて下さろうとした神様の本当の声を聴こうとしなかったのです。その結果、彼らはなっていったか、神様は「実に、あなたがたの手は血で汚れ、指は咎で汚れ、あなたがたのくちびるは偽りを語り、舌は不正をつぶやく。正しい訴えをする者はなく、真実をもって弁護する者もなく、むなしいことにたより、うそを言い、害毒をはらみ、悪意を産む。彼らはまむしの卵をかえし、くもの巣を織る。その卵を食べる者は死に、卵をつぶすと、毒蛇がとび出す。そのくもの巣は着物にはならず、自分の作ったもので身をおおうこともできない。彼らのわざは不義のわざ、彼らの手のなすことは、ただ暴虐。彼らの足は悪に走り、罪のない者の血を流すのに速い。彼らの思いは不義の思い。破壊と破滅が彼らの大路にある。彼らは平和の道を知らず、その道筋には公義がない。彼らは自分の通り道を曲げ、そこを歩む者はだれも、平和を知らない」と語られます。

 

この罪が、私たち、人のうち全体を支配する様子がここで語られていますね。その影響は、自分はこんなひどいことはしない、と思っていても、それこそコップの下に沈んでいる泥のように、その水をかき混ぜると水全体が濁るように、何かによって形は違えども起こりえる話です。そういう意味では私たちの内側全体が洗い聖められ、新しくされるその必要がある、その新しくされたものによって私たちは満たされ、また生きたものとなるのではないでしょうか。

 

この罪の羅列について、大きく分けて「手」「口」「足」「思い」の4つに分けられそうですが、↑で「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない」と語られていることを思い返しますと、神様はその御手を取って遠く離れてしまった私たちのところに足を運ばれ、その口をもって御思いを語られ、その愛を示され、実行された、神様との仕切り、御顔を隠すなにかを取り除かれようと今訴えているのです。

 

その究極のかたちとして、神様は御子イエス様を私たちが罪によって神様との間に仕切られたものを取り除くため、私たちの思い煩い、痛み、罪を背負われるために人となって生まれてこられ、その御手をもって癒され、また口をもって励まし、また悔い改め、神様のほうに立ち返らせ、いのちを得てほしいと語られ、最後はその足を十字架に向けて進められました。それは私たちの足が神様に立ち返り向くことを願われ、全ての痛み、苦痛、悲しみ、思い煩い、何より罪による私たちの呪い、その代価を支払うため、その足を止めることなく最後まで十字架から降りることをなされず、ついには死なれました。そして陰府にまで降られたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦され、神様の子として引き上げてくださった。死せるべき私たちをその御手をもって死から引き上げられ、永遠のいのちが与えられるのです。

 

もはやこのイエス様のいのちにあって取り除かれた罪はあなたと神様を仕切ることはできません。私たちは、もはや破滅の大路ではなく、平和の道を、神様が御子イエス様のいのちをもって備えてくださったこの道を歩ませていただけるのです、天にまで続くいのちの道を。私たちはこのイエス様の惜しみない愛、限りない御手によって結ばれた命の内、平和の内を喜び歩ませていただこうではありませんか。「手」「口」「足」「思い」を、私たち自身を神様にお返しし、あなたは今日、何を神様に願うでしょう。