―剣でできること― | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「それから、弟子たちに言われた。『わたしがあなたがたを、財布も旅行袋もくつも持たせずに旅に出したとき、何か足りない物がありましたか。』彼らは言った。『いいえ。何もありませんでした。』そこで言われた。『しかし、今は、財布のある者は財布を持ち、同じく袋を持ち、剣のない者は着物を売って剣を買いなさい。あなたがたに言いますが、【彼は罪人たちの中に数えられた】と書いてあるこのことが、わたしに必ず実現するのです。わたしにかかわることは実現します。』彼らは言った。『主よ。このとおり、ここに剣が二振りあります。』イエスは彼らに、『それで十分』と言われた。」

ルカによる福音書22章35-38節

 

私たちにはいろんなものがあり、それがあるのが当たり前のように感じるかもしれませんが、私たちは裸で何も持たずに生まれてきたわけですし、魂だって自分で得たものでもありません。すべては神様から与えられたのです。そして今日まで導いてきてくださったのです。私たちが歩む限り様々な問題や試練があります。しかし神様がいる、その喜びをしっかり握りしめ歩もうではありませんか。あなたに命をくださった、神様が今日共におられるのだから。

 

さて、↑は神の御子たるイエス様が人となって生まれてこられ、惜しむことなく愛を現し続け、しかしついに裏切られ十字架にかかられようとしていた、その前夜の出来事になります。↑の前では最後の晩餐を持ち、その中でペテロの裏切りについてイエス様は語られました。ペテロはそんなことはしない、とは言いますが。ただ、完全な人はいないんです。私たちは弱い、弱くていい、神様があなたの内に働かれる時、本当の意味で私たちはあるべきもの、あなたへとなるのです。

 

そんな中で、イエス様は弟子たちに「わたしがあなたがたを、財布も旅行袋もくつも持たせずに旅に出したとき、何か足りない物がありましたか」と語られました。これは以前2度ほど弟子たちを神の国を宣べ伝え病人を癒すために派遣されましたが、その時イエス様は「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない」と仰られました。その次の時も72人の弟子たちを2人ペアにして派遣されたのですが、この時も、財布も袋も履物も持って行かないようにと告げられました。

 

結果どうだったか、と言いますと、見ず知らずの人を無下にすることなく、↑でイエス様に聞かれた時に弟子たちが「いいえ。何もありませんでした」と答えたように、必要は満たされていたのでした。神様がそのような人を備え、ありとあらゆる必要を満たしてくださった、それは昔も今も変わらなかったのです。出エジプトさせていただいたイスラエルの民が荒野の40年の旅路で一切の必要が満たされたように。

 

そんな中イエス様は「しかし、今は、財布のある者は財布を持ち、同じく袋を持ち、剣のない者は着物を売って剣を買いなさい。あなたがたに言いますが、『彼は罪人たちの中に数えられた』と書いてあるこのことが、わたしに必ず実現するのです。わたしにかかわることは実現します」と驚くべきことを語られます。それは前に弟子たちを遣わされた時と逆のことを仰られたからです。それは神様は助けてくれない、という事なの?と思いたくなりますよね。もうそんなときは終わったんだ、と言わんばかりに。

 

特に気になるのが剣です。実はこの後イエス様が捕まる時に、ペテロが兵士たちに「剣」で応戦しようとし、その兵士の耳を切り落とす、という事が起こるのですが、そのためにイエス様は剣を用意させたの?いえ、この時イエス様はペテロに、「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう」と仰られました。もしこのために用意させたというなら、言っていることが矛盾します。剣をとるものは剣で滅びる、というのにではなぜ彼らが2振りの剣がある事をイエス様に伝えると、「それで十分」と答えられたのも気になります。

 

ただ、イエス様はそのペテロの応戦の後に「それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか」と仰られたように、神様ご自身がイエス様が生まれる前からずっと支えてこられた御霊様が確かにおられ支えられていたように、あなたを支えてくださるのです。彼らは自分の信念や決意や覚悟に従って今この試練の時ついていこうとしていた、でもそうではなく、私たちの歩み、私たちの信仰は、自分の信念や決意や覚悟によるのではなく、また私たちの決意や努力によるのではなく、祈りによって、そしてそれに応えて下さる父なる神様のみ業によって与えられ、支えられ、維持されるのです。何もかも失われるような時があっても神様を求める心を忘れてはいけません。私たちの財布や履物という名の蓄え、力によるのではなく、神様がそれを満たしてくださるのです。

 

そう考えますと、先ほどの剣の意味するところが見えてきますね。剣、自分の力で切り開いていくのには限界があります。ペテロは2振りの剣があると言いますが、この後、祭司長たち(要するにイエス様を殺したい宗教家たちのトップ)に率いられた群衆が、剣や棒を持ってイエス様を捕えに来ます。武装した群衆の前で、この二振りの剣は全く無力です。身を守る役には立ちません。私たちの試練の前にだって、現実の問題にだって、自分の武器が一体何の役に立つでしょう。剣、知識でどうしのぎますか?特にこのペテロがこの後直面するのはサタンのふるいが待っているのです。そんなものの前に剣は何の役にも立ちません。

 

イエス様はこれを見て「それでよい」と仰りましたが、それは2振りの剣があれば十分、ということではなく、あなたがたが自分の力で振り回すことができるのはせいぜいその2振りの剣ぐらいのものだ、と仰られているのではないでしょうか。しかし、本当の勝利に導くには私たちの努力や力によるのではなく、あなたのために「彼は罪人たちの中に数えられた」と↑でイエス様が宣言されているように、身代わりに罪人となって十字架にかかられ、死なれた、その愛を断行された神様の愛、御力によるのです。

 

この十字架の愛の前に何ものも勝ることはできません。私たちは今、この神様の究極の断行、御子イエス様を私たちの身代わりに罰せられ死なせた、その愛をいただいているのです。今イエス様はその愛を実行に移そうと十字架に向かわれている、そして事実十字架にかかられ、死なれました。あなたの手元になにがありますか?このイエス様による救い、新しい命です。この内にこの愛を断行された神様の愛が、御力が豊かに現されるのです。それに依って切り開かれた命、何を恐れる必要があるでしょう。自分の力、信念と覚悟ではなく、今やイエス様の自分の力、信念と覚悟によって私たちは今日生かされているのです。

 

私たちは振り回すものを間違えてはいけません。私たちにはそれで十分、とイエス様が渡してくださったこの救いがあります。買うようにと言われた剣はもう、イエス様のいのちにあって支払い済みです。それほどの神様の愛があなたに今注がれているのです。このイエス様の受けた懲らしめによって私たちに罪の赦され、神様との平和が与えられ、主様イエスの受けた傷によって、私たちは自分のまた隣人の罪による傷を癒されます。

 

ここに全てがある、この確信をあなたは持っていますか?イエス様がいれば十分、イエス様があなたの全てとなられるために命をかけられた、そして復活と共に与えられたこの新しい命のうちに込められている神様の愛をしっかり握りしめよう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が御子イエス様といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださっているのだから。このイエス様ご自身と共に今日、歩ませていただこうではありませんか。このイエス様の命がけの愛によって実現されるすべての約束に信頼して。あなたは今日何の剣を手に取っていますか?信仰・信頼の剣、みことばの剣、それとも誰かを裁き傷つける剣?私たちは神様への信仰の剣を取り、愛を現すものでありたいものです。