―そこに備えられているのは平安と癒し:生きて!― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「主は仰せられる。『盛り上げよ。土を盛り上げて、道を整えよ。わたしの民の道から、つまずきを取り除け。』いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。『わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。わたしはいつまでも争わず、いつも怒ってはいない。わたしから出る霊と、わたしが造ったたましいが衰え果てるから。彼のむさぼりの罪のために、わたしは、怒って彼を打ち、顔を隠して怒った。しかし、彼はなおそむいて、自分の思う道を行った。わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう。わたしは彼を導き、彼と、その悲しむ者たちとに、慰めを報いよう。わたしはくちびるの実を創造した者。平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。わたしは彼をいやそう』と主は仰せられる。しかし悪者どもは、荒れ狂う海のようだ。静まることができず、水が海草と泥を吐き出すからである。『悪者どもには平安がない』と私の神は仰せられる。」

イザヤ書57章14-21節

 

人は何とか自分を大きく見せようと試みることがあります。もちろん努力をすることを否定することはできませんが、ただ私たちを本当の意味で広げることができるのは私たちを造られた神様だけです。神様が私たちの傷を癒し、また回復される、新しくしてくださる中で本当の意味で強い、生きた、神様の霊が注がれた最高のあなたへと変えられていくのです。あなたを造られ、あなたのために御子イエス様のいのちさえ惜しまなかった神様があなたを作りかえ、あなたの道を備え、導かれる。この命を。わが道を行くのではなく、神様が導かれる先、栄光を待ち望み今日もイエス様と共に歩もう。

 

さて、↑はイザヤが老年期のころに神様が語られたものになります。↑の前では、神様が公正と正義を今なそうとしてくださるのだから、今神様を求める事、また安息の内に招かれること、永遠の名、イエス様の御名において私たちを神様につなげてくださっていること、その安息に、花嫁として招かれていること、そのイエス様が終わりの時、必ず戻ってこられ勝利を治めてくださる、だからこの神様に従い続けることを訴え、神様の与えてくださる地、恵みに生きる事を訴えてこられました。

 

↑でなお神様は「盛り上げよ。土を盛り上げて、道を整えよ。わたしの民の道から、つまずきを取り除け」と語られます。前の箇所で、義人・神様に身を寄せる人たちについて、「わたしに身を寄せる者は、地を受け継ぎ、わたしの聖なる山を所有することができる」と神様は約束されていましたが、その神様に身を寄せる人たちに向けて今、このように神様は仰るのです。

 

まず神様は何のために道を整えるように仰られているのでしょう。そもそも私たちがどんなに道を良くしようと、私たちの歩みを良くしようと努力しても限界がありますし、神様が備えてくださる道に勝るものはありません。そうすると、私たちが天国に入るために道を整えるとか、そういう話ではないことが見えてきますね。

 

イエス様は「なたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。…わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」と十字架にかかられる前日に仰られていました。父なる神様の家にはたくさんの住まい(訳的には大豪邸という意)がたくさんある、そこに私たちの住まいを備えに行かれ、また迎えに来られる、と。

 

イエス様がその道を十字架をもって私たちに備えられた、イエス様こそがその道なのです。真理、命に通じる、まさにその道なのです。イエス様が私たちの罪のために身代わりにこの罰を引き受けられ、十字架にかけられ死なれ、3日目によみがえられる、そして天に昇られた、そのことによって、私たちと父なる神様をつないでくださった、その架け橋となってくださったのです。架け橋という字が、十字架の架の字になっているのが面白いですね。まさにイエス様が父なる神様と私たちをつないでくださったのです。それはどうして?私たちが本来神様から受けるはずだった命、恵みに生きるため、神様の子として生きるために、「神様が」イエス様という架け橋を架けてくださったのです。

 

そうすると、この神様の訴えている「盛り上げよ。土を盛り上げて、道を整えよ。わたしの民の道から、つまずきを取り除け」という言葉の本質が見えてきます。ただ私たちがあれこれ見かけを整えてさも良い道にする、歩んでいるように見せるのではなく、「神様が整えてくださった」道、神様の憐れみによって整えられたこの道の前に、つまずき、神様の恵みをないがしろにする心、これらを神様によってもう一度盛り上げていただく、新しい土に変えていただく、もう一度神様の御前に立ち返り、この神様の供えてくださったいのちの道、イエス様にあって与えられたこの永遠のいのち、新しい命を歩むことを訴えているのです。神様が備えられた、神様の恵みの道を。

 

その神様は「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方」と自らを示されながら「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである…」と続けて語られます。

 

先程、イエス様は父なる神様のところには住まいがたくさんある、ということを仰られていた事に触れましたが、神様がそこを独占し自慢されたかったわけではなく、そこにあなたの居場所を設けてくださる、ということを語られていましたね。しかもそれは大豪邸だ、と。神様は、ただあなたがなんとなく生きるのではなく、大豪邸、神様の住まわれあなたを豊かにされる、あなたの内に恵みを溢れんばかりに注がれ、いのち溢れるものとしたい、神様の愛で溢れさせたいのです。永遠の住まいに住まわれる神様は、永遠の恵みの内にあなたを招かれ、その愛を注がれたいのです。それを、神様ご自身がイエス様の命をもってこの道を備えてくださっているのです。

 

ただ私たちは頑なで、別に神様なんて必要ない、と自分で自分の行く道を整え好きな道を歩もうとします。しかしその道はいつかは終わりを迎えますし、その道を歩むあなたをだれが保証するのでしょう。人は「道」を求めますが、見つからないでさ迷うから探し続ける。でも、神様はイエス様をもって、その永遠なる愛、恵みに招かれた、その道を備え、私たちは神様と繋がる、神様と住まうことが赦されているのです。

 

神様は「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む」と仰られていますが、その高く聖なるところに住まわれている神様は高いところから時々助けるのではなく、その永遠の住まいに住まわれる神様が、その聖を、聖なる愛を現すために、神様であられるのに人となって生まれて来てくださった、遜って降ってきてくださったのです。罪を犯さない点を除いて完全な人となってまで。なぜ神様がそこまでされなければいけないのでしょうか。しかし神様はそれでも好き勝手に生きる私たちが神様のもとに立ち返れるように、今から約2000年前、赤ちゃんとして生まれてきただけではなく人々の間に住まわれ、同じ重荷を負い、なおその愛を現し続けられました。裏切る群衆、殺そうとする者たちさえいる中で、愛を現すことをやめなかった、その聖なる愛を、聖を惜しむことなく現されたのです。イエス様はどれだけ心を砕かれた事か。それでも彼らを、私たちを見捨てることはなかったのです。

 

そして、私たちを地の底、死の内から救い出す、引き上げるため、イエス様は罪もないのに、私たちのためにとことんまで遜られ、背負う必要のない私たちの罪を身代わりに背負われ、十字架にかかられ、罰せられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改めるすべての人の罪が赦され、神様の子とされる、この高く聖なる神様の内に私たちは招かれた、復活のイエス様があなたの内に住まわれ、その高く聖なる愛を惜しむことなくあなたの内に現されるのです。この徹底した愛、いのちを惜しまないこの聖なる愛ゆえに。この愛ゆえにあなたの内に驚くべき恵みを現されるのです。

 

神様は、この十字架の前に「へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生か」してくださる。その約束がイエス様の十字架にあって成就されたのです。あなたがこのイエス様の前に遜り生きるなら、とイエス様の命を砕かれあなたを救う決断をされ、実行されたのです。

 

神様はなお続けて「わたしはいつまでも争わず、いつも怒ってはいない。わたしから出る霊と、わたしが造ったたましいが衰え果てるから。彼のむさぼりの罪のために、わたしは、怒って彼を打ち、顔を隠して怒った。しかし、彼はなおそむいて、自分の思う道を行った。わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう。わたしは彼を導き、彼と、その悲しむ者たちとに、慰めを報いよう。わたしはくちびるの実を創造した者。平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。わたしは彼をいやそう」と語られます。

 

本来は私たちが神様と争った結果、神様の怒り、罪の刑罰が下され、神様の永遠の住まいに住まい生きるどころか、永遠の裁き、別離に降るところ、神様はその怒りの器をイエス様に身代わりに注がれたのです。イエス様は十字架上で神様から切り離されるという最大限の悲しみを負うことになった、それでもあなたが癒され、生きることを願い、イエス様の身代わりの死を見ても、十字架から降ろさず、死なせたのです。神の御子イエス様を、ですよ。天地創造のはるか前より共におられた、その関係が切り離される、イエス様はどれだけつらかったことでしょう。しかしそれでもあなたが生きる事を願われたのです。

 

ここで神様は「平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。わたしは彼をいやそう」と仰られていますが、復活のイエス様は、自分を裏切り見捨てて離れていった弟子たちのもとを訪れました。しかしイエス様はその怒りを彼らに向けて滅ぼすのではなく、むしろ彼らを悔い改めに導かれ、「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。…聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります」と語られ、彼らへの赦しの宣言と平安あれ、と彼らにその息吹を、聖霊様を注がれたのです。彼らに互いに赦し合う事を勧めつつ、イエス様ご自身彼らに裏切られ十字架にかけられたのにも関わらず、彼らに怒りを注ぐのではなく、むしろ平安を、いのちを注がれたのです。

 

最後に悪どもには平安がない、と神様は語られていますが、そのような弟子たちが悔い改め、平安を得たように、あなたにも神様は平安を得てほしい、と今日願われている、永遠の住まいに住まわれる、計り知れない恵みの家の内に私たちは招かれているのです。私たちは今日このイエス様の御前に心砕き遜り、このイエス様にある癒し、回復をいただき、このイエス様の命にあって備えられた道を歩もう。永遠なる神様があなたに備えられた聖なる恵みが今日あなたと共にありますように。