「また、彼らの間には、この中でだれが一番偉いだろうかという論議も起こった。すると、イエスは彼らに言われた。『異邦人の王たちは人々を支配し、また人々の上に権威を持つ者は守護者と呼ばれています。だが、あなたがたは、それではいけません。あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょう。むろん、食卓に着く人でしょう。しかしわたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています。けれども、あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たちです。わたしの父がわたしに王権を与えてくださったように、わたしもあなたがたに王権を与えます。それであなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食事をし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。』シモンはイエスに言った。『主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。』しかし、イエスは言われた。『ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。』」
ルカによる福音書22章24-34節
人はどこかで自分自身を誇示したいと言いますか、そのために色々することがあります。でも本当に偉い人は仕えるといいますか、そうして支えますよね。私の以前いた職場で誰しもから本当に認められていた人は、人のやらないことをする、人の見ていないところで支えることをしていたな、と今思い返すと思います。神様は、私たちをただ見て、時々助けるとかではなく、罪人の相手などしない、と突き放すのではなく、かえって仕えるものとなるために、罪を犯さない点を除いて完全な人となって生まれてこられました。そして、愛を惜しむことなく、いのちをもってまで現されました。このイエス様が今日、あなたの内に働かれているこの喜びを私たちは握りしめ、感謝し歩もうではありませんか。何よりこの神様の愛を私たちも伝える、同じように仕える者でありたいものです。
さて、神の御子たるイエス様が人となってお生まれになり、その公生涯において徹底的に仕え、その愛を現し続け、いよいよ十字架にかけられる前日となり、イエス様は最後の晩餐の時を弟子たちと持ちます。↑では触れていませんが、この時、イエス様は本来奴隷の仕事である客人の足を洗うという事をされました。そして互いに洗い合うように教えられます。本来弟子がむしろイエス様の足を洗うべきところを、イエス様はそれを批判するのでもなく、喜んで足を洗われ、最後までその愛を現されたのでした。
そんな中で弟子たちは、「この中でだれが一番偉いだろうか」論じ合います。↑の前の箇所で、イエス様はご自身のからだを割き、血を流して彼らの罪を、何の罪もないのに背負い救われることを語られた、そのようなものの誰が優れているのか、なんて議論すること自体がまずおかしな話なのですが。それを聞いたイエス様は「異邦人の王たちは人々を支配し、また人々の上に権威を持つ者は守護者と呼ばれています。だが、あなたがたは、それではいけません。あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょう。むろん、食卓に着く人でしょう。しかしわたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています。けれども、あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たちです。わたしの父がわたしに王権を与えてくださったように、わたしもあなたがたに王権を与えます。それであなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食事をし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです」と語られます。
人を支配するのではなく、かえって仕えるものであるように、と勧めるのです。彼らは12弟子としてイエス様についてきました。だから自分たちは偉いんだ、その中で特に自分は偉いんだ、と言いたい人たちが出て来たんは分からないこともありませんが、じゃあ彼らが特別偉いから選ばれたのか、と言われたらそうではありません。箸にも棒にも掛からぬような人もいましたし、正直な話が社会的な立場で見たら、とても偉い地方出身、家柄出身、仕事をしていたのか、といわれたらそうではありません。ただイエス様のあわれみゆえに彼らは選ばれたのです。
私たちはまずここを忘れてはいけません。私たちが特別何か優れているから愛を受けるに値するわけではありません。神様が私たちをまず選ばれたのです。イエス様がその身を引き裂いてまで愛を注がなければ生きられない、神様の恵みから断絶されてしまうはずの私たちだった、その私たちが今この愛を受けているのです。イエス様が神の御子であられながら、私たちの内に愛を現された、普通は逆ですよ。私たちが神様のために何かをしなければいけない、それがむしろイエス様が私たちの内に住まわれ、その御業を、愛を、恵みを現して下さるのです。
イエス様は仕えられた、イエス様が私たちのためにいのちを引き裂いてまで救うというあり得ない愛を現されたから、死にまで従うほどにあなたを愛することを選ばれ、仕えられたからこそ、今の私たちがあるのです。私たちがこのイエス様の十字架の愛をいただく、御前に悔い改め立ち返るからこそ、私たちは生きたものとなるのです。神様のすばらしさが現わされるのです。むしろ私たちは自分が自分が、と神様を押しのける、誰かを押しのけるのではなく、神様の御心、いや神様ご自身の前に遜り、そのみ旨が、御心がなることを祈りたいものです。裁くもの、といいますが、それは支配するのではなく、むしろ仕える、祈るものです。その愛を、権威をいただく中で神様の御心を現すものとなること、その中に神様の御国が豊かに広がっていくのです。
↑の最後でイエス様はペテロの裏切りについて語られます。実際にこの後ペテロはイエス様を否定することになるのですが。イエス様はそれを知っていてなお彼のために祈られました。彼の罪の代価も一緒に背負うから、もう一度立ち上がらせるから、と約束されました。私たちはこのイエス様の祈りにあって立ち上がらせていただける、私たちが強いからではなくこのイエス様にあって私たちは立ち上がることができる、本来あるべきいのちを、神様の恵みの中生きる、神様の子として、その特権に生きることができるのです。
その特権にあって私たちは、ペテロにイエス様が「だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と仰られたように、ペテロが自分は大丈夫、裏切りません、と虚勢をはるのでもなく、むしろ私たちの周りの人たち、苦難の中にある人のために励まし、祈り、とりなすものでありたいものです。私は大丈夫、といっても私たちは困難があればどうにもならないことがあります。しかし、私たちは神様が私たちの内に恵みを注がれるからこそ、本当の意味で立ち上がれる、生きることができる、だからこそこの神様の愛の前に遜りつつ、さらにこの暗闇の中に神様の光、希望が輝くことを祈りたいものです。裏切り、失意の朝ではなく、希望の、復活の朝、新しい命が、この後12弟子たちが迎えるように、私たちもやがて迎える日が来るから。