「幸いなことよ。安息日を守ってこれを汚さず、どんな悪事にもその手を出さない、このように行なう人、これを堅く保つ人の子は。主に連なる外国人は言ってはならない。『主はきっと、私をその民から切り離される』と。宦官も言ってはならない。『ああ、私は枯れ木だ』と。まことに主はこう仰せられる。『わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶ事を選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、わたしの家、わたしの城壁のうちで、息子、娘たちにもまさる分け前と名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。また、主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった外国人がみな、安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。―イスラエルの散らされた者たちを集める神である主の御告げ―わたしは、すでに集められた者たちに、さらに集めて加えよう。』」
イザヤ書56章2-8節
保証人というものがありますが、これはその保証する人が保証に値すると言いますか、その名前に力があるからある意味で成立しますよね。ある意味ではその人の保護の内にあるわけです。まあ変な権力の傘みたいなものに逆にとらわれることもあるので、それはそれで問題ですが。私たちは神様のお名前のもとに生かされている、神様は私たちに名前だけではない、その本質を、愛を、いのちを注ぎこまれる、そこに私たちは安息、平安を得るのです。今日私たちはこの神様のもとに帰ろう。神様はあなたをご自身の内に、家族に招き入れてくださるから。
さて、↑はイザヤが老年期のころに神様が語られたものになります。↑の前では、神様が公正と正義を今なそうとしてくださるのだから、今神様を求める事、また安息の内に招かれることが語られていました。
↑で神様はなお「幸いなことよ。安息日を守ってこれを汚さず、どんな悪事にもその手を出さない、このように行なう人、これを堅く保つ人の子は」と語ります。安息日について、これは礼拝を守る、とかそういうイメージがついてまわるのですが、それは間違いではないのですが、安息日の過ごし方について調べてみますと、昔の見方なら金曜日の日の入りから始まる1日、まあ現在の感覚では日をまたぐ形になりますね。仕事をしない代わりに、それまでに全てを済ませ、準備も整えます。そして安息日に、今の教会のような感じで、律法(今でいうところの聖書)の教師(今の牧師のようなもの)が教え、そのご家族や他の人々と会食をしていたそうです。おそらくこのときに色んな議論や交わり(交流)があったようです。今でいうところのカウンセリングといった悩み相談もあったそうです。面白いですね。
イエス様の時代もそうだったのですが、どうも安息日はあれをしてはいけない、これをしてはいけない、とそういうイメージがついてまわったのですが、それはある意味ではその教師がある意味で付け加えたものが大半で、本質はそうではないのです。安息日を軽視して、せっかくイエス様に癒された人も、一度戻りなさい、と教師に言われたり。
そもそも彼らが主張する安息日について、神様は十戒というものの中で「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。―あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も―それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された」と神様は教えてくてくださりました。
そう、この日は、神様が祝福される、聖なる日と宣言された日なのです。その日に神様は私たちを、その聖なるところに招いてくださっているのです。神様が招いてくださっている、神様の聖なる祝福に招かれている、祝福を注ぎたいと招いてくださっているのです。
イエス様は「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。人の子は安息日にも主です」とある時安息日を本質から離れて形骸化させていた教師たちに向けて語られました。神様が、人のために設けて下さったこの聖い素晴らしい時間をあなたはどうしますか?と問われたのです。神様があなたに注いでくださる素晴らしい時間を。
↑で「主に連なる外国人は言ってはならない。『主はきっと、私をその民から切り離される』と。宦官も言ってはならない。『ああ、私は枯れ木だ』と」と神様は語られていますが、この安息日、安息、聖なる神様の日への招きは一部の人だけではなく、外国人、私たちに向けても語られているのです。先程の十戒の中でも、「あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も」と語られていましたが、それは「誰しもが」神様の与えてくださっている「聖い恵みの時間に」招かれている、ということなのです。神様はすべての人にご自身の恵みを注ぎたいのです。神様にとってあなたは関係ない、と切り離されることも、もう見捨てられた枯れ木のようなものでもないのです。神様が祝福を注ぎたいのです。
じゃあ神様は特定の曜日、時間しか祝福されないの?聖い恵みの時間はある時だけ?いえそんなことはありません。安息日が始まった時のことを思い返しますと、神様は6日間でこの天地万物を造られ7日目に休まれました。でもこれ以上ないほどに6日間で完成されたから、創造をやすまれた、というだけです。神様は今もいつでも、人の子、イエス様は安息日「にも」主なのです。今日も明日も、これからも神様はあなたを導かれるのです。神様はいつでもこの聖なる日、神様の祝福へと招かれる。むしろこの聖なる時間、神様との関係を大切にしよう、神様も祝福される、聖さを現されるよ、と訴えるのです。
今の時代でいうなら、日曜日だけ教会に行けば後は好きにしていい、というわけではないですよね。むしろ先ほど紹介したように、そこに学びがあり、食卓があり、他者との励まし、祈りの時があったように、ここで神様につなげられるのです。神様があなたとつながってくださっているその喜びに私たちは生きる、神様はこの永遠の食卓に、喜びの中に招かれている、神様があなたの全生涯を祝福したいと招いてくださっているのです。
実は、この安息日について「花嫁の日」とイスラエルでは呼んでいます。彼らがどれだけ今このことを意識しているのかは定かではありませんが、花嫁の日、結婚は一日で終わりですか?そこから始まりますよね。神様は私たちをイエス様の花嫁として迎え入れてくださりました。わかりやすく言うと神様の家族に招いてくださりました。その日は神様の呼びかけに応じた時から始まります。
神様は私たちをイエス様の花嫁としてやがて迎え入れてくださる、でもこの聖なる関係はもう始まっていて、あなたをそのように祝福されたい、ただ特定の時間や曜日に神様のところに行けばいい、とかそういう形骸化したものではない、昔の安息日の過ごす時間のように本当に家族のように、喜びの交流の中に神様は私たちを招いてくださっているのです。切り離されたのではなく、離れてしまっていた私たちをむしろイエス様は十字架によってつなげてくださったのです。枯れることがないよう、その命がけの愛をもって私たちに心血を注ぎ、聖霊様で満たしてくださる、飢えることも渇くこともない、その祝福であなたを満たされるのです。私たちは今日、どれだけ神様の祝福を、喜びが我がうちに満たされることを願っているでしょうか。
神様は続けて「わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶ事を選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、わたしの家、わたしの城壁のうちで、息子、娘たちにもまさる分け前と名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。また、主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった外国人がみな、安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ…」と仰られますね。
ここで「わたし(神様)が喜ぶことを選び」とありますが、それは昨日の分かち合いで見させていただいたように、神様に立ち返る事です。その時、神様とあなたが繋がれ、神様の恵みが、喜びがあなたの内に満ち溢れる、安息、平安があなたのうちに溢れるのです。神様の御心があなたの内に溢れ流れる、現わされるのです。
それは「わたしの家、わたしの城壁のうちで、息子、娘たちにもまさる分け前と名を与え、絶えることのない永遠の名を与える」と神様が約束されているように、神様の家族として招かれ、その家族としてあなたの名前を呼んでくださるのです。永遠の名、途切れることのない神様内の内に招かれているのです。祈りの家に神様は招き、楽しませてくださるのです。
私たちはイエス様の名前ゆえに祈ることが赦され、そのイエス様ゆえに神様の家族として招かれました。一時的なものではない、神様の永遠の恵みに。イエス様は私たちが、神様は何もしてくれないと、勝手に離れ、枯れ木のようになってしまった私たちを、神様は自分をどうせ見てくれない、と神様に切り捨てられた勘違いして、実は自分から離れていったことに気づいていない私たちを捜し、神様の家族へともう一度招くため、私たちの子の思い煩い、痛み、何より罪を身代わりに背負われ、十字架上でその代価を支払われるため、死なれました。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪は赦され、神様の子として招かれる、神様の家族として招き入れられる、このイエス様の名前にあって私たちは永遠につながれるのです。
イエス様は十字架にかかられる直前、弟子たちに「それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。…まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです」と語られました。
イエス様はこの十字架にあって神様に祈ることが赦され、神様の喜びがあふれるようにされたんです。祈りの実がここに結ばれ、私たちは驚くべき神様の御業を見るのです。イエス様のお名前には力があります。このイエス様のお名前の前に何ものも立ちおおせることはできません。イエス様の花嫁としていただいた、本当の安息の日は、永遠の日、命はもう始まっているのです。私たちはもうこのイエス様から離れてはいけない、むしろこの神様の永遠の安息、祝福、喜びに満たされ歩みたいものです。あなただけにとどまらず、あなたの周りの人たちにも神様の恵みが溢れ、神様の御国が広がる、神様の恵みがさらに増し加えられ、喜びが満ち溢れることを祈りつつ。