―あなたとの食事を望んでいたんだよ― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「さて時間になって、イエスは食卓に着かれ、使徒たちもイエスといっしょに席に着いた。イエスは言われた。『わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。』そしてイエスは、杯を取り、感謝をささげて後、言われた。『これを取って、互いに分けて飲みなさい。あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。』それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい。』食事の後、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。しかし、見なさい。わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓にあります。人の子は、定められたとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。』そこで弟子たちは、そんなことをしようとしている者は、いったいこの中のだれなのかと、互いに議論をし始めた。」

ルカによる福音書22章14-23節

 

一昔前は、家族そろってから夕食を、というのが当たり前だったような気がします。うちも父親が帰ってくるまでは夕食は待ち、でした。それほどに食事の時間というのが家族にとっての大切な時間だったんだな、と今考えると思います。ところで、イエス様を見ていると、弟子たちや群衆、また罪人と言われるような人たちとさえ食事を一緒にする、その時間を大切にされているように思えます。それは彼らを受け入れるよ、ということです。イエス様はだれしもをご自身の御もとに招かれます。そこにこれ以上ない恵みというごちそうを広げて。あなたは今日このイエス様が招かれた食卓に、何を求め行くでしょう。

 

さて、↑は神の御子イエス様が人となってお生まれになり、その公生涯を歩まれ、いよいよ十字架にかかる前日となりました。イエス様は12弟子を最後の晩餐に招かれました。過越の祭りは特に家族で祝うという性質のものがあり、その過越の食事にイエス様が招かれた、ということは、まさにその人たちを家族として迎えるよ、という意思表示でもあったのでした。そう、これから裏切る弟子たちと知りながら、それでもイエス様は最後まで彼らを愛することを選ばれたのでした。

 

ということで、いよいよ最後の晩餐と呼ばれるものが始まるわけですが、ここでまず、「さて時間になって、イエスは食卓に着かれ、使徒たちもイエスといっしょに席に着」かれ、イエス様は「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません」とまず語られます。

 

イエス様にとって、この過越の食事、最後の晩餐は特別のものでした。他の毎年行われる過越の食事とは違うものがあった事が「苦しみを受ける前(十字架)」の「この過越の食事」をすることをどんなに待ち望んだのか、というイエス様のお言葉から見えます。↑の前の箇所でイエス様が、この過越の食事の手はずを整え招かれたことを見ましたが、この特別なところに、みんなが集まったのです。そこにはイスカリオテのユダもいました。

 

イスカリオテのユダは、もうすでに宗教家たちと手を組んで、イエス様を売り渡す手はずを整えています。そのイエス様が自分を招かれている、彼はどんな気持ちでこの食卓に着いたのでしょう。そして、イエス様は何だユダも来たのか、と思ったのでしょうか。いえ、イエス様はユダがいるからやはり中止にする、私は他のところに行っているから、あなたがたで食事をしなさい、とはせずに席につかれるのでした。

 

イエス様がそこにおられる、食卓についてくださるか否か、それは非常に大きな意味を持ちます。しかも裏切り者がいるとわかったうえで。この後12弟子が散り散りバラバラに逃げていく、イエス様を捨てるとわかっていてなお、イエス様は彼らに惜しむことなく愛を注ぐために、12人全員をここに招かれ、またユダを追い出してから食事を始めるのではなく、イエス様は彼を拒むのでもなく、席につかれ食事を始められるのです。イエス様は、あなたを喜び、あなたが共にいる、神様の家族へと帰ることを何より願われています。

 

イエス様は続けて「…それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい。』食事の後、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。しかし、見なさい。わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓にあります。人の子は、定められたとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。』」と仰りますが、「あなたがた」にあなたの名前が入っているのです。イスカリオテのユダは裏切るからあなたは入れません、分け与えません、とイエス様は仰らなかった。

 

イエス様は、イエス様ご自身が割いて渡されたパン、ぶどう酒を受け取り、これを彼ら一人一人に、あなたに、渡されている。あなたはダメだ、ではなく、むしろイエス様はこんな私たち、弱い、すぐに神様から離れ迷い出ていく「私たち・あなた」のためにわたしは与えたいんだ、とあなたを招かれたのです。あなたは招いていない、と拒否するのではなく、むしろまずイエス様はご自身の愛を注がれる決断をされたのです。これはあなたのためではなく、とあなたを追い出すのではなく、この席に招かれた。イエス様があなたの内におられることを選ばれたのです。この恵みはあなたのためには取り分けてはいない、と渡さないのではなく、初めにご自身を十字架の前に明け渡し、これから十字架に向かっていかれるのです。

 

あなたと新しい契約を結ぶために。罪人、裏切り者、として裁くのではなく、あなたに命を得てほしい、神様と和解させていただいて永遠のいのちを得てほしい、その恵みの食卓にいつもつくことができるよう、私たちの罪の身代わりにイエス様はまず十字架にかかられに行きます。何を言われても罵り返すこともせず、最後までその身を委ねたのです。イエス様は裏切られ、どれだけ心が割けそうになったことでしょう。しかし、あなたが引き裂かれ、神様からの永遠の別離、裁きを受けるくらいなら、この身が裂かれようともあなたを受け入れようと、決断されたのです。そしてその身に私たちの重荷、刑罰一切を引き受けられ、十字架にかかられ、死なれたのです。そして3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦され、神様の子とされるのです。

 

イエス様は「しかし、見なさい。わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓にあります。人の子は、定められたとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです」と仰られました。分かっていて、それでもイエス様はここに命があるんだ、と帰るべき道を示されたのです。わざわい、それを受けることがないように。12弟子のペテロも裏切りましたが、彼はイエス様に立ち返りました。

 

イエス様はあなたが災い受けることを望まれるなら、わざわざ十字架にかかりはされなかったでしょう。しかし、イエス様はその災いを今引き受けられ、この十字架によって神様と和解し、あなたが神様の永遠の恵み、食卓に与り生きる事を何より願われ、あなたをこの食卓に招き、定められた十字架につかれました。誰が裏切るのか、ではなくあなたは今日どうしますか?と問いかけられているのです。今日、私たちはイエス様の命にあって開かれた新しい食卓、この招かれた食事に進み行き、災い・裁きではなく永遠のいのち・恵みに生かされ、歩みたいものです。ここにはイエス様のいのち、愛が全部備えられているのだから。