―永遠に変わらない愛― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「『このことは、わたしにとっては、ノアの日のようだ。わたしは、ノアの洪水をもう地上に送らないと誓ったが、そのように、あなたを怒らず、あなたを責めないとわたしは誓う。たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない』とあなたをあわれむ主は仰せられる。『苦しめられ、もてあそばれて、慰められなかった女よ。見よ。わたしはあなたの石をアンチモニーでおおい、サファイヤであなたの基を定め、あなたの塔をルビーにし、あなたの門を紅玉にし、あなたの境をすべて宝石にする。あなたの子どもたちはみな、主の教えを受け、あなたの子どもたちには、豊かな平安がある。あなたは義によって堅く立ち、しいたげから遠ざかれ。恐れることはない。恐れから遠ざかれ。それが近づくことはない。見よ。攻め寄せる者があっても、それはわたしから出た者ではない。あなたを攻める者は、あなたによって倒される。見よ。炭火を吹きおこし武器を作り出す職人を創造したのはわたしである。それをこわしてしまう破壊者を創造したのもわたしである。あなたを攻めるために作られる武器は、どれも役に立たなくなる。また、さばきの時、あなたを責めたてるどんな舌でも、あなたはそれを罪に定める。これが、主のしもべたちの受け継ぐ分、わたしから受ける彼らの義である。―主の御告げ―』」

イザヤ書54章9-17節

 

流行はいつかは終わる。これまで優れていると思うものもいつかは変わると言いますか、もう近年は毎年のように変わりますよね。しかし本当に優れたものはそんな流行で変えるものではありません。いや本当に大事にする人ならとっかえひっかえしない、かな。商品と一緒にするものではないかもしれませんがペットでも同じ話で飽きたら変えるとか、なかなか考えられません。最後の最後まで愛情を注ぎ続けるでしょう。またペットと人はまた全然違いますが、神様はあなたの造り主。あなたを気に食わなければ捨てるような方ではなく、むしろあなたに命を得てほしい、とその霊を注がれました。そしてあなたが失われるのを良しとされない神様は、御子イエス様の命を私たちの身代わりにされるほどに愛を注がれました。私たちはこの愛を受け、今日どう生きるでしょう。

 

さて、↑は古代イスラエルのバビロン捕囚期から捕囚後について神様がイザヤを通して預言されたものの続きになります。ここまで神様はイスラエルを見捨てられず、捕囚中も守り、ついにはバビロン捕囚からの解放のために神様が心血を注ぎ救われること、驚くべき良い知らせを、救い主イエス様の誕生について語られてきました。そのイエス様についてしもべの歌にて、神の御子であられながらそのありようを捨てられないとは考えずに、罪を犯さないという点を除き完全な人となって生まれてこられ、徹底的に仕え、ついには罪がないイエス様が私たちの罪を身代わりに背負われ、その傷も病も、一切を引き受け、打ち砕かれる、そこまでして彼らの、私たちを救わんという計画を神様が持っていること、その完全な愛を示されてきました。

 

そして今、イエス様の打ち傷によって癒された、癒される、その結果どうなった、どうなるのか?そのことについて語られている(↑の前では神様は天幕・いのちを広げられ住まわれる、私たちは感謝しもっともっと神様の天幕の広がり、御国の広がりを祈るように)のですが、↑で神様はなお「このことは、わたしにとっては、ノアの日のようだ。わたしは、ノアの洪水をもう地上に送らないと誓ったが、そのように、あなたを怒らず、あなたを責めないとわたしは誓う。たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない」と語られます。

 

ノアの日、とありますが皆さんはノアの洪水の出来事を知っているでしょうか。この世の悪があまりにはびこったために神様がノアの一家以外を洪水によって裁かれた時の話です。動物は1種の動物につき一つがいずつ箱舟にのって助かったわけですが。面白いのが、ノアが600歳の時に箱船を造り始めたのですが、完成は彼が700歳の時です。神様がその設計図をノアに示したわけですが、すぐに滅ぼすのでしたら、神様がそれこそ手を貸してくださってすぐに完成させ、洪水を起こせばいいのですが、神様は100年間、人々の中でなんとか神様に帰る人が出ることを願っていたのでは、とこの洪水の話を見るたびに思うのです。

 

そして洪水の後、神様は「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。わたしは、決して再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい。地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはない」と考えられ、「さあ、わたしはわたしの契約を立てよう。あなたがたと、そしてあなたがたの後の子孫と。また、あなたがたといっしょにいるすべての生き物と。鳥、家畜、それにあなたがたといっしょにいるすべての野の獣、箱舟から出て来たすべてのもの、地のすべての生き物と。わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。…わたしとあなたがた、およびあなたがたといっしょにいるすべての生き物との間に、わたしが代々永遠にわたって結ぶ契約のしるしは、これである。わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現われる。わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべて肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう」と神様はノアとその家族に語られるのでした。

 

これなんです。神様は結局人はまた繰り返す、だからまたその時はさばけばいい、とは仰られないのです。むしろ神様は先ほどの100年にしてもそうですが、待たれる神様なのです。神様はノア一家に、虹を見せもう洪水によって滅ぼすまい、という約束をされた、「契約」のしるしとして虹をたてられたのです。雨が上がったところに見せるあの美しい虹に。その虹を神様がかけられたのです、神様と私たちの間のかけ橋のように。

 

あれ?でも神様はさばいていませんでしたっけ?と歴史を見ると思う方もいるかもしれませんが、しかし神様は様々な預言者、奇跡をとして、それこそこれまで分かち合ってきた歴史書簡やイザヤを通して預言されるなど、何度も何度もその御手を伸ばされてきているのを見たと思います。そしてこの捕囚期に関しても、どれだけ神様は助け、また語られてきたか。最後は捕囚から解放までされたではありませんか。神様のこの堅い約束は「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない」と神様が↑で語られている通り変わらないのです。

 

神様はさらに「苦しめられ、もてあそばれて、慰められなかった女よ。見よ。わたしはあなたの石をアンチモニーでおおい、サファイヤであなたの基を定め、あなたの塔をルビーにし、あなたの門を紅玉にし、あなたの境をすべて宝石にする。あなたの子どもたちはみな、主の教えを受け、あなたの子どもたちには、豊かな平安がある」と語られていますね。

 

私たちは神様は自分に何をしてくれる?と思う時もあります。苦しい時に神様は何をしているの?とか。しかし、あなたを高価で尊い、愛する存在として見てくださっている神様はあなたをこのように、その神様の時にかなった神様のご計画、御力、恵み、愛で、これらの宝石のように輝かせてくださっているのです。神様の御言葉ある意味で宝石箱です。私たちは神様の子として神様のその恵みに、愛に生かされ、その教えが私たちを導かれる、豊かな平安へ。

 

↑のノアのくだりの中で、神様は「とい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない」と仰られていますが、もし仮に場合によっては約束を変えます、気分次第では時々変えます、そんな愛だったとしたら、その輝きはくすむばかりで私たちを真の平安で満たすことなどできないでしょう。

 

神様はたとい山々が移って岡が動いてもそんなことはない、都約束されます。「神様」の平和の契約があなたを命へと導かれる、と言うのです。この永遠に変わることのない愛、これはヘセドという言葉なのですが、「尽きることのない、絶えることのない、信頼に足る、裏切ることのない、確実な愛」そんなところですか。かたい契約で結ばれた愛です。ただ、人は神様にこの愛をもって仕えるなどとてもできません。神様から契約を打ち切られてもおかしくない、見捨てられてもおかしくないところなのです。

 

しかし、それでも神様の平和の契約は動かない、つまり神様はその破られた契約に対する罰を、なんと神様ご自身が負うこととされたのです。普通に考えたらおかしな話でしょう。どうして契約を人が好き勝手に破って好きに生きている人間が不履行に対する罰を受けるのではなく、神様がそれを受けなければいけないのか。それがこのヘセドの愛なのです。それでもあなたを愛する、先ほどの宝石で着飾らせていただいている回復した民の姿に触れましたが、その姿を失ってしまうことが神様にはしのびなかったのです。

 

そこで神様はこの罰を御子イエス様に背負わせ、身代わりに罰する決断をされたのです。神様は私たちを捨てるのではなく、神様から与えられたこの命を取られるのでなく、むしろイエス様にこれを背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪は赦され、神様の子とされるのです。イエス様の十字架が、あのノアの時代の虹のように懸け橋として私たちを神様につなげていただき、私たちは神様の子、家族として迎え入れられるのです。神の御子イエス様の命にあって結ばれたこの関係を何が壊すことができるでしょう。私たちはどうして再び壊すことができるでしょう。

 

↑で神様は「あなたは義によって堅く立ち、しいたげから遠ざかれ。恐れることはない。恐れから遠ざかれ。それが近づくことはない。見よ。攻め寄せる者があっても、それはわたしから出た者ではない。あなたを攻める者は、あなたによって倒される。…また、さばきの時、あなたを責めたてるどんな舌でも、あなたはそれを罪に定める。これが、主のしもべたちの受け継ぐ分、わたしから受ける彼らの義である。―主の御告げ―」と仰られています。その永遠の契約ゆえにです。神様はイエス様にあってこの永遠の契約を結んでくださった。一時的ではないのです。

 

だから私たちはしっかり立とう。神様が私たちにイエス様にあって相続させて下さる恵みはいかほどばかりか。神様の義が↑にあったような宝石のようにあなたを輝かせる。もはやあなたを苦しめ立ち上がろうとするものも、この神様の恵みの前に勝る事はできず、立ち上がる事もできません。神様が輝かせて下さる、いや神様がその栄光に満ちた素晴らしさを現して下さるのだから私たちはこのイエス様にあって私たちの内に住まわれるイエス様が輝かせてくださる一日一日、一つ一つの内にいつも神様の栄光が現わされることを祈りたいものです。神様に私たち自身も委ね、神様の望まれる形へ、整え、神様の栄光を繁栄させる器として用いてください、と。