―とてつもない回復― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「『子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。産みの苦しみを知らない女よ。喜びの歌声をあげて叫べ。夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ』と主は仰せられる。『あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ。あなたは右と左にふえ広がり、あなたの子孫は、国々を所有し、荒れ果てた町々を人の住む所とするからだ。恐れるな。あなたは恥を見ない。恥じるな。あなたははずかしめを受けないから。あなたは自分の若かったころの恥を忘れ、やもめ時代のそしりを、もう思い出さない。あなたの夫はあなたを造った者、その名は万軍の主。あなたの贖い主は、イスラエルの聖なる方で、全地の神と呼ばれている。主は、あなたを、夫に捨てられた、心に悲しみのある女と呼んだが、若い時の妻をどうして見捨てられようか』とあなたの神は仰せられる。『わたしはほんのしばらくの間、あなたを見捨てたが、大きなあわれみをもって、あなたを集める。怒りがあふれて、ほんのしばらく、わたしの顔をあなたから隠したが、永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ』とあなたを贖う主は仰せられる。『このことは、わたしにとっては、ノアの日のようだ。わたしは、ノアの洪水をもう地上に送らないと誓ったが、そのように、あなたを怒らず、あなたを責めないとわたしは誓う。たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない』とあなたをあわれむ主は仰せられる。」

イザヤ書54章1-10節

 

人は事故や大病を患うと、完全に機能回復するのは難しいです。リハビリ、血の滲むような努力をしても、失われた機能を取り戻すのはほぼ奇跡に近いものがあります。もちろんかえって強化される場合もありますが。人生についても、失われたものがあると、非常に大きな影響をもたらします。しかしそれを、それこそ今述べました奇跡的な回復のようにあって余りあるほどに回復させて下さる方がいる、神様です。本来見捨てられてもおかしくないこの命を御子イエス様が身代わりに死んで下さる事によって救い、新しくして下さったのです。私たちは今こそ、このイエス様に立ち返りたいものです。

 

さて、↑は古代イスラエルのバビロン捕囚期から捕囚後について神様がイザヤを通して預言されたものの続きになります。ここまで神様はイスラエルを見捨てられず、捕囚中も守り、ついにはバビロン捕囚からの解放のために神様が心血を注ぎ救われること、驚くべき良い知らせを、救い主イエス様の誕生について語られてきました。そして、↑の前まではしもべの歌という形をもって神様はやがて誕生するイエス様(イエス様ご自身は天地創造のはるか前よりおられた、そしてこのイザヤの時代から見て後に誕生する、という意味)が、神の御子であられながらそのありようを捨てられないとは考えずに、罪を犯さないという点を除き完全な人となって生まれてこられ、徹底的に仕え、ついには罪がないイエス様が私たちの罪を身代わりに背負われ、その傷も病も、一切を引き受け、打ち砕かれる、そこまでして彼らの、私たちを救わんという計画を神様が持っていること、その完全な愛を示されてきました。

 

そうしてイエス様の打ち傷によって癒された、癒される、その結果どうなった、どうなるのか?それが↑で語られていくのですが、神様はまず「『子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。産みの苦しみを知らない女よ。喜びの歌声をあげて叫べ。夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ』と主は仰せられる。『あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ。あなたは右と左にふえ広がり、あなたの子孫は、国々を所有し、荒れ果てた町々を人の住む所とするからだ…』」と語られます。

 

「子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。産みの苦しみを知らない女よ。喜びの歌声をあげて叫べ。夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ」とまず語られている部分ですが、これを単純にそのまま読んでも励まされます。と言いますのも、神様はありもしないたとえの仕方はしないからです。実際に不妊の女性の苦しみ、痛みは悩みが多いです。今そんなことがまかり通ったらかなり問題になるほど、子どもを産めない女性は蔑まれていました。

 

イスラエルからしたらもっとも身近話として、イスラエルの草創期のアブラハムの妻、サラ。彼女は不妊の女性でした。それで周りからの目もつらく、奴隷の女性に夫を与え、子どもを得ることになりましたが、彼女はやはり苦しむことになりました。最終的に彼女は90歳で子供を出産することになるのですが、結局サラはその子から多くの喜びを得ることとなるのでした。ちなみに、サラは127歳まで生きたようです。彼女は孫を見ることはありませんでしたが、彼女とアブラハムの間に生まれた子孫を神様は星のように増やされていった、その祝福はまし加わるものとなったのでした。神様は不妊で苦しむ女性を放置される方ではない。閉ざされた悲しみを、もちろん神様のご計画があったとはいえ、まさに開かれたのです。そこから始まった喜びはいかほどばかりか。

 

それはそれで素晴らしいのですが、実はこの神様の話の本質はそこではないのです。もちろん、そう例えられているように神様は不妊の女性のこのくだりを嘘のたとえとして語っているわけではありません。イザヤを通して神様が今訴えている民は、やがてバビロンに捕囚されていく、その預言はここまで何度となく繰り返されてきましたが、それはもう何も良いものは生み出せない、どうして神様がいるのにこんなつらい目に合わなければならないんだ、と思い悩むことがあるでしょう。それがまさに夫がいるのに…のくだりなのです。

 

しかし、神様はそこに驚くべき回復をしてくださる、というのです。もちろん夫・神様はイスラエルを捨てていたわけではありません。捕囚前も何度も何度も預言者を通して悔い改めに導き立ち返るように訴えてきました。また、捕囚中も捕囚地に預言者を置いてくださり、また捕囚地のバビロンの宦官に神様を恐れるイスラエル人の宦官を置くことによって(これは少し前のヒゼキヤ王の時代にすでに預言されていました)何度も何度も民を守ってくださっていたのです。そして70年後にバビロンから解放されます。驚くべきことに捕囚前の人数と比べて帰還後のイスラエルの人数は、かえって増え広がっていた、約4倍になっていたというのです。

 

こうしてみますと、確かにその子孫は増し加えられたことがわかりますが、今歴史を振り返りましたように、ただ子孫が増えました、とかそういうレベルの話ではないことが分かりますね。先程の不妊の女性の話然り。神様ご自身がなお祝福を注がれているのです。もう見捨てられてもおかしくない、神様の恵みはどんどん失われているのでは?神様は私たちを見捨てたのでは?と思う中にあってそうではなかったのです。

 

パウロと言う1世紀の伝道者は「律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです」と手紙に書き残しました。

 

パウロ自身ある意味ではとんでもない人物でした。イエス様が十字架と復活によって救いを完成され、昇天してついに教会がスタートした、その初期を支えていた若手のホープを自分たちの意見と違うから、と殺害、それに加担。さらにどんどんクリスチャンを迫害する、まさに神様の敵対者でした。しかしその彼がこういうのはまさに実体験からくるところ。さらに迫害を進めようとしていたパウロだったのですが、復活のイエス様は、わざわざ彼に出会いに来られたのです。それは迫害者パウロを罰するため?いえ、むしろ彼を悔い改めに導かれたのです。もちろん彼を討つことは神様にはできた、しかし、イエス様はそれでも彼を赦されたのです。

 

彼は他の手紙の中で、自身を罪人のかしら、と告白しているのですが、彼自身もそれをよくわかっていて、その罪人のかしらである彼をもイエス様はまさか憐れまれ、救いに導かれた、その恵みがまし加わった、と言うのです。そこで彼は罪の赦しをいただき、永遠のいのち、神様の恵みによる一新を受けたのです。そこから彼はどれだけ多くの子孫、といいますか他のクリスチャンを得たか、いやそれ以上に神様の恵みを体験していったことでしょう。

 

まさに、↑で「あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ。あなたは右と左にふえ広がり、あなたの子孫は、国々を所有し、荒れ果てた町々を人の住む所とするからだ」神様が仰られているように、神様ご自身が天幕の場所を、彼自身の命を拾てくださったのです。神様の恵みが↑で言うならイスラセルの民、そしてパウロ、また私たちのいのちを広げてくださったのです。まさにそこに起こったおどろくべき回復は、ただ赦して終わり、ではなくそこから神様が新しい命、恵みによって広げてくださったのです。彼らの所有する地の回復だけにとどまりません。神様の恵みが溢れ広がっていくのです。

 

神様は広げ続けて下さる、惜しみなく広げてくださる、私たちはではどうするでしょう。神様は「広げ…張り伸ばし…長くし…強固にせよ」と私たちに訴えています。あなたはどれだけこの神様の御前に自信を委ねているでしょう。神様の御前に自身を明け渡し広げていただく、その錨を神様にしっかり降ろそう。あなたの全てを広げてくださるのは神様なのです。

 

あなたという天幕を誰に向け、どこに向けて広げますか?どんなにこれは自分の命だから好きに広げる、と言ってもその中に誰がいるのか?その肝心な点が抜けては何の意味もありません。神様は「あなたの夫はあなたを造った者、その名は万軍の主。あなたの贖い主は、イスラエルの聖なる方で、全地の神と呼ばれている。主は、あなたを、夫に捨てられた、心に悲しみのある女と呼んだが、若い時の妻をどうして見捨てられようか」と仰られていますが、あなたを造られた神様が聖なる方、全地の主です、その神様が見捨てられない、と今訴えているのです。

 

神様は「わたしはほんのしばらくの間、あなたを見捨てたが、大きなあわれみをもって、あなたを集める。怒りがあふれて、ほんのしばらく、わたしの顔をあなたから隠したが、永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ」と続けて仰っていますが、私たちへの失望ではなく、神様は私たちへの恵みで覆いたい、満ち溢れさせたいのです。裁きや呪いで満ち溢れさせるのではなく、パウロの語ったように恵みを増し加えたい。

 

だから裁きではなく赦しのために私たちの痛みも傷も何より罪を一切取り除くために、御子イエス様に神様は私たちのこれら一切を背負わせ、十字架にかけ、身代わりに罰し、死なせたのです。そして3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子としてくださる。

 

その時に、まさに新しい命が神様によって広げられる、この命がけの愛を実行されたイエス様があなたの天幕に住まわれ、あなたのいのちを広げられる、私たちが思う方向以上に広げてくださる。私たちはこのイエス様にもっともっと信頼し、委ねようではありませんか。神様が広げられた、増し加えられるその恵みは決して尽きることはないのだから、私たちはどこまで神様に望みを持ち続け離れず歩みたいものです。