―AMAZING・GRACE2:あなたのためなら死んでも― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。多くの者があなたを見て驚いたように、―その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた―そのように、彼は多くの国々を驚かす。王たちは彼の前で口をつぐむ。彼らは、まだ告げられなかったことを見、まだ聞いたこともないことを悟るからだ。」

イザヤ書52章13-15節

 

昔、ジョン・ニュートンという人が奴隷船の船長としてアフリカからイングランドに黒人奴隷を輸送していたのですが、ある日船が嵐に遭い転覆の危険に陥りました。そのような中で彼は必死に神様に祈りました。それは彼が心の底から神様に祈った初めての事でした。しかし、神様は彼の祈りに答えてくださり、難を逃れ、やがて彼は黒人奴隷の貿易という人間として最低のような自分を救ってくれた神の恵みは何と大きいものかと、この「アメージング・グレース」という曲を作りました。神様は彼を黙って見捨てるのではなく、むしろ彼を憐れまれ、その恵みを惜しまず注がれ、彼は変えられたのです。これは他人事ではない、あなたにも注がれる神様の愛です。本当の恵みの内に、いのちの内に今日神様はあなたを引き上げようと待っています。あなたはこの愛にどう応答するでしょう。

 

さて、↑は古代イスラエルのバビロン捕囚期~捕囚後について神様がイザヤを通して預言された続きです。ここまで神様はイスラエルを見捨てられず、捕囚中も守り、ついにはバビロン捕囚からの解放のために神様が心血を注ぎ救われること、驚くべき良い知らせを、救い主イエス様の誕生について語られてきましたが、↑から次の章にかけてイエス様について、イエス様がしもべとして来られる、そのしもべの歌と言われるものが続きます。実はこれまでも、しもべの歌は歌われてきていました。

 

第1のしもべの歌では「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせない…」と歌われていました。それは世界に公義をもたらす器として神様に選ばれたこのしもべたるイエス様は、力や大きな声ではなく、静かに、柔和に人々に接する、そのへりくだりによって、世界の人々を変える影響力を発揮するというものでした。

 

第2のしもべの歌では「主は、生まれる前から私を召し、母の胎内にいる時から私の名を呼ばれた…」と歌われました。そのしもべイエス様は人の子として、人間としてお生まれになり、その口からは世界の国々の軍隊を打ち滅ぼす剣があるにも関わらず、それを御手の影に隠し矢筒の中に隠し、滅ぼすためではなく、私たちを罪の奴隷から救うために、救いの矢が尽きることなく、徹底的に愛を現していかれるというものでした。

 

第3のしもべの歌では「神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。…神である主は、私の耳を開かれた。私は逆らわず、うしろに退きもせず、打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった」と歌われていました。しもべとなられたイエス様はしもべは神様から学ぶ者、弟子と同じようになり、徹底的に自分を低くし、神に服従する者となられたことが歌われています。そしてその弟子の恵み、教えられた者として、救いを通して神様の恵みが豊かに注がれる、というものでした。

 

ここから第4のしもべの歌が始まります。ここではまず神様はイザヤを通してそのイエス様について、「見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる」歌われる・語られます。

 

考えてみますと、そもそもイエス様は神の御子なんですよ?もともと高い存在ではありませんか。そのイエス様が高められる、上げられる、非常に高くなる、と徹底的に強調されているんです。そこまで強調されるほどにイエス様は低く、低くなられた、しもべとなられたのです。

 

2番目のしもべの歌の中で、イエス様は人の胎内に宿られて生まれてきたことにふれましたが、そもそも神の御子たるイエス様がそこまでされるのがあり得ない話ですよね。だって、極端な話ですよ、イエス様は最初から青年の姿とか、旧約聖書時代に、受肉前の姿で現れ、様々な場面で助けられたように、わざわざ赤子から生まれてこなくてもいいじゃないですか。もっというとですよ、イエス様は胎内に聖霊様によって宿られたわけですが、胎内に宿られるところからスタートされているわけです。赤ちゃんから始める必要があった(これはイザヤ書の預言にもありますが)にしても、それなら極端な話、どこか子供のいない夫婦のところに赤子として授かってもいいじゃないですか。しかし胎内に宿られた。人となって生まれてくることも、また何もできない赤ちゃんとして生まれてくることだってすごいのに。

 

もちろん神様の守りもあるでしょう。ただ、万が一にもマリアに不測の事態が起きて胎内に影響を受けることだってあり得るわけじゃないですか。しかも現代と違って医療技術もたかが知れています。また、未婚の時にマリアが身ごもったことによって周りから偏見の目で見られ、石打にされて殺されてもおかしくないところを通られたわけです。そうなったら胎内のイエス様は?という話になるわけです。しかしイエス様はそのような主に、リスク、人々の苦しみをも最初から背負われたのです。

 

イエス様の誕生を考えますと、決して特別扱いをされたわけではありません。もちろん聖霊様によって宿られた、ということはあるかもしれませんが、私たちが胎内に身を宿すとき、これは神様の介入なしにはあり得ない話です。そのプロセスの中で、どうしてこれが今ある私たちの姿になれますか?魂もそこに宿ることができますか?神様がここに介入されているんです。

 

イエス様はその胎内にいる時も、周りからの偏見の目、石打によって殺される可能性がありましたし、婚約者ヨセフからさらされる可能性もありました。また皇帝の命令で人口調査が行われるために、生まれ故郷に帰るという長旅をしなければいけませんでした。さらに、彼らの泊るところは、救い主のお生まれになる場所としてはふさわしいとは言えない場所、宿屋はいっぱいでとまることろはない、ようやく与えられた場所は、家畜たちが休む暗い洞窟の中、ベビーベッドは家畜のえさを入れる石の入れ物。そして生まれた後は狂王ヘロデが2歳以下の赤子殺害を命じ、それを逃れるために、全く異国のエジプトにまで逃げなければいけなかった。そうして徹底的に遜られることを選ばれたのです。

 

1世紀の伝道者パウロは、その手紙に「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです」と書き送りました。

 

完全に無となられることを選ばれた。高ぶるのではなく、一切人と同じようになることを選ばれたのです。その性質も、罪を犯さないという点を除いて完全に人となられた。おなかもすけば、疲れる、傷もつけば痛みもあるし、血も流れる。その極みは十字架にかかられる直前のあたりから特に現れていました。

 

神様はイザヤを通して、その低く低くなられた、しもべイエス様の極みの姿について「多くの者があなたを見て驚いたように、―その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた―そのように、彼は多くの国々を驚かす」語ります。まさに、その十字架の時はあまりに驚かせるものだったのです。その様子を目撃した12弟子のペテロは「兵士たちは…イエスに紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせ、それから、『ユダヤ人の王さま。ばんざい』と叫んであいさつをし始めた。また、葦の棒でイエスの頭をたたいたり、つばきをかけたり、ひざまずいて拝んだりしていた。彼らはイエスを嘲弄したあげく、その紫の衣を脱がせて、もとの着物をイエスに着せた…」と書き記しました。

 

イエス様は全く罪のないお方でしたが、殴られ、裸にされ、釘や貝殻のついたむちで打たれ、また紫の衣を着せられ、頭にはいばら冠をかぶせられ頭にそのとげが突き刺さり、つばきをかけられたり、バカにされ…一体なぜ神の御子イエス様がそこまでされなければいけないのか。十字架にかからなければならなかったのならどうして最初からそうした痛みを通らずに、さあ、あなた方のために私が十字架にかかろう、とのぼらなかったのだろうか、と思うわけです。

 

しかし、イエス様は私たちが負わなければいけない痛み、それら一切を追うために罪もないのに、私たちの罪を背負われたのです。私たちが本来十字架にかかって死ななければいけない、その恐ろしい刑罰一切をイエス様は負われたのです。イエス様のあの十字架の傷、痛みは私たちが本来負わなければいけないもの、イエス様の死は、私たちが本来罪かくる報酬、死を受けなければいけないところを、イエス様が身代わりに受けられ、死にまで従われたのです。神の御子であられるのに、罪もない方なのに、まるで極悪人が死ぬかのように刑罰を受け、死なれたのです。普通に考えればあり得ないことをイエス様は引き受けられ死なれたのです。

 

しかし、イエス様が3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪は赦され、罪人である私たち、滅びる、神様からの永遠の別離、裁きから引き上げられ、神様の子という最高のものへと引き上げられるのです。

 

はい、↑の「見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる」という言葉の意図が見えてきましたね。この「栄える」という言葉は、賢くふるまう、賢く行動する、思慮がある、栄える、という意味があります。イエス様が、私たちが救われるためなら、と深く思慮された。あなたが命を得るために、イエス様は下られ、そして上げられなければならなかったのです。

 

イエス様「だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです」語られました。上げられる前に、イエス様は天から下らなければならなかった、そうして私たちが永遠の命を得てほしい、それがイエス様の願いなのです。まさにイエス様がそうして遜り行動されることによって、私たちもまた神様の子という最高の恵みを受けさせていただいたのです。イエス様は私たちに血を注ぎ、血を振りかけて、救いの御業を成し遂げられました。

 

その今、私たちはどうして神様を否定して歩めるでしょう。むしろこの究極の遜りの愛の前に私たちは遜り、また賛美し、この方が与えられた命を喜び、天の御国に行くその日まで家様から離れず歩みたいものです。あなたはもうイエス様の命がけの愛は注がれている、その愛を受け取るか、受け取らないか、それにどう生きるかはあなた次第。あなたは今日イエス様のこの愛を受け、どう生きますか?