「それからイエスは、人々にたとえを話された。『いちじくの木や、すべての木を見なさい。木の芽が出ると、それを見て夏の近いことがわかります。そのように、これらのことが起こるのを見たら、神の国は近いと知りなさい。まことに、あなたがたに告げます。すべてのことが起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。その日は、全地の表に住むすべての人に臨むからです。しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。』さてイエスは、昼は宮で教え、夜はいつも外に出てオリーブという山で過ごされた。民衆はみな朝早く起きて、教えを聞こうとして、宮におられるイエスのもとに集まって来た。」
ルカによる福音書21章29-38節
あなたは未来に希望を持っているでしょうか。まあ近年を見ていると、希望を持とうというのは酷な話なのかもしれませんが。ただ、私たちが忘れてはいけないのは、明日を備えてくださるのは、未来を備えておられるのは、神様であり、その神様が私たちの手を取り導いて下さる、明日、また未来も、そこに神様がおられるとイオということを忘れてはいけません。私たちは他でもない、この神様から目を離さずに歩もう。神様はあなたを見捨てていないのだから。
さて、↑は神の御子イエス様が人となって生まれてこられ、その公生涯を歩んでいた、そしていよいよ十字架にかかられる直前の話で、イエス様が終わりの時について語られたものになります。イエス様は「いちじくの木や、すべての木を見なさい。木の芽が出ると、それを見て夏の近いことがわかります。そのように、これらのことが起こるのを見たら、神の国は近いと知りなさい」と語られています。
ちなみに、いちじくの木についてですが、いちじくに葉が出始めるのは夏の前兆なんだそうです。葉が出始めるのは4月から5月で、それを見ると、もうすぐ夏だということがわかるそうです。5月くらいですと気温がそこまで高くないのでまだ夏の到来は告げませんが、それによって、確実に夏が目前に迫っているということを知ることができます。
まあイエス様はイスラエルの場所でこれを語られているわけですし、日本にもあまりいちじくの木は見られないので何とも言えませんが、しかしイエス様は、いちじくの木だけではなく、すべての木を見なさい、と仰られています。そうなんです、神様は様々な事を通して神の国の到来を告げられているのです。え?私は教会に行ったことがなかったから、土着の宗教の関係で聴く機会がなかった、だから知らなかった、ということはある意味では今の時代的にはないのです。聖書を手にする機会がなくともネットで調べることもできる便利な時代になり、教会も調べれば行くことができる時代になってきたようにも思えます。また、例えばこの天地万物を見て、その働きを見ると、その背後に造られた方の存在を知ることができます。何よりも、イエス様が既に人となってお生まれになられて、神の国の到来をすでに告げられていたのですから。
もう一つ言えるのは、神様がたまたま知ることができるようにしてくださっているというよりも、神様が様々な場面で語られ、誰かを通してあなたに福音を届けている、またあなたの内に私たちが当たり前と思う中にあって実は働き、養い、導いて下さっている、今日、私たちが私たちの木に葉を出し、実を結ばせてくださっているのは神様に他ならないのです。私という木の内に働いている神様からも私たちは神様を知ることができるのではないでしょうか。
さらに大事な事、それはこの福音をすでに聞いている、木を見て何かを知っているクリスチャンの働きもまた重要です。知らない、分からない人だってそれはいます。だからこそ、その届ける人が必要なんです。神様は誰かを用いてその誰かに届けることもあります。あなたが今そこにいるのは、神様が何か理由をもって遣わされたのです。
かつてイスラエルの民が約束の地に入った際、その地で豊穣の神への捧げものと言われ、とんでもない淫行に巻き込まれたりと苦しんでいた女性がいたのですが、彼女はイスラエルの民が今近づいていることを知って、絶望ではなく希望を持ち、イスラエルの民の偵察隊が来たとき、今こそ救いの時なのだ、と彼らをかくまいました。同時に彼らがその女性に救いの手を、福音を届けたことによって、彼女の命は守られ、その後神様の民に加えられるのでした。救いの到来、福音はまさに驚くべき形をもって、また誰かを通して告げ知らせられるのです。まさかこんな自分に?もう見捨てられていると思う中にあっても神様はその御手を伸ばされるのです。終わりの時が来る前に、神の国、もっとわかりやすく言うなら、神様の家族に招き入れられるのです。滅び、裁きではなく、永遠の命へと。
イエス様はさらに「まことに、あなたがたに告げます。すべてのことが起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。その日は、全地の表に住むすべての人に臨むからです。しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい」と仰られますが、イエス様は私たちが滅びることを望まれているわけではないのです。だから今語られているのです。これからイエス様を十字架にかけようとしている人たちを目の前にして、滅びればいい、ではなくむしろ彼らが救われることを願い、今、滅びの時、裁きの時、終わりの時が来る前に、あなたが生きることを願い今語られるのです。
イエス様の仰られているすべての木の中で最も明確に示されたのがイエス様が木・十字架にかけられたということです。モーセを通して神様はかつて「もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地を汚してはならない」と告げられました。
私たちが罪の呪い、罪のために死ななければいけない、神様の国を「相続地」として受けられず死んでいく事から免れるために、イエス様はその罪の呪いを私たちの身代わりに引き受けられ、神様に呪われたものとして木にかけられた、十字架にかけられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによってこの呪いは打ち砕かれ、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返るすべての人の罪は赦され、神様の子とされ、この神の国を相続するものとさせていただける、今その前味に神様ご自身が与らせていただけるのです。あなたのためにいのちをかけられたイエス様が今日、あなたを神の国の来られるその日まで導かれるのです。この方が一緒にいるとはなんという幸いでしょう。あなたは呪われ、汚れた者から、聖められ、神様の家族、子という特権に与らせていただけているのです、今。
そのためにイエス様は十字架への足を止めない。あなたへの愛を止めない。↑にあるように「イエス様は、昼は宮で教え、夜はいつも外に出てオリーブという山で過ごされ」る、いつものようにあなたと共におられ、いつものようにその御心を注がれる。だから私たちはいつも、このイエス様から離れず、イエス様の十字架に現された愛に信頼し、歩ませていただこうではありませんか。イエス様が今日もあなたを待っておられるから、その恵みを注ぎ、御心を現そうとあなたを。