―予見できないことと確かなこと― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「あなたがたの訴えを出せ、と主は仰せられる。あなたがたの証拠を持って来い、とヤコブの王は仰せられる。持って来て、後に起ころうとする事を告げよ。先にあった事は何であったのかを告げよ。そうすれば、われわれもそれに心を留め、また後の事どもを知ることができよう。または、来たるべき事をわたしたちに聞かせよ。後に起ころうとする事を告げよ。そうすれば、われわれは、あなたがたが神であることを知ろう。良いことでも、悪いことでもしてみよ。そうすれば、われわれは共に見て驚こう。見よ。あなたがたは無に等しい。あなたがたのわざはむなしい。あなたがたを選んだことは忌まわしい。わたしが北から人を起こすと、彼は来て、日の出る所から、わたしの名を呼ぶ。彼は長官たちをしっくいのように踏む。陶器師が粘土を踏みつけるように。だれか、初めから告げて、われわれにこのことを知るようにさせただろうか。だれか、あらかじめ、われわれに『それは正しい』と言うようにさせただろうか。告げた者はひとりもなく、聞かせた者もひとりもなく、あなたがたの言うことを聞いた者もだれひとり、いなかった。わたしが、最初にシオンに、『見よ。これを見よ』と言い、わたしが、エルサレムに、良い知らせを伝える者を与えよう。わたしが見回しても、だれもいない。彼らの中には、わたしが尋ねても返事のできる助言者もいない。見よ。彼らはみな、偽りを言い、彼らのなすことはむなしい。彼らの鋳た像は風のように形もない。」

イザヤ書41章21-29節

 

以前住んでいた場所の近くに夜間、占い師たちが並んでいる通りがありました。夜中寒い中、お客さんを待っているのですが、なかなか頼地よる人がいない。でも、ここで思ったのが、本当に占い、運勢とか未来とかわかる、ないしある程度予想ができるなら、まず自分を占って今日はどうなのか、見てからくれば苦労しないのに、と思うところ。まあその話を一回占いの人に話したら、黙って帰されちゃいましたけどね。人ってまだ見えない未来に不安を覚えるから、それを利用する人たちがいるんでしょうけど、本当にこれに「責任を持てる」人っているのかな?ただ言えるのはあなたのために命を投げ出してでも、取り戻したかった、神様がいる。この方が無責任に語るのではなく、共に導いて下さる。だから私たちはこの神様の愛に信頼し、歩みたいものです。

 

さて、↑は再び天の法廷に場面が戻されます。ここまで約100年後の未来、バビロン捕囚期についての預言の中で、新たな力を得るために神様の御もとにおいでよ、と招きの言葉、そして友としてあなたを救う、ということを神様は語られていました。

 

神様はなお続けてイザヤを通して、「あなたがたの訴えを出せ、と主は仰せられる。あなたがたの証拠を持って来い、とヤコブの王は仰せられる」と語り、天の法廷へ「あなたがたの訴え」を持ってくるように告げられます。

 

あなた方の訴え、といいますが、あなたがたって誰、と思うのですが、これはこの章のさらに後半を見ていくと明らかになるのですが、これは偶像の神々のようです。まあ、日本的には八百万の神、見たいに考えればわかりやすいかもしれませんが、諸外国にもいろんなものを像にしなくとも神にしていますからね。その偶像の神々に呼びかけて、どちらが本物の神なのか、その証拠を持って来い、というのです。偶像が本物の神ならば、その証拠があるでしょう、と。まあイスラエルの民が偽の神、偶像の神々を信仰していた際にも、それらは答えず、あなた方を助けなかったではないか、と神様は語られていたのですが、まさにそうなんです。

 

神様がいるなら何で、と私たちは今年の初めを含め、様々な場面で出くわしますが、いない神には何をすることもできません。今神様がイザヤを通して預言しているバビロン捕囚期に向けて、これから様々な艱難、苦難に直面する、でもその中でも神様がいるんだ、と励ますべく、今語られるのです。

 

まず神様は「持って来て、後に起ころうとする事を告げよ。先にあった事は何であったのかを告げよ。そうすれば、われわれもそれに心を留め、また後の事どもを知ることができよう。または、来たるべき事をわたしたちに聞かせよ。後に起ころうとする事を告げよ。そうすれば、われわれは、あなたがたが神であることを知ろう。良いことでも、悪いことでもしてみよ。そうすれば、われわれは共に見て驚こう」とイザヤを通して仰られます。

 

そう、まずその証拠として「後におころうとする事を告げよ」と仰るのです。それはそうです。本当に神様であるなら、ただ未来のことを「予」想するのではなく、自分で計画をもっている未来があるはずなのですから、語れるはずです(まあそもそも偶像はしゃべれないのですが、そういう点ではある意味では皮肉な話ですが)。序論の占いの話もそうですが、本当に未来のことがわかるなら、予め自分の今日の売り上げや来る時間などを調べればいい話なのにそれができない、それがある意味で占いへの答えです。

 

そもそもの話なのですが、今ここで未来の話が示されていますが、偽神は人の手によってつくられたものです(偶像ないし、先祖崇拝にしても、どこぞの教祖にしても)。日本でいう八百万の神だってそう人が勝手に定めただけであって、それは神ではなく、むしろ神様が造られた存在です。つまり、それらは昔を知らない、というよりもこの天地の初めを知らない。ビッグバーンによってできた?そんなわけないのは、小学生の理科の知識があるだけでも誰でもわかる話です。何のきっかけもなく大爆発がいきなり起こるわけないじゃないですか。ある時突然って。偶然で、人の成功これだけ精巧な体ができますか?ある人は進化、と言いますが、そんなますます複雑な仕組みにいきなりなるわけないじゃないですか。この天地万物の精密な構造を考えたって偶然にそうなるなんてありえない話です。

 

少し横道にそれてしまいましたが、まあこの辺を書きだしたらきりがないので、明らかに神様がいなければこの世界が存在しえないことは間違いありません。「初めに、神が天と地を創造した」と聖書には記されています。それは、アダムやエヴァも知っているからこそ、子孫子孫へとそれを語り継げていった。この神様が天地万物を造り、神様がこの歴史を導いてこられた、だからそれを語り継げて来たわけです。いきなり未来の計画なんて語ることなどできない、この世界を造られた神様だから語ることができるのです。

 

神様「光があれ」と仰られると、光が出て来て光とやみとを区別されました。また、言葉によってその後も空、海、地、緑、太陽、月、星、魚、動物、鳥を造られました。神様の言葉によってすべてをなしてきてくださった(人は神様のご自身の手で造られています)、人を導いてこられた、まさに神様の口から出る一つ一つの言葉によって私たちは生きるのです。私たちを導く神様は語られる神様なのです。人が作り出した、口もない、息もないものがどうしてあなたを保証できるでしょう。しかし、言葉によってすべてを造られ導かれた神様だからこそ、あなたを保証することができるのではないでしょうか。

 

神様は今日もあなたに聖書を通して、祈りの中で、また誰かの口を通して語られています。私たちはどうしても神社とかのイメージから神様は語らない、という先入観を持ってしまいますが、今日ぜひ神様に祈ってみてください、神様はあなたに語られるでしょう。あなたの先入観に邪魔されず、ただ神様の声を聴いてみてください。私たちは神様の口から出る一つ一つの言葉、注がれる霊にあって生かされるのですから。

 

話を進めて、神様はなおイザヤを通して「わたしが北から人を起こすと、彼は来て、日の出る所から、わたしの名を呼ぶ。彼は長官たちをしっくいのように踏む。陶器師が粘土を踏みつけるように。だれか、初めから告げて、われわれにこのことを知るようにさせただろうか。だれか、あらかじめ、われわれに『それは正しい』と言うようにさせただろうか。告げた者はひとりもなく、聞かせた者もひとりもなく、あなたがたの言うことを聞いた者もだれひとり、いなかった。わたしが、最初にシオンに、『見よ。これを見よ』と言い、わたしが、エルサレムに、良い知らせを伝える者を与えよう」と語られます。

 

そう、神様は具体的に行動を起こされる神様です。何もできない神、人の手によって運ばれなければいけない、何もできない偽神・偶像の神々はあなたに何をすることはできなくとも、神様はこの天地万物を造られて終わりではなく、さらにあなたのうちにエデンの園に全ての者を備えてくださっていたように、また罪によって追放されたのちも彼らを見放さず、その御手を伸ばされていた、イザヤが語られている時代を考えれば、バビロン捕囚があろうとその前に神様は何度となくその御手を伸ばされ、語られ、多くの奇跡をおこなわれ、ご自身の内に立ち返るようにその愛を注がれ、具体的に行動されていたように、神様は行動される神様なのです。を、実践される神様なのです。語られて終わりではなくその語られたことを行動に移されます。

 

それが↑ではクロス王を起こして良い知らせをまさに彼らに、また私たちに届けてくださるのです。先程未来についての話が出ていましたが、最善の未来へと私たちを導くために神様はその御手を伸ばされ、また今この瞬間も含め神様は行動されるのです。そのあなたを保証するのは誰ですか?神様です。

 

神様は私たちが死に向かうのではなく、命を得るためなら、と神の御子たるイエス様に私たちの罪を身代わりに背負わせ、十字架にかけ、身代わりに罰せられたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の前に悔い改めるすべての人の罪を赦し、罪人として滅びるのではなく、神様の子として迎え入れ、永遠の命を約束されたのです。神様がこのイエス様にあって私たちを保証してくださるから、私たちの未来に命があるのです。

 

だれがそんなことを計画しますか。人の手によってつくられたものがあなたの命を保証できますか?あなたのために命を投げ出しますか?イエス様は十字架にかかられる前に、「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です」と仰られ、たがいに愛する、それをイエス様自身が実行されたのがあの十字架であり、それによって、私たちの内に神様がくださる喜びで満ち溢れさせてくださる、そのためなら、イエス様は罪人たる私たちのために命を捨ててまであなたを取り戻されたのです。あなたを本当の友として迎え入れるために。

 

私たちは自分の都合のいい目で見まわして、これが自分の役に立つから神なんだ、と都合のいい神をつくりだす必要はありません。神様はあなたの神様となられるためなら御子イエス様の命を身代わりにするという選択を持ってまであなたを救わんとされた。これだけあなたという友のために愛を注がれた神様があなたにどれだけの計画を持っておられるのか。私たちは神様のこの命がけの愛に立ち返り、この命を受け取ろうではありませんか。そしてこのイエス様にあって新しくされた命、滅びではなく天の御国へとつながるこの道を歩ませていただこうではありませんか。あなたを今日イエス様の命にあって保証される神様に信頼して。