―え?なんでこんなことに?― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。そこへ、アモツの子、預言者イザヤが来て、彼に言った。『主はこう仰せられます。【あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。】』そこでヒゼキヤは顔を壁に向けて、主に祈って、言った。『ああ、主よ。どうか思い出してください。私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたがよいと見られることを行なってきたことを。』こうして、ヒゼキヤは大声で泣いた。そのとき、イザヤに次のような主のことばがあった。『行って、ヒゼキヤに告げよ。あなたの父ダビデの神、主は、こう仰せられます。【わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたの寿命にもう十五年を加えよう。わたしはアッシリヤの王の手から、あなたとこの町を救い出し、この町を守る。】これがあなたへの主からのしるしです。主は約束されたこのことを成就されます。見よ。わたしは、アハズの日時計におりた時計の影を、十度あとに戻す。』すると、日時計におりた日が十度戻った。」

イザヤ書38章1-8節

 

ここ一番、というタイミングで大変な目に合う事ってありますよね。私も中学から高校に内部進学テストの前日に祖母を天に送り、大変だったのを覚えています。ただ神様は憐みによって、それでも祖母の葬儀のために、と試験を休んでも、救済処置を得られ、無事に進学できましたが。神様はこの時確かに祈りを聞かれた、というのをよく覚えています。私たちは神様の御手の中で生かされている、このことを忘れてはいけません。生きるもキリスト、死ぬのもまた益です、とある人は語りますが、私たちの一日一日を満たして下さる神様に最後まで信頼し、歩みたいものです。

 

さて、ここまでヒゼキヤ王が紀元前701年にアッシリヤ帝国のセナケリブ王、そしてラブ・シャケの軍に取り囲まれ、絶対的大ピンチを迎えていたこと、しかしその中で神様をそれでも信頼し、祈り、ついには神様が彼らを討ってくださったところまで見ました。これでめでたしめでたし、と思いきや、ここで大変な問題が起こるのです。↑でそのころ、「ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。そこへ、アモツの子、預言者イザヤが来て、彼に言った。『主はこう仰せられます。【あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。】』」とある通り、なんと、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていたのです。

 

これはいつ頃の話なのか、これは諸説あり、非常に難しい話です。↑を見てお分かりの通り、ヒゼキヤ王は結局15年寿命が加えられる形となることから、ヒゼキヤ王が死んだ紀元前686年から15年戻した紀元前701年とされている説、もしくは紀元前701年のエルサレム包囲の15年前に、ヒゼキヤが神様ではなく他国に頼ったために神様に立ち返り頼ることを知るために、紀元前715年に彼が死に至る病になったという説があります。どっちが正しいのか、これは正直な話、難しいところではありますが、行きつくところは結局神様に頼るというところなので、大きな問題はないかとは思いますが。

 

話を進めて、ヒゼキヤ王はそういうわけで、突然病気になります。紀元前715年にしても701年にしても、その時セナケリブ王が来襲していたことには変わりません。2度、来襲しているので、↑とは矛盾しない、ただ、そんな状況下でなんと突然王としてこれから戦わなければいけない中で病気になるのです。これは国民を守らなければいけないこの時にどうして?とかなり絶望に彼自身襲われたことでしょう。なんでこのタイミングで、神様あなたは本当わたしを愛しているんですか?と思いたくなることは、私達もあるでしょう。やりきれませんよ、これでは。

 

しかも、医者から「もしかしたら…検査でも」とかそういうことを言われたのではない、神様が直接、わざわざ預言者イザヤを通して「あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない」と宣告されたわけですから。

 

ここでふと思ったのですが、みなさんだったら、何も知らされないで、突然死ぬ(病気で苦しみながら)のと、神様から直接告げられるの、どっちがいいですか?よく余命宣告でこの手の話題があがりますが。今はいくら医療技術が発達していると言えども、どうにもならないものはどうにもならない、私の周りにも幾人か、今苦しんでいる方を知っていますが、同時に終活といいますか、QOLを最後まで高いまま生きたい、という人もいるでしょう。

 

ただ、なぜ直らない病のことをわざわざ告げられたのか、と思うわけです。ただ終活、身の回りの整理をするように、というだけなら、最後まで安静に迎えられるようにするよ、とか、もしくは癒すからね、とか仰るだろうところを、神様は直らない、と明言されるのです。なぜ?私は、神様に頼っていいよ、という一言に尽きるのではないか、とここから思うのです。神様から告げられたなら、神様が何か理由をもって語られている、だから神様にどうしたらいいのか、求めるように、と。

 

ここで私たちはもう一度考えたいのですが、私たちの命は神様がくださった、与えてくださったもので、また神様のところにいつか帰るのです。神様はその御手をもって私たちを導いて下さっているのです。私たちが生きている今も、苦しんでいる日も、死に向かおうとしている日であっても。その命を神様にどう委ねるか、それがある意味で問われているのです。

 

ヒゼキヤはこれを聞いたとき、「ああ、主よ。どうか思い出してください。私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたがよいと見られることを行なってきたことを」と、祈りました。神様からは、終わりに備えるように言われた、だからそうする、と思いきや、むしろ神様の憐れみにより頼んだのです。神様に委ねる決断をしたのです。彼は涙を流し、祈ったのです。神様の憐れみがこの身を覆い、神様の御前を歩めるように、祈ったのです。死ぬにしても、この国に神様の憐れみがあるように。

 

よく見ると、ヒゼキヤは自分を顧みてください、と祈りつつ、癒してください、とは祈っていないんですよね。神様はここでヒゼキヤに、イザヤを通して「わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたの寿命にもう十五年を加えよう。わたしはアッシリヤの王の手から、あなたとこの町を救い出し、この町を守る」と答えられるわけです。神様はヒゼキヤ王の祈りを聴き、15年の寿命を延ばされたことで、さらに神様の御業が彼を通して成そうとされた、応えられたのです。神様の憐れみを彼が求めた、だからなお神様の憐れみが15年間増し加わったのです。ただ何となく寿命だけ延びてベッドの上で伏す15年間ではない、神様の救いが彼を通してなることを約束されたのです。より最善の答え、神様の憐れみが彼の上に、またこの国の上に確かにある事を彼に約束されたのです。

 

ある人は、それにしても何で神様がいるならこんな苦しい目に合わなければいけないんだ、病気にならなければいけないんだ、あんないい人が死ななければならないんだ、とまるで神様が悪い、と思う人もいるでしょう。まあもちろん不摂生で病気になる人もいますが、じゃあ神様は病の人を放っておかれるのか、と言われたらそういうわけではありません。どうせ死んだら、と放置されるわけでもありません。

 

イエス様が人となってお生まれになられた時どうだったか思い出してください。イエス様は確かに人の罪を身代わりに背負い、十字架にかかり死なれるために生まれてこられました。罪を赦しに来たのだから、病気の人や困っている人など関係ない、と放置されたわけではありませんよね。むしろイエス様はその言葉によって癒されました。神様から離れ、むしろ迫害する、裏切る人たち、弟子たちでさえ、最後の最後まで憐れまれ愛を注がれました。イエス様を捕まえに来たローマ兵が12弟子のひとりペテロによって切り落とされた時、イエス様はなんと彼の耳を癒されたのです。だから決して神様は私たちの苦しみを無視される方ではない、むしろヒゼキヤに答えられたように、聴いて、見ておられるのです。あなたの上に憐れみを注ぎたい、と。

 

別な時にはイエス様はある時生まれつき目の見えない人のところに来られた時、周りの人たちは両親たちの罪による因果応報だ、という中、イエス様は「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです」と答えられました。そして彼の目を癒されたのです。病のうちにも、神様はそのことを通しても神様の栄光によって、愛によって癒し、あるべき姿に回復させたいのです。

 

でも現実問題癒されない人、死にゆく人だっているじゃないか、と思う人もいると思います。私の高祖父も、クリスチャンになって、しかも先ほどの生まれつき盲目だった人の箇所をある伝道士に示され、救われたのに最後まで目は癒されることはありませんでした。しかし彼は最後までこれまで神様から離れていた人生よりも、神様が一緒の人生の方が楽しい、と凍傷になろうと、石を投げられても、最後までイエス様の愛を語り、多くの人が癒され、また神様の恵みに与る事となりました。

 

神様は誰かすごい人、偉い人だけを癒されるわけではない、癒されないから神様に愛がないのではない、ヒゼキヤにただ癒して少しだけ寿命を延ばしたわけではなく、15年の月日と、より神様の憐れみが注がれ、今の窮地から救い出される素晴らしい日々が与えられたように、神様がそこに憐れみ、いのちを、愛を、ある意味では魂を注がれるからこそ、本当の意味で生きたものとなるのです。

 

あの1世紀最大の伝道者といわれるパウロでさえ、実は取り除かれない、癒されない目の病気にかかっていました。このことについて彼は、「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである』と言われたのです」と記しています。もちろん私たちには形は違えど、様々な弱さがあります。しかし神様の恵みは私たちが想像する以上の答えをもって覆われるのです。あなたはこれを求めていますか?

 

あなたはこの神様から与えられている命をどう生きますか?実はこの後ヒゼキヤはとんでもない失敗をし、この15年を残念な形で閉じます。問題なのはこの命をあなたはどう生きるかです。あなたはただ神様によってつくられただけではない、あなたを救うために、と先ほども申し上げましたが、ただ癒して終わりではなく、完全に神様の恵みが覆うために、私たちの罪を取り除くため、イエス様を私たちの罪の身代わりに十字架にかけ、罰せられ、死なせたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦され、赦されて終わりではなく、新しい命、永遠の命が与えられるのです。神様の子としての新しい命が。15年戻された、ではなく完全な神様の子としてもう一度今回復されたのです。

 

救われて、癒されれてはい終わり、ではなく完全な神様の恵みが覆うことを祈り求めようではありませんか。ある意味ではこの魂が癒される事、また周りで苦しんでいる人たちの魂もまた癒され、神様の栄光、愛、素晴らしさが溢れる事を。15年という数字を超えた計り知れない神様の恵みが覆う事を。あなたは今日という日に何を求めますか。癒されなかったパウロはそれでも「もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです」と勧めています。あなたは生きるも死ぬも、順境の日も逆境の日も、この神様の究極の愛によって生かされていること、支え導かれていることを覚え、歩もうではありませんか。