―しるし― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「アモツの子イザヤはヒゼキヤのところに人をやって言わせた。『イスラエルの神、主は、こう仰せられます。あなたがアッシリヤの王セナケリブについて、わたしに祈ったことを、わたしは聞いた。主が彼について語られたことばは次のとおりである。処女であるシオンの娘はあなたをさげすみ、あなたをあざける。エルサレムの娘は、あなたのうしろで、頭を振る。あなたはだれをそしり、ののしったのか。だれに向かって声をあげ、高慢な目を上げたのか。イスラエルの聖なる方に対してだ。あなたはしもべたちを使って、主をそしって言った。【多くの戦車を率いて、私は山々の頂に、レバノンの奥深く上って行った。そのそびえる杉の木と、美しいもみの木を切り倒し、私はその果ての高地、木の茂った園にまで入って行った。私は井戸を掘って水を飲み、足の裏でエジプトのすべての川を干上がらせた】と。あなたは聞かなかったのか。昔から、それをわたしがなし、大昔から、それをわたしが計画し、今、それを果たしたことを。それであなたは城壁のある町々を荒らして廃墟の石くれの山としたのだ。その住民は力うせ、おののいて、恥を見、野の草や青菜、育つ前に干からびる屋根の草のようになった。あなたがすわるのも、出て行くのも、入るのも、わたしは知っている。あなたがわたしに向かっていきりたつのも。あなたがわたしに向かっていきりたち、あなたの高ぶりが、わたしの耳に届いたので、あなたの鼻には鉤輪を、あなたの口にはくつわをはめ、あなたを、もと来た道に引き戻そう。あなたへのしるしは次のとおりである。ことしは、落ち穂から生えたものを食べ、二年目も、またそれから生えたものを食べ、三年目は、種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を作ってその実を食べる。ユダの家ののがれて残った者は下に根を張り、上に実を結ぶ。エルサレムから、残りの者が出て来、シオンの山から、のがれた者が出て来るからである。万軍の主の熱心がこれをする。それゆえ、アッシリヤの王について、主はこう仰せられる。彼はこの町に侵入しない。また、ここに矢を放たず、これに盾をもって迫らず、塁を築いてこれを攻めることもない。彼はもと来た道から引き返し、この町には入らない。―主の御告げ―わたしはこの町を守って、これを救おう。わたしのために、わたしのしもべダビデのために。』主の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな、死体となっていた。アッシリヤの王セナケリブは立ち去り、帰ってニネベに住んだ。彼がその神ニスロクの宮で拝んでいたとき、その子のアデラメレクとサルエツェルは、剣で彼を打ち殺し、アララテの地へのがれた。それで彼の子エサル・ハドンが代わって王となった。」

イザヤ書37章21-38節

 

いつの時代も聞かれるのは、「本当に神がいるというなら証拠を見せてみてよ」というたぐいの言葉。あなたはこれに対してどうこたえるでしょうか。目に見える証拠は…と戸惑ったりしていませんか?そんなことはないんですよ。あなた自身が今生きているのはまさに神様の恵みによるものです。神様なくして私たちは生きることはできません。なにより、天地万物を見回して、誰がこれを偶然できた、と言えるでしょう。日本ではいまだに頑なに否定していますが、ドクター、科学者、多くが何者かがいなければ私たちは存在しえない、この世界は存在しえない、と認めています。まあ彼らはSomething Greatと彼らは表現しているだけで、それを神様とは言いたくないようですが。あなたは自分の人生に神様を受け入れていますか?神様があなたの内に住まわれる時、あなたの内に神様の驚くべき御業が現わされる、あなたは生きたものとなる。今日私たちは神様をひたすらに求め続けようではありませんか。

 

さて、↑は36章から続いています、紀元前701年に当時世界の覇権を握っていたアッシリヤ帝国が南ユダのエルサレムにまで迫り、これを包囲し、南ユダが絶望下に包まれていた頃の話になります。彼らの脅迫に迫られ、ヒゼキヤは現実を受け入れるか、いや神様こそ現実なんだ、真の神様であり、王なんだ、と神様を求めるか、選択を迫られていた中、彼は神様を求める決断をし、神様に祈ります。↑はその答えから始まります。

 

イザヤは神様から答えをいただき、「あなたがアッシリヤの王セナケリブについて、わたしに祈ったことを、わたしは聞いた。主が彼について語られたことばは次のとおりである。処女であるシオンの娘はあなたをさげすみ、あなたをあざける。エルサレムの娘は、あなたのうしろで、頭を振る。あなたはだれをそしり、ののしったのか。だれに向かって声をあげ、高慢な目を上げたのか。イスラエルの聖なる方に対してだ」とヒゼキヤ王に伝えます。神様にあれこれ言うとは何様のつもりだ、とは言わない。どうも私たちは恐れ多くて祈るなんて、という人も多いのですが、そもそも神様が祈ることを教えられた、神様がその祈りを聞かれているのです。なんとなく適当に聴く神様でもない、すべてをちゃんと聞いておられるのです。

 

ヒゼキヤ王への祈りの答えとして、まず神様は「聞いた」と仰られるのです。しかも、神様は、祈られて初めて状況を知ったよ、とは仰っていない。神様はすべての現状を見ておられ、これに応えてくださるのです。彼らが罵られ苦しんでいるのを知った、そして今神様に立ち返ったヒゼキヤゆえに、神様は立ち上がられるのです。神様はいつでも準備万端だったのです。アッシリヤのセナケリブはイスラエルを罵り、ヒゼキヤを悩ませていた。しかし自分たちこそ神の使いだ、神様の意思だ、と思っていたアッシリヤ、しかし実は神様を退けていた彼らこそ神様、聖なる神様を退けていたのです。

 

それだけではありません。神様は、聞いたよ、まあ気が向いたときに叶えるからまあ気長に待っていてね、とは仰らなかった。神様は具体的にその問題、アッシリヤをどうされるかについて、「あなたがわたしに向かっていきりたつのも。あなたがわたしに向かっていきりたち、あなたの高ぶりが、わたしの耳に届いたので、あなたの鼻には鉤輪を、あなたの口にはくつわをはめ、あなたを、もと来た道に引き戻そう」と、語られるのです。そして↑の一番最後にあるように、実際に「主の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな、死体となっていた。アッシリヤの王セナケリブは立ち去り、帰ってニネベに住んだ。彼がその神ニスロクの宮で拝んでいたとき、その子のアデラメレクとサルエツェルは、剣で彼を打ち殺し、アララテの地へのがれた。それで彼の子エサル・ハドンが代わって王となった」神様ご自身が立ち上がり、戦われ、イスラエルを囲ってもうどうにも手の打ちようがない状況を神様の御手によって逆転させてくださったのです。しかもありえない、帰った先でまた復讐に立ち上がることがないように、完全に制圧されたのでした。

 

私たちは神様を見くびってはいけません。侮ってはいけません。どうせ神社とかと同じで聞いてくれている「気がする」程度、などと考えてはいけません。神様は聴かれ、応え、行動される神様です。私たちが自分たちではどうにもならないと意気消沈している問題さえ、神様は制圧され、もう彼らはイエス様にあってあなたに立ち上がることなどできません。

 

神様はあなたのお飾りではないのです。いざという時の神頼み、のような人生のおまけみたいな存在ではありません。神さまこそ主、あなたの救いとなられたのです。ただ制圧して終わりではない、神様はイスラエルをアッシリヤの手から戻し、神様の恵みの中に招き入れたかった。救って終わり、後は頑張れ、ではなくこの神様が彼らと共に歩まれる、あなたと共に歩まれるのです。神様は現実、リアルです。神様は現実逃避する先ではない、神様があなたをかくまい、また救ってくださるのです。あなたは神様をどれだけ求めていますか?

 

神様はイザヤを通してなおヒゼキヤ王に「あなたへのしるしは次のとおりである。ことしは、落ち穂から生えたものを食べ、二年目も、またそれから生えたものを食べ、三年目は、種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を作ってその実を食べる。ユダの家ののがれて残った者は下に根を張り、上に実を結ぶ。エルサレムから、残りの者が出て来、シオンの山から、のがれた者が出て来るからである。万軍の主の熱心がこれをする。それゆえ、アッシリヤの王について、主はこう仰せられる。彼はこの町に侵入しない。また、ここに矢を放たず、これに盾をもって迫らず、塁を築いてこれを攻めることもない。彼はもと来た道から引き返し、この町には入らない。―主の御告げ―わたしはこの町を守って、これを救おう。わたしのために、わたしのしもべダビデのために」と語られます。

 

神様はしるしを約束される方、そしてそれを成就される方。決して神様の御言葉は、約束はむなしくかえってくることはありません。イエス様誕生の約束、十字架による救いの約束も成就されましたよね。どんなに裏切られても、途中でもうやってられない、と天に戻ることなく最後まで十字架から降りることなく、あなたへの愛を実行された。まさに神様の愛のしるしはここに現わされたのです。そして現されて終わりではありません。

 

ここでイザヤにそのしるしを「ことしは、落ち穂から生えたものを食べ、二年目も、またそれから生えたものを食べ、三年目は、種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を作ってその実を食べる。ユダの家ののがれて残った者は下に根を張り、上に実を結ぶ」と語られている通り、ある時だけではないのです。何だ、最初は大したものが食べられないじゃないか、と思う方もいるかもしれませんが、しかし一度崩れ去った中でまともに食事にありつくのは大変ですよね。でも神様は、いや神様が備えてくださるのです。そのどん底の中に神様は落穂を備える、神様からの恵みの落ち穂を私たちに備えてくださるのです。神様の恵みが、神様の愛が、御心が。それが1年、2年、3年と、神様の愛は途切れることなく続き、それを味わい続けることが赦されているのです。

 

さらに神様は守られ続ける。ある時だけではなく。神様があなたの内にもうあらゆる悪を、思い煩いを侵入させず、守り救われる、むしろ神様のくださる喜びで満ち溢れさせ、もはや私たちは囲まれることはない、むしろ神様が↑の最後にあるように共に戦い、神様の御国に行く日まで導いて下さるのです。

 

あなたのために神様はイエス様をしるしとして与えてくださりました。あなたを取り囲むあらゆる思い煩い、何より迫るサタン、あなたを苦しめる罪から救い出し、徹底的に戦われ、勝利の道に導きだすために。イエス様は命をかけて戦われた。あなたをかかる十字架から降ろし、救うため、降るところだった陰府から引き上げるため、イエス様があなたの身代わりに十字架にかかられ、死なれ、陰府に降られたのです。

 

しかし3日目によみがえられたことによってこのイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪は赦され、完全にこの勝利に与らせていただける、古い私たちは新しくされ、このイエス様にあって和解させていただいた神様の恵みぎ、御心によって私たちは満ち溢れ、世の終わりまでこのイエス様が共に進み導かれる。このイエス様の前に何物ももはや立ちおおせることはできません。神様の愛、約束にこれ以上のしるしがどこにあるでしょう。私たちはリアルにあなたを愛され、リアルに愛を実行された神様の愛を、もう飾り物とはせず、我がうちに受け入れ、明け渡し委ね、歩ませていただきたいものです。ただ主の栄光が溢れることを祈り。