―困っているあなたを見放せない方がいる― | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「ヒゼキヤは、使者の手からその手紙を受け取り、それを読み、主の宮に上って行って、それを主の前に広げた。ヒゼキヤは主に祈って言った。『ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、万軍の主よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。主よ。御耳を傾けて聞いてください。主よ。御目を開いてご覧ください。生ける神をそしるために言ってよこしたセナケリブのことばをみな聞いてください。主よ。アッシリヤの王たちが、すべての国々と、その国土とを廃墟としたのは事実です。彼らはその神々を火に投げ込みました。それらは神ではなく、人の手の細工、木や石にすぎなかったので、滅ぼすことができたのです。私たちの神、主よ。今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、あなただけが主であることを知りましょう。』アモツの子イザヤはヒゼキヤのところに人をやって言わせた。『イスラエルの神、主は、こう仰せられます。あなたがアッシリヤの王セナケリブについて、わたしに祈ったことを、わたしは聞いた。主が彼について語られたことばは次のとおりである。処女であるシオンの娘はあなたをさげすみ、あなたをあざける。エルサレムの娘は、あなたのうしろで、頭を振る。あなたはだれをそしり、ののしったのか。だれに向かって声をあげ、高慢な目を上げたのか。イスラエルの聖なる方に対してだ。あなたはしもべたちを使って、主をそしって言った。【多くの戦車を率いて、私は山々の頂に、レバノンの奥深く上って行った。そのそびえる杉の木と、美しいもみの木を切り倒し、私はその果ての高地、木の茂った園にまで入って行った。私は井戸を掘って水を飲み、足の裏でエジプトのすべての川を干上がらせた】と。あなたは聞かなかったのか。昔から、それをわたしがなし、大昔から、それをわたしが計画し、今、それを果たしたことを。それであなたは城壁のある町々を荒らして廃墟の石くれの山としたのだ。その住民は力うせ、おののいて、恥を見、野の草や青菜、育つ前に干からびる屋根の草のようになった。あなたがすわるのも、出て行くのも、入るのも、わたしは知っている。あなたがわたしに向かっていきりたつのも。あなたがわたしに向かっていきりたち、あなたの高ぶりが、わたしの耳に届いたので、あなたの鼻には鉤輪を、あなたの口にはくつわをはめ、あなたを、もと来た道に引き戻そう。…』」

イザヤ書37章14-29節

 

よく困った時の神頼み、といいますが、その頼む神、それはあなたにとって誰ですか?そもそも頼む、ということはその存在がなければ頼ることはできませんよね。あなたは何もない存在を頼っていませんか?しかし神様はあなたを今日も心配してくださり、耳を傾けていてくださっている、その御手を伸ばされています。私たちは今日、この神様の愛に立ち返り、歩みたいものです。神様があなたを今日も待っておられるから。

 

さて、↑は紀元前701年にアッシリヤ帝国によって南ユダ王国のエルサレムが包囲され、陥落寸前の状態になっていた時におこった出来事の続きになります。この時アッシリヤの王ゼナケリブとラブ・シャケは今エルサレムにいるユダの民に降伏を迫り、ある意味で捕囚される、自分たちに従えば幸福があるんだ、そうじゃなければ…と脅しをかけます。お前たちの神は何もしないじゃないか、と嘲り笑い。そこでヒゼキヤは悲しみ、降参、ではなく、むしろ神様を頼り、主の宮に宮内長官エルヤキム、書記シェブナ、年長の祭司たちを遣わして、イザヤに祈りの要請をします。そこでイザヤは祈り、神様が勝利へ導いて下さるという約束を彼に伝えました。事実この後敵の多くは討たれ、またセナケリブも自国に引き返した先で討たれます。ただ、アッシリヤの攻撃の手はまだやまず、さらなる罵りの言葉が伝えられます。↑はその続きになります。

 

そこで「ヒゼキヤは、使者の手からその手紙を受け取り、それを読み、主の宮に上って行って、それを主の前に広げ」ました。ヒゼキヤ王はイザヤに祈りの要請をして、祈ってもらい、神様は勝利を約束されています。一方でそれとは逆に神様は何もしないじゃないか、となお罵る手紙。彼には今決断の時が迫っていました。神様を信じるか、それとも神様では無理だ、と諦めて降参を伝えにラブ・シャケのところに行くか。

 

これは私たちにも大きく問われることです。私たちが生きている限りは様々な困難があります。なぜこんなことが?神様は何もしてくれないのか?諦めて降参、降伏するか。それとも、それでも神様があなたを愛しておられるその愛に信頼し、従いとおすか。それは私たちが生きている中で、様々な形で現れます。病気になった時、どうせ神様は自分を愛していないから病気にしたんだ、と神様のせいにする、神様は自分を心配せず見捨てたんだ、とか。

 

こういう方をいろんなところで見かけるのですが、そもそもいないと思う神様をどうして恨むのでしょう。その前に神様の御前に全てを明け渡し、祈ることを忘れていませんか?自分の思う通りにならない、自分のお心通りにならないから、と神様を否定する前に、私たちは神様の御心をどうしてたずね求めないのでしょう。その前にどうして静まり委ねないのでしょう。

 

話を戻してここでヒゼキヤは神様の御前にこの問題を開く、さらけ出し、すべてを委ねる決断をしました。ラブ・シャケに降参するのではなく、神様に降参と言いますか、身を委ねて。ヒゼキヤ王はそして、「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、万軍の主よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。主よ。御耳を傾けて聞いてください。主よ。御目を開いてご覧ください。生ける神をそしるために言ってよこしたセナケリブのことばをみな聞いてください。主よ。アッシリヤの王たちが、すべての国々と、その国土とを廃墟としたのは事実です。彼らはその神々を火に投げ込みました。それらは神ではなく、人の手の細工、木や石にすぎなかったので、滅ぼすことができたのです。私たちの神、主よ。今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、あなただけが主であることを知りましょう」と祈り始めます。

 

ケルビム、わかりやすく言いますと御使いにあたるのですが、神様はこの世の王はおろか御使いにも勝る、すべての王、万軍の主と彼は告白します。今目の前にある状況は、アッシリヤ帝国の王セナケリブが、彼が言うように覇権を握り、彼らの兄弟国、北イスラエル王国さえ捕囚していきました。打ち砕きました。そしてそれだけではなく様々な国が確かに打たれ、廃墟にされている事実です。だから普通に考えれば、今この世の実権を握っているのはセナケリブ、ともうあきらめることはある意味では簡単なのかもしれません。

 

しかし、ヒゼキヤはそうではないんだ、と神様に祈るのです。そうならセナケリブの前に降参する、あきらめたほうが道はある、と考えてしまうところですが、ヒゼキヤ王はあきらめない。神様を諦めない。

 

それはね、私たちの手ではどうしようもないことは山ほどありますよ。私たちはたまにこの間違いに陥るのですが、クリスチャンだから最強、なんでもできる、と。でもそうではないのです。奇跡的な事を何でもできる、できないなら神様はいない、と。でもそうではないのです。それらは神様が共にいるからこそ、弱くとも強くいられる、神様が弱さの内に完全に働かれるからこそ、驚くべきことをそこに「神様が」現わしてくださるのです。癒されない?

 

私の高祖父もクリスチャン、伝道者でありながら盲目、最後まで癒されることはありませんでしたよ?しかし、彼を通して神様は多くの御業を苦しみの中にいる人たちに届けました。彼を通して神様がその御業をなされた。彼がすごいのではない。神様が素晴らしいことをされる、それ故に私たちは神様のすばらしさを私たちが想像する以上の御業を見させていただけるのです。誰が神様の王なのですか?あなたは神様の王ですか?神ですか?とんでもない、あなたは、私は神様によってつくられた存在ではありませんか。ヒゼキヤは自分も王でありながら、自分もまた神様に決して勝るものでもなければ、神様の神でもない、と遜るのです。

 

そしてヒゼキヤ王は確かにアッシリヤがやったことは事実としますが、それはその国々の民が頼っていた神、まあ存在もしない偽神ですが、彼らは自分が神なら助けることはできたでしょう、しかししょせんは人の手の細工、木や石に過ぎず、何もできないから滅びたに過ぎないんだ、というのです。

 

私達も所詮は土くれに過ぎない、しかし神様が私たちの内に住まわれるからこそ、生きたものとなるのです。神様が霊を吹き込まれるからこそ、私達も生きたものとなるのです。私たちの手ではままならないことも多数あることは事実、だからこそ、私たちは神様の御前にへりくだる、委ねる必要があるのです。それはね、周りの状況が苦しいことがあるのは100も承知です。しかし、それらを打ち砕かれる、戦われる王は、そんな息もない像に過ぎない偽神とは違う、この天地万物をむしろ造られ、保持されている、あなたを今日まで導き、生かされ、これからも導かれる神様なのです。その神様のなさろうとするご計画にどうして私たちが文句を言う筋合いがありますか。むしろそれを見る前にどうして言うことができるでしょう。私たちは神様の御前にあって何ものですか。あなたは神様に対して覇権を握っているとでもいうのですか?

 

イザヤはこのヒゼキヤの遜りの前に、また祈りの要請を受け祈ったイザヤは、神様の語りかけを受け、ヒゼキヤ王に「あなたがアッシリヤの王セナケリブについて、わたしに祈ったことを、わたしは聞いた。…あなたはだれをそしり、ののしったのか。だれに向かって声をあげ、高慢な目を上げたのか。イスラエルの聖なる方に対してだ。…あなたは聞かなかったのか。昔から、それをわたしがなし、大昔から、それをわたしが計画し、今、それを果たしたことを。…あなたがわたしに向かっていきりたち、あなたの高ぶりが、わたしの耳に届いたので、あなたの鼻には鉤輪を、あなたの口にはくつわをはめ、あなたを、もと来た道に引き戻そう」と伝えます。

 

私たちはもう神様の前に息巻くのをやめよう。私たちはむしろ神様に祈る者であろうではありませんか。神様は祈りを聞いておられる、全てをご存じです。聖なる神様、あなたのためならと、御子イエス様を人となって生まれさせて下さり、私たちのどん底にまで来られ、その間に住まい、同じ重荷を背負われ、歩んで下さった、しかもその私たちの重荷、何より罪を一切を背負われ、十字架にかけられたのです。そして死なれ、陰府に降ってまであなたを引き上げようとされた、そして3日目によみがえられたのです。このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪は赦され、今や神様の子、聖なる神様の家族として受け入れられるのです。その特権に与らせていただけるのです。

 

ここまでされた、愛されぬかれた神様が、あなたの内に持っておられる計画はいかばかりか。私たちはもう古い自分に引き返してはいけない。あなたの内に御子イエス様の命を持ってまで愛しぬかれた神様の愛が、霊が住まわれ、新しい命を与えて下さったのです。あなたを死の縄、サタンの手から取り戻された今、何を恐れる必要が今あるでしょう。今日私たちは神様の御前にへりくだり、全てを明け渡し、この神様の御心のままに今日も明日も、世の終わりまで歩ませていただこうではありませんか。ここまで愛しぬかれたイエス様が今日もあなたから離れず歩まれるから。