―ゆるぎない信頼関係― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「エルヤキムとシェブナとヨアフとは、ラブ・シャケに言った。『どうかしもべたちには、アラム語で話してください。われわれはアラム語がわかりますから。城壁の上にいる民の聞いている所では、われわれにユダのことばで話さないでください。』すると、ラブ・シャケは言った。『私の主君がこれらのことを告げに私を遣わされたのは、おまえの主君や、おまえのためだろうか。むしろ、城壁の上にすわっている者たちのためではないか。彼らはおまえたちといっしょに、自分の糞を食らい、自分の尿を飲むようになるのだ。』こうして、ラブ・シャケはつっ立って、ユダのことばで大声に呼ばわって、言った。『大王、アッシリヤの王のことばを聞け。王はこう言われる。ヒゼキヤにごまかされるな。あれはおまえたちを救い出すことはできない。ヒゼキヤが、主は必ずわれわれを救い出してくださる、この町は決してアッシリヤの王の手に渡されることはない、と言って、おまえたちに主を信頼させようとするが、そうはさせない。ヒゼキヤの言うことを聞くな。アッシリヤの王はこう言っておられるからだ。私と和を結び、私に降参せよ。そうすれば、おまえたちはみな、自分のぶどうと自分のいちじくを食べ、また、自分の井戸の水を飲めるのだ。その後、私が来て、おまえたちの国と同じような国におまえたちを連れて行こう。そこは穀物とぶどう酒の地、パンとぶどう畑の地である。おまえたちは、ヒゼキヤが、主がわれわれを救い出してくださると言っているのに、そそのかされないようにせよ。国々の神々が、だれか、自分の国をアッシリヤの王の手から救い出しただろうか。ハマテやアルパデの神々は今、どこにいるのか。セファルワイムの神々はどこにいるのか。彼らはサマリヤを私の手から救い出したか。これらの国々のすべての神々のうち、だれが自分たちの国を私の手から救い出しただろうか。主がエルサレムを私の手から救い出すとでもいうのか。』しかし人々は黙っており、彼に一言も答えなかった。『彼に答えるな』というのが、王の命令だったからである。ヒルキヤの子である宮内長官エルヤキム、書記シェブナ、アサフの子である参議ヨアフは、自分たちの衣を裂いてヒゼキヤのもとに行き、ラブ・シャケのことばを告げた。」

イザヤ書36章11-22節

 

一致、これはとても大事な事です。何かあった時に一緒にまとまれることは力強いからです。自分の力で何とか乗り切る、は限界があります。では誰と乗り切るのか?乗り越えて終わりなのか?神様はあなたを取り戻すためなら御子イエス様の命さえ惜しまなかった。その神様はあなたと共におられる、どんな時もあなたを命の道に導こうと語られます。たとえ世の中が、どうせ無理だ、神など信じて何になる?と言われようとも、私たちはあなたのためにゆるぎない愛を注がれた、注がれる神様に今日も信頼し、歩もうではありませんか。あなたのためにならと命を惜しまなかったイエス様が今日もあなたと共におられるから。

 

さて、↑は、時はヒゼキヤ王の第十四年、紀元前701年の出来事になります。「アッシリヤの王セナケリブが、ユダのすべての城壁のある町々を攻めて、これを取った。アッシリヤの王は、ラブ・シャケに大軍をつけて、ラキシュからエルサレムに、ヒゼキヤ王のところへ送った」時の出来事です。実は、今攻めてきているアッシリヤの王セナケリブの膝元にあるバビロンとエラムが反乱を起こし、これに手こずっている事を知ったヒゼキヤが、今が反撃のチャンス、と反アッシリア同盟に加わり、エジプトのティルハルカに援軍を頼むのでした。そこで、セナケリブがユダに攻め入り、自分はラキシュにとどまり、部下のラブ・シャケに大軍をつけてエルサレムを包囲させるのでした。これまで神様により頼んでいたのに、いざ肝心の時に神様に頼らず、かえって苦しむことになるのでした。エルサレム包囲によって。

 

しかし、南ユダの民はアッシリヤが兄弟国である北イスラエルを陥落させたこと、また周辺国に対して行ってきた非道の数々をしっていたので、こんなことを聴いたらさすがに意気消沈してしまう、そのことを恐れた長老たちは、ラブ・シャケにユダの言葉ではなく、アッシリヤの使うアラム語で話してほしい、と訴えます。ちなみにある先生によりますと、アラム語と、ユダの言葉ヘブル語との間では、江戸弁と薩摩弁くらい違うそうです。

 

しかしラブ・シャケはそんなことは知ったことではない、と続けて「私の主君がこれらのことを告げに私を遣わされたのは、おまえの主君や、おまえのためだろうか。むしろ、城壁の上にすわっている者たちのためではないか。彼らはおまえたちといっしょに、自分の糞を食らい、自分の尿を飲むようになるのだ。…大王、アッシリヤの王のことばを聞け。王はこう言われる。ヒゼキヤにごまかされるな。あれはおまえたちを救い出すことはできない。ヒゼキヤが、主は必ずわれわれを救い出してくださる、この町は決してアッシリヤの王の手に渡されることはない、と言って、おまえたちに主を信頼させようとするが、そうはさせない。ヒゼキヤの言うことを聞くな。アッシリヤの王はこう言っておられるからだ。私と和を結び、私に降参せよ。そうすれば、おまえたちはみな、自分のぶどうと自分のいちじくを食べ、また、自分の井戸の水を飲めるのだ。その後、私が来て、おまえたちの国と同じような国におまえたちを連れて行こう。そこは穀物とぶどう酒の地、パンとぶどう畑の地である。おまえたちは、ヒゼキヤが、主がわれわれを救い出してくださると言っているのに、そそのかされないようにせよ。国々の神々が、だれか、自分の国をアッシリヤの王の手から救い出しただろうか。…主がエルサレムを私の手から救い出すとでもいうのか」と言います。

 

このまま糞尿を食べ、滅びの道に進むのか、それともアッシリヤと和を講じて(ようするに属国になり、あれこれ搾取されるが、守られる)、アッシリヤの庇護のもと食料はもとより、様々な恩恵を受けて生きるか(そのような脅しの下に恩恵もへったくれもないと思いますが)、そう語り掛けてくるのです。もう、究極の選択です。食べ物のたとえのように糞尿を食べるとか語られていますが、それはもう絶望以外の何ものでもないでしょう。いずれにしても生きる希望もないような状態です。どちらを選んでも。

 

私たちはここまでの絶望的な状況に囲まれることはなくとも、それに近い状況はあるかもしれません。そしてどっちに従うの?と究極の選択を迫られる場面もあるかもしれません。かし、先ほどアラム語とヘブル語には大きな違いがある事を見ましたが、同じように、世の語る甘い誘惑・また支配しようとする語り掛けと、神様の語りかけることばは違うのです。

 

ラブ・シャケは「私と和を結び、私に降参せよ。そうすれば、おまえたちはみな、自分のぶどうと自分のいちじくを食べ、また、自分の井戸の水を飲めるのだ。その後、私が来て、おまえたちの国と同じような国におまえたちを連れて行こう。そこは穀物とぶどう酒の地、パンとぶどう畑の地である」と言っていますが、彼は脅迫からくる降参によって支配しようとしていることが目に見えていますよね。目に見える食料は与える、しかし絶対服従だよ、と言われて、そこにどんな自由が、いのちがあるというのですか。

 

エデンの園での出来事を思い出してください。サタンは神様が食べてはならないと言っていた園の中央にある木の実を食べさせるため、神様から引き離すため、エヴァに、「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです」と、さも神様はよいものを与えない、何もしない、自分のようになるのが嫌なだけ、と誘惑した、その結果どうなりましたか。神様が園全体、またアダムとエヴァの内に吹き込まれた霊を失い、死が入ってきたではありませんか。

 

確かに一見するとよいものは世の中に多くあります。しかし、果たして神様は何もしてくださらない方なのか。いえ、そんなことはありません。むしろ神様はエデンの園に全ての必要を備え、食べ物、そして神様の命の川が溢れ流れ、土地、私たちを満たしていたように、すべてのよきものを神様は十分備えてくださっているのです。ただ、それは自分の望むものではない、と私たちが勝手に考えるだけで、私たちを造られた神様はすべてを備え、全を備え、全を行われる方なのです。

 

悪魔と和を講じなければ、世と和を講じなければ生きていけない、あれをしなければ生きていけない、これをしなければ生きていけない、仕方ないじゃないか、と私たちの周りにはラブ・シャケが脅迫しているところまでいかなくとも、そのような脅迫概念に囲まれています。かし、神様からすべてのよきものが与えられることを私たちは忘れてはいけないのです。

 

むしろ救い主イエス様は、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」と宣言されました。イエス様のもとにくれば、イエス様が私たちの心の奥底、腹の底、胎から、いのちの皮を溢れ流れさせてくださる、と宣言してくださった、あのエデンの園を私たちの内に回復させてくださる、そして、あの最初の時のように、御霊様、聖霊様で私たちを本当の意味で生きたものにしてくださる、と約束されました。

 

また、「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。…わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです」と、イエス様にあって結ばれる関係は、一時的なものではなく、神様の御心がなること、永遠の命へつながっている、招かれていることを語られているのです。

 

イエス様は、私たちが神様と和解、ある意味では和を講じさせていただくために、なんと私たちが支払うべき罪を身代わりに背負われ、十字架にかかられ、罰せられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪は赦され、まさに神様と和解、和を講じさせていただけるのです。その中に、先ほど引用させていただきましたイエス様の約束が成就する、新しい命、永遠の命が与えられるのです。古いものではない、イエス様の命にあって与えられるものです。その中に神様の善、御心があなたを養い導かれるのです。イエス様の命にあって与えられる命のパン一つ一つがあなたを生かすのです。

 

時に確かに私たちには、神様、どうして何もしてくれないの?応えてくれないの?と思う時があるかもしれません。しかしあなたのために神様はイエス様の命を惜しまず与えてくださったほどに愛されているのです。ヒゼキヤはラブシャケの脅迫に「答えるな」と言っていましたが、それは神様を黙って待ち望む、神様がゆるぎない愛を注がれるから待ち望もう、と語りかけていた、それと同じように、私たちはイエス様にあってゆるぎない関係へと招かれたのです。ですから私たちはこのイエス様の十字架にあってゆるぎない関係に結ばれたことを改めて覚え、神様が今もあなたの内に住まわれ働かれていること、神様の時を、善を待とうではありませんか。神様が今日もあなたの飢え渇くことのない恵みのパンを、あなたに備え、養い導いて下さるから。