―喜び踊ろう!:花が咲き川が流れ― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。盛んに花を咲かせ、喜び喜んで歌う。レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光をこれに賜わるので、彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見る。弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。心騒ぐ者たちに言え。『強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。』そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。焼けた地は沢となり潤いのない地は水のわく所となり、ジャッカルの伏したねぐらは、葦やパピルスの茂みとなる。そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、贖われた者たちのもの。旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない。そこには獅子もおらず、猛獣もそこに上って来ず、そこで出会うこともない。ただ、贖われた者たちがそこを歩む。主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る。」

イザヤ書35章1-10節

 

自然を見ていると本当にすごいですよね。環境破壊は確かに進んでいるのですが、そもそもの自然の美しさと言いますか、その仕組み、法則、ハーモニー、何をとっても完璧です。まあそこで引っかかるのは環境破壊とかですが。ただ、この自然をすべて、そして私たち人間、これらすべてを造られたのは神様で、神様は放置せず、すべ保持してくださっているのです。私たちは自分の力で生きることはできません。神様がこの心臓を動かし、生かしてくださっているから今日があるのです。この天地万物を治めている神様が、あなたを今日その御手をもって守り導かれている、神様の御もとに。私たちは今日、この神様の愛を受け取り、このうちに生かされ歩ませていただこうではありませんか。

 

さて、↑は古代イスラエル王国分裂後、北イスラエル王国がアッシリヤによって滅ぼされ、南ユダはアハズ王が死んで後、ヒゼキヤ王の治世に入る、そのころに預言者イザヤを通して語られたことばになります。ここまでは、神様は私たちの内に神様にある完全なご統治、いのちある御国を広げてくださること、何より私たちの内にある問題と麗しの王たる神様が共に戦ってくださり、これに勝ち得てくださり、ついには真の平安をもたらしてくださることに続き、再び終わりの時の裁き、サタンへの勝利と、イエス様による御国の回復についてみました。

 

続けて↑で、神様はなおイザヤを通して「荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。盛んに花を咲かせ、喜び喜んで歌う。レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光をこれに賜わるので、彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見る」終わりの時の回復について語られながら啓示されます。

 

すごいですね、荒野と砂漠というと、あまり環境的にいいイメージがわきませんが、そうした地が楽しみ喜び、花を咲かせ、喜び喜んで歌う、なんて。荒野や砂漠を考えると、一切植物が育たない乾いた地じゃないですか。イスラエルの民も、出エジプトから約束の地への旅路において、食べるものが無いからこそ、神様は毎日与え、彼らを養い、のどを潤すために神様は随所随所で飲み水を与えておられたじゃありませんか。それほどに厳しい旅路において、モーセはその旅路を終えようとしていた時、「四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった」というほどに守られたことを語っています。

 

それは、まさに神様が彼らと共にいたからこそ、神様が彼らを守られたからこそなったことなのです。常識的に考えて、そんな荒れ地やら砂漠を40年も旅して、戦いもあれば四十年もの間、着物はすり切れず、足は、はれなかった、なんてことはあり得ない。まさに神様が彼らの心も体も、一切を満たしてくださっていた。まさに、神様がそこにおられるからこそ、その地は命に満ちる、荒野も砂漠も、神様の楽しみに満ち溢れ、私たちは喜び歌うほどになるのです。

 

実はこの出エジプトの旅を思い返しますと、出エジプトの前は、イスラエルの民はエジプトの奴隷としてとらえられていた、ある意味で暗闇、サタンの支配下に置かれたどん底の状態でした。自由も奪われ、生与奪権を支配者のファラオが持ち、理不尽もまかり通るとんでもない状態でした。しかし、神様はそんな彼らの内に救いの御手を伸ばされ、エジプトから救い出された、そのどん底状態から救い出されたのです。そしてこの世の旅路、様々な問題を通りますがその中にも神様はその御手を伸ばされ、多くの御業を彼らの内に現しながら、約束の地、完全な神様の治める地へと導かれた、まさに完全なる回復への旅路だったと言えるのではないでしょうか。

 

途中彼らは神様を捨て、自分勝手に進もうとした、その人たちは旅の途中で命を失います。しかし、それでも神様は多くの民を約束の地に招き入れてくださった、そう考えますと、神様がおられるところにこそ命があり、神様はそこに私たちを招かれ、一時的なものではない、完全な神様の愛の内に、御国へと招きたいのです。私たちが天国に行ったら素晴らしいところが待っているから、それまでは我慢していなさい、と神様は言いたいのではない、私たちの内に神様が住まわれるところから、回復は始まっていくのです。やがて来る千年王国、完全なる御国に向けて神様との旅路は始まっているのです。

 

ただ、何度も申し上げますが、そこに神様がいるから回復があるのです。どうして?だってそうでしょう?この天地万物を造られたのは誰ですか?この天地万物を造られたのは、あなたを造られたのはほかでもない、神様です。造り主なる神様だからこそ、あなたを本当の意味で回復させることができるのではないでしょうか。あのエデンの園のように。

 

もっと深堀すると、神様が造られた天地万物、人間を見られた時、神様は「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった」と仰られたのです。まさにそれは完璧、その完璧なところに神様は人を住まわせてくださったのです。そこはエデンの園。そのエデンの園の様子はここ何回か分かち合わせていただきましたが、「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。神である主は東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた」と記されています。

 

一方で神様は罪を犯したアダムとエヴァ、自分の方が神様より優れている、とエデンの園、神様の完璧な供えられた場所、ある意味では御国、そこの主たる神様を自分たちを満足させない存在としてしまった結果、彼らはエデンの園を追放される形となるのですが、その際、サタン、エヴァに罪の宣告をされた後、アダムに「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない」宣言されました。

 

彼らは、エデンの園を単純に追い出されるのではない、本来神様が彼らの内に吹き込まれた命を失い、また神様がすべてを満たし癒される、その川を、恵みそのものを失ってしまい、その土地もまた失われてしまった。神様がすべてを備えてくださっていたのに、それは自分の望むものではない、と神様の愛を排除してしまった、結果としてエデンの園の追放、土地の呪いが起こってしまったのです。

 

しかし、先ほどエデンの園の様子にふれましたが、本来エデンの園は、その中心、神様からその御手が伸ばされ、四方八方へと命が溢れ流れて園を潤し、その霊が人に吹き込まれ、人は生きたものとなっていた、また出エジプトにおいて神様がいるところに水やパン、いのちが溢れていた、そういう意味で神様なしの回復はありえないのですその神様がこのエデンの園の回復、完全なる御国の回復の時が来る、と語られているのです。造り主なる神様が、全地を回復させてくださるのです。あなたも含めて。

 

神様は続けて「弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。心騒ぐ者たちに言え。『強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。』そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ…」と語られますが、まさにエデンの園を潤していた神様のご意思があらゆるところに広がり、その命で満たされる、と語られるのです。

 

そこには、私たちがあるべき姿、完全な体へと回復されるのです。もちろん、救われても見えないままの方、耳の聞こえないままの方がいるのは重々承知です。しかし、神様はそれでも私たちに驚くべき神様の御業を見せ、心に語られる、神様との関係が和解されたところに、神様はその扉を開かれるのです。そして死後には、後にくる御国では完全な姿に回復される。神様の霊が私たちの内にあるからこそ、霊の目が開かれ、耳が開かれ、喜びに満ち、困難な道のり、砂漠、荒れ地にあってもしっかりと立つことができるのです。あなたを造られた神様だからこそ、あなたを知っておられる、そのあなたに生きてほしい、と招かれているのです。中途半端なものではない、完全な回復を神様は約束、宣言を今されているのです。

 

私たちの人生様々な問題が、荒波が襲ってくることがあります。しかし、この旅は御子イエス様があなたをその完全な御国へと共に導いて下さっていることを忘れてはいけません。神様は↑の最後で「そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、贖われた者たちのもの。…ただ、贖われた者たちがそこを歩む。主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る」と語られましたが、私たちの罪を贖う、神様から離れ好き勝手に生きてきた私たちを、通れないのではなくともに御国へと進むため、私たちのこの罪を身代わりにイエス様は背負われ、十字架にかかられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪は赦され、神様の子とされ、イエス様にあって新しくされたこの命の道をイエス様と共に進ませていただける、イエス様が共にいる、本来あるべきいのちの道をイエス様が導き進ませてくださるのです。そこには涙も痛みも過ぎ去り、イエス様の命にあって与えられた喜びがあふれるのです。

 

今日私たちはこのイエス様の命にあって開かれた、聖なる道を歩ませていただこうではありませんか。そこに命をかけられたイエス様がおられるから。イエス様の命にあって回復させていただいたこの道、いのちにあなたは今日、何を期待しますか?神様があなたを回復させ、その霊で、あの完璧なエデンの園、御国へと導かれる、それを治めるイエス様があなたと共に今日いてくださる喜びにあふれ、イエス様から離れず、2024年も歩もうではありませんか。