―ああ麗しの…― | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「『今、わたしは立ち上がる』と主は仰せられる。『今、わたしは自分を高め、今、あがめられるようにしよう。あなたがたは枯れ草をはらみ、わらを産む。あなたがたの息は、あなたがたを食い尽くす火だ。国々の民は焼かれて石灰となり、刈り取られて火をつけられるいばらとなる。遠くの者よ。わたしのしたことを聞け。近くの者よ。わたしの力を知れ。』罪人たちはシオンでわななき、神を敬わない者は恐怖に取りつかれる。『私たちのうち、だれが焼き尽くす火に耐えられよう。私たちのうち、だれがとこしえに燃える炉に耐えられよう。』正義を行なう者、まっすぐに語る者、強奪による利得を退ける者、手を振ってわいろを取らない者、耳を閉じて血なまぐさいことを聞かない者、目を閉じて悪いことを見ない者、このような人は、高い所に住み、そのとりでは岩の上の要害である。彼のパンは与えられ、その水は確保される。あなたの目は、麗しい王を見、遠く広がった国を見る。あなたの心は、恐ろしかった事どもを思い起こす。『数えた者はどこへ行ったのか。測った者はどこへ行ったのか。やぐらを数えた者はどこへ行ったのか。』あなたは、もう横柄な民を見ない。この民のことばはわかりにくく、その舌はどもって、わけがわからない。私たちの祝祭の都、シオンを見よ。あなたの目は、安らかな住まい、取り払われることのない天幕、エルサレムを見る。その鉄のくいはとこしえに抜かれず、その綱は一つも切られない。しかも、そこには威厳のある主が私たちとともにおられる。そこには多くの川があり、広々とした川がある。櫓をこぐ船もそこを通わず、大船もそこを通らない。まことに、主は私たちをさばく方、主は私たちの立法者、主は私たちの王、この方が私たちを救われる。あなたの帆の綱は解け、帆柱の基は、結びつけることができず、帆は、張ることもできない。そのとき、おびただしい分捕り物や獲物は分け取られ、足のなえた者も獲物をかすめる。そこに住む者は、だれも『私は病気だ』とは言わず、そこに住む民の罪は赦される。」

イザヤ書33章10-24節

 

よく、理想の〇〇は?とTV等で取り上げられることがありますね。理想の上司、理想のパートナー、様々。ただ、回答は様々ですよね。それは自分の求めているものに答えてくれるだろう人は、それぞれ違うからです。ランキング化されていても、ある意味で順位には関係なく、そのような人が求められているわけです。ただ、自分の理想を描いているだけで、それはいつまでも続くものではありません。仕事でもそうでしょうね、そして生きるため、と妥協していく。同じように人は自分の思うようになる神様像を描き、その思い通りにならないと神様などいない、と離れる。でも神様は私たちの思い描く枠程度の方なのでしょうか。むしろ神様は私たちの思いをはるかに超えた愛をもって私たちを養い、導かれます。あなたのためなら御子イエス様の命さえ惜しまず与えられる神様が最善の計画をもってあなたを待っています。あなたは今日神様に何を願いますか。

 

さて、↑は古代イスラエル王国分裂後、北イスラエル王国がアッシリヤによって滅ぼされ、南ユダはアハズ王が死んで後、ヒゼキヤ王の治世に入る、そのころに預言者イザヤを通して語られたことばになります。イザヤに神様が啓示された終わりの時のメッセージに続き、再びイスラエルについて神様は語られます。ここまでは、神様は私たちの内に神様にある完全なご統治、いのちある御国を広げてくださること、何より私たちの内にある問題と神様も戦ってくださり、これに勝ち得てくださり、ついには真の平安をもたらしてくださることなどをみました。

 

なお神様はイザヤを通して続けて「『今、わたしは立ち上がる』と主は仰せられる。『今、わたしは自分を高め、今、あがめられるようにしよう。あなたがたは枯れ草をはらみ、わらを産む。あなたがたの息は、あなたがたを食い尽くす火だ。国々の民は焼かれて石灰となり、刈り取られて火をつけられるいばらとなる。遠くの者よ。わたしのしたことを聞け。近くの者よ。わたしの力を知れ。』罪人たちはシオンでわななき、神を敬わない者は恐怖に取りつかれる。『私たちのうち、だれが焼き尽くす火に耐えられよう。私たちのうち、だれがとこしえに燃える炉に耐えられよう。』…」と預言されます。

 

私たちは神様は何もしない神様、と勝手に思いがちですが、神様は「立ち上が」ってくださる神様なんです。座してなにもされない神様ではない、私たちが暗闇の中をさまよっている時、黙ってみている方ではないのです。神様は遠くのものから近くのものに至るまでその御業を、御力を現して下さるのです。神様の御手が届かないところはありません。遠くの問題、近くの問題にかかわらず、神様はそこをもう一度洗い聖めて、新しくしてくださるのです。あなたを苦しめる様々な問題、痛み、悲しみ、私たちが孤独と感じ何かに依存せざるを得ない、そのような心の問題一切を含め、神様はこれらと戦ってくださるのです。

 

↑の「罪人たちはシオンでわななき、神を敬わない者は恐怖に取りつかれる。『私たちのうち、だれが焼き尽くす火に耐えられよう。私たちのうち、だれがとこしえに燃える炉に耐えられよう。』」という部分を見るとある意味で本当に恐怖に取りつかれるかもしれません。しかし、イエス様の上に神様はその怒りを注ぎ、十字架でその私たちへの怒りを取り除かれた、この十字架によって私たちは、悔い改める時、一新される。火は精錬する働きもありますよね。神様は、たださばいて終わり、とされるのでしたらとっくにすることはできています。しかし、私たちを造られた神様は、何とかあなたに生きてほしいと願っておられるのです。だから、神様は私たちを火によって精錬し、あるべき姿へと回復させてくださるのです。古く私たちの内に根を張る様々者が焼き尽くされ、もう一度回復させていただける、何と感謝な事でしょう。

 

私たちは神様に自分の理想像を押し付け、自分の内側に気づかず神様から離れてしまいますが、私たちは神様を矮小化していませんか?もしくは侮っていませんか?神様は愛だから、と何をしても大丈夫、と考えていませんか?もちろんすべての人がそうではないことは分かっていますが、私たちはもっと神様の偉大なるご計画がなることを、御心が我がうちになることを祈ろうではありませんか。神様はあなたのために立ち上がってくださる、その神様を正しく恐れ、喜びにあふれる者へと回復させていただけるよう願いたいものです。

 

なお神様は続けてイザヤを通して、「あなたの目は、麗しい王を見、遠く広がった国を見る」と語られます。偶然見る、というレベルものではなく、むしろ神様が見せてくださるのです。神様は麗しい王として、その王国と言いますか、御国、神様ご自身の内に招かれるのです。そこは「神様の御国が」遠くに至るまで広がっている、その御手によって完全に治められた、麗しい王国となっているのです、わかりやすく言うと天国、という表現なら分かりやすいかもしれませんね。これは、もっというと後にくる完全な御国、千年王国というのですが、その約束をここでされているのです。

 

でも、それはずっと先の話で今の私たちに何の関係が?と思う方もいるかもしれません。しかし、死んだら完全な御国が来るからそれまで我慢、ではなく神様は今も私たちの内に御国を広げてくださっているのです。「遠く広がった国」を私たちが見させていただけることを神様は語られていますが、まさにそこに向けて神様は広げてくださっているのです。終わりの時を含めて、確かに今の時代様々な艱難はあるでしょう。しかし神様はまだ御手を伸ばされ、立ち上がり、あなたのため、またあなたの遣わされているところの内に神様は御力を現して下さるのです。

 

神様は↑で「あなたの心は、恐ろしかった事どもを思い起こす。『数えた者はどこへ行ったのか。測った者はどこへ行ったのか。やぐらを数えた者はどこへ行ったのか。』あなたは、もう横柄な民を見ない。この民のことばはわかりにくく、その舌はどもって、わけがわからない。私たちの祝祭の都、シオンを見よ。あなたの目は、安らかな住まい、取り払われることのない天幕、エルサレムを見る。その鉄のくいはとこしえに抜かれず、その綱は一つも切られない。しかも、そこには威厳のある主が私たちとともにおられる。そこには多くの川があり、広々とした川がある。櫓をこぐ船もそこを通わず、大船もそこを通らない」と語られていますが、思い起こすこと、見るべきことは、今イスラエルの民の、私たちの目の前の問題ではなく、「麗しの王」を、「祝祭の都シオン(正確にはイエス様、もっというならイエス様が広げられる、完成させてくださる御国)」を、「威厳のある王」を見るように、と仰られるのです。神様は、見せてくださる、その恵みを思い起こさせてくださる方なのです。ただ自分の利権をほしいままにするこの世の権力者、あなたの上に立つ者とは違う、神様は遜られあなたのために愛を注がれるのです。

 

確かにあなたのまわりにはいろんな問題が、このご時世あるでしょう。あなたの上に立つ人は時には様々な理不尽をもたらす人かもしれません。しかし、神様はそれらを覆される方、本当にあなたの上にある意味で立ち、あなたを支えてくださるのは神様です。だからこそ、この神様を私たちは仰ぎ見ようではありませんか。神様はあなたの内に、またあなたの置かれている場所、遣わされている場所のうちに、麗しの国、神様の完全なる愛によるご統治が成されるその御国を広げてくださる、だからこそ私たちは神様を待ち望もうではありませんか。

 

神様は麗しの王として麗しいことをなして下さります。↑で神様は「まことに、主は私たちをさばく方、主は私たちの立法者、主は私たちの王、この方が私たちを救われる。あなたの帆の綱は解け、帆柱の基は、結びつけることができず、帆は、張ることもできない。そのとき、おびただしい分捕り物や獲物は分け取られ、足のなえた者も獲物をかすめる。そこに住む者は、だれも『私は病気だ』とは言わず、そこに住む民の罪は赦される」と語られていますが、神様は救われる方なのです、あなたを。

 

あなたの内にある思い煩い、痛み、悲しみ、あなたを支配する様々なものから解き放ち、自由にするため、何より罪を取り除き神様があなたの内にイメージされていたあるべきあなたの姿へと回復させるため、神様は麗しいことを、麗しい愛を現して下さりました。そう、イエス様に私たちの罪を身代わりに背負わせ、十字架にかけられ、死なせたのです。私たちが滅びることよりもイエス様が死なれ、私たちが生きること、それを願われ、このありえないほどの麗しい愛を実行されたのです。そして3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返る全ての人の罪をまさに赦され、神様の子として回復される、古い痛みも、傷も、すべては覆いつくされる、新しくされるのです。

 

私たちはイエス様にあって、同じ復活の恵みに与り、すべて古いものは過ぎ去り、神様が新しくしてくださるのです。あなたのために御子イエス様の命さえ惜しまなかったイエス様が、あなたを導かれる。世の終わりまで。やがて来る完全な王国、御国に向けて神様は今日もあなたと共におられるのです。イエス様が十字架の裁きを身代わりに引き受け、この火をもって私たちが精錬されたその先にあなたに注がれる恵み、広げられた、広げられていく現わされる御心、ご計画を私たちは待ち望もうではありませんか。あなたの救い主イエス様は今日もあなたの主、救い主としてあなたを養い、導かれるから。