―今こそ立ち上がられる方にへりくだろう― | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「ああ。自分は踏みにじられなかったのに、人を踏みにじり、自分は裏切られなかったのに、人を裏切るあなたは。あなたが踏みにじることを終えるとき、あなたは踏みにじられ、あなたが裏切りをやめるとき、あなたは裏切られる。主よ。私たちをあわれんでください。私たちはあなたを待ち望みます。朝ごとに、私たちの腕となり、苦難の時の私たちの救いとなってください。騒ぎの声に国々の民は逃げ、あなたが立ち上がると、国は散らされます。あなたがたの分捕り物は、油虫が物を集めるように集められ、いなごの群れが飛びつくように飛びつかれる。主はいと高き方で、高い所に住み、シオンを公正と正義で満たされる。あなたの時代は堅く立つ。知恵と知識とが、救いの富である。主を恐れることが、その財宝である。見よ。彼らの勇士はちまたで叫び、平和の使者たちは激しく泣く。大路は荒れ果て、道行く者はとだえ、契約は破られ、町々は捨てられ、人は顧みられない。国は喪に服し、しおれ、レバノンははずかしめを受けて、しなび、シャロンは荒地のようになり、バシャンもカルメルも葉を振り落とす。『今、わたしは立ち上がる』と主は仰せられる。『今、わたしは自分を高め、今、あがめられるようにしよう。あなたがたは枯れ草をはらみ、わらを産む。あなたがたの息は、あなたがたを食い尽くす火だ。国々の民は焼かれて石灰となり、刈り取られて火をつけられるいばらとなる。遠くの者よ。わたしのしたことを聞け。近くの者よ。わたしの力を知れ。』罪人たちはシオンでわななき、神を敬わない者は恐怖に取りつかれる。『私たちのうち、だれが焼き尽くす火に耐えられよう。私たちのうち、だれがとこしえに燃える炉に耐えられよう。』正義を行なう者、まっすぐに語る者、強奪による利得を退ける者、手を振ってわいろを取らない者、耳を閉じて血なまぐさいことを聞かない者、目を閉じて悪いことを見ない者、このような人は、高い所に住み、そのとりでは岩の上の要害である。彼のパンは与えられ、その水は確保される。」

イザヤ書33章1-16節

 

人はそれぞれ様々な道を通ります。つらい中を長い間通られてきた方もいれば、なかなか抜け出せずに苦しんでいる人もいるでしょう。またはそんなことはない、と生きている方もいます。ただ、私たちが平穏無事に生きていられるのは、神様が支えて腐っているからであり、それは感謝しなければいけません。またつらい中にあっても神様はあなたを背負い共に歩み、脱出の道へと一緒に導いて下さる、だから私たちは最後まで神様から離れず歩みたいものです。

 

さて、↑は古代イスラエル王国分裂後、北イスラエル王国がアッシリヤによって滅ぼされ、南ユダはアハズ王が死んで後、ヒゼキヤ王の治世に入る、そのころに預言者イザヤを通して語られたことばになります。イザヤに神様が啓示された終わりの時のメッセージに続き、再びイスラエルについて神様は語られます。昨日の分かち合いでは、神様は私たちの内に神様にある完全なご統治、いのちある御国を広げてくださることなどを見てきました。そしてここ33章ではもっとも重要な出来事としての災い、そして真の救いについて預言されていきます。

 

神様はここで「ああ。自分は踏みにじられなかったのに、人を踏みにじり、自分は裏切られなかったのに、人を裏切るあなたは。あなたが踏みにじることを終えるとき、あなたは踏みにじられ、あなたが裏切りをやめるとき、あなたは裏切られる」と語られます。ここで語られているのはアッシリヤの敗北、滅亡についてになります。踏みにじる、裏切る、とありますが、いったい何があったのか、また後の章で詳しい話が出てきますが、アッシリヤの王セナケリブ王は、南ユダに侵入して、ユダの城壁の町々を次々と占拠した紀元前701年に、南ユダの王ヒゼキヤはこのことに驚き、エルサレムをなんとか守ろうと、アッシリヤ王セナケリブが求めるどんな要求も呑む代わりにエルサレムから引き上げてほしいと協定を結びました。ヒゼキヤはセナケリブの求めるままに貢物である金銀を渡しました。

 

ところが、このセナケリブはその貢物を受け取ったにもかかわらず、ヒゼキヤとの約束を破り、裏切り、なんとエルサレムを包囲して脅しをかけるのです。しかしここで神様が立ち上がり、神様の介入によって、アッシリヤのセナケリブはエルサレム攻略に失敗し、自国に戻ったところ、二人の息子によって暗殺されるという、身内からの裏切りによって結局滅びることになるのでした。ある意味栄華を極めていたはずの彼はあっさりと討ち死にするのです。とりあえずここにアッシリヤとの戦いをまとめた地図を残しておきますね。

 

 

そこで↑にあるとおり、南ユダの民はこの苦境下にあって神様に「主よ。私たちをあわれんでください。私たちはあなたを待ち望みます。朝ごとに、私たちの腕となり、苦難の時の私たちの救いとなってください。騒ぎの声に国々の民は逃げ、あなたが立ち上がると、国は散らされます。あなたがたの分捕り物は、油虫が物を集めるように集められ、いなごの群れが飛びつくように飛びつかれる」と祈ります。

 

この祈りはすごいですよね。どうにもならない状況になった時、私たちは現実を見て、今神様神様と言っている場合じゃない、と時に祈ることをやめ、むしろ神様をさげすむような言葉を発することさえあります。しかし、そんな時でも神様は私たちの叫びを、祈りを聞いてくださっている、そのことを信じ祈れる人はなんと幸いでしょう。すぐに答えられなければ神様から離れてしまうような私たちですが、神様は現在進行形であなたを導かれるのです。羊を羊飼いが24時間世話をするように、外敵から守るように、神様は私たちを守られるのです。

 

ですから私たちは現在進行形で今も導いて下さっている神様を待ち望む、いえ、神様との時間を喜ぼうではありませんか。神様はその先、試練の先へと導きだしてくださるから、ご一緒に。それは朝毎に、また苦難の時にあっても変わりません。神様が立ち上がられる時、すべては変えられる、どんな軍隊、あなたの内を占める問題、敵、周りの苦境な状況もすべてを神様は変えてくださり、神様のご支配と言いますか、御心が満ち溢れるのです。

 

完全な愛、関係など神様以外にありません。ですから、私たちは生きていれば時に裏切られ、踏みにじられることもあるでしょう。終わりの時が近づけば、そのサタンのたくらみはもっとひどいものになります。ですから、私たちはそれらをひっくり返す、打ち砕いてくださる神様に信頼しようではありませんか。神様はなにもされず、座して眺めているだけの神様ではなく、立ち上がられる神様、行動に愛を移される神様です。神様はその愛を貫き通すためなら、御子イエス様の命さえ惜しまず私たちに与えるほど愛してくださる神様なのです。

 

ですから、私たちは神様の愛を受けているのですから、逆に神様を裏切る、踏みにじるようなものではなく、この立ち上がってくださる神様の前にへりくだるものでありたいものです。神様が聖め、また昨日の分かち合いでも見たように建て直される御国を待ち望もうではありませんか。そこに満ち溢れる神様の愛、御心を心から待ち望みその到来を祈りつつ。

 

なおイスラエルの民は、この神様の約束に呼応するように「主はいと高き方で、高い所に住み、シオンを公正と正義で満たされる。あなたの時代は堅く立つ。知恵と知識とが、救いの富である。主を恐れることが、その財宝である」と告白します。

 

あ、神様は存在が遠すぎて近寄りがたい、ということをここで仰っているわけではありません。むしろ神様は低く低く降ってこられた、私達と神様の埋めがたい距離を、御子イエス様が人となって生まれてこられ、十字架と復活によって、これを埋めてくださった、まさに神様からその愛によって近づいてくださったのです。むしろそのような他とは比べがたい、民、友、罪の中にいる私たちをそれでも見捨てないほどの驚くべき愛を持たれている神様が、私たちを構成ご盛儀をもって満たして降る、なして下さるのです。その神様がいらっしゃる、住まわれるからこそ、そこは盤石な、神様の命が、愛があなたを支えてくださるのです。

 

それはイスラエルの民のように現実を見れば、神様を求めることは難しくなることもあります。しかし、ここで民が告白しているように、「知恵と知識とが、救いの富…主を恐れることが、その財宝」なのです。ある詩人は聖書に「主を恐れることは、知恵の初め。これを行なう人はみな、良い明察を得る。主の誉れは永遠に堅く立つ」と詩い、書き残します。そう、「主を恐れること」それこそが財宝、他と比べることのできない神様の恵み、知恵と知識があなたの内に注がれ、導かれる。いや、もっというなら、本当の知恵、知識はイエス様そのものであり、このイエス様があなたを導かれるのです。

 

今南ユダの現状は「見よ。彼らの勇士はちまたで叫び、平和の使者たちは激しく泣く。大路は荒れ果て、道行く者はとだえ、契約は破られ、町々は捨てられ、人は顧みられない。国は喪に服し、しおれ、レバノンははずかしめを受けて、しなび、シャロンは荒地のようになり、バシャンもカルメルも葉を振り落とす」と神様が語られているように、アッシリヤに裏切られ、倒され、衰え果てていました。

 

しかし神様が立ち上がられ、戦われます。主が高き方であり、高き所におられるにふさわしく、全ての人が認めることができるようにするために立ち上がられる時が来て、復讐される時が来ます。私たちにはどうしようもないと思う中にあっても神様が復讐、戦ってくださるのです。↑で神様は「遠くの者よ。わたしのしたことを聞け。近くの者よ。わたしの力を知れ」と語られていますが、神様はたとえ私たちが神様を遠く離れているように感じても、実際は神様は近くにおられ、語られ、その御力を現して下さるのです。

 

だからこそ、私たちはこの神様の御声を聴こうではありませんか。神様を恐れる、その御前に全てを委ねようではありませんか。神様はそのような敵、問題の中にあっても、↑で神様が「高い所に住み、そのとりでは岩の上の要害である。彼のパンは与えられ、その水は確保される」と約束されているように、神様ご自身の内に私たちを招き、守られ、養われる、まさにいのちのパン、イエス様そのもの、イエス様のくださる永遠の命を私たちは味わわせていただけるのです。

 

あなたは今日、どれほどにイエス様を求めているでしょうか。イエス様はあなたを遠く離れた存在ではなく、身近な存在として、いえ、罪人としてではなく神様の子として招くために、私たちの罪を身代わりにその罰を背負われ、十字架にかかられ、死なれたのです。そして3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として受け入れられるのです。

 

なんと感謝な事でしょう。↑の約束は確かに御子イエス様にあって成就される、復活のイエス様ご自身があなたの内に住まわれ、この命がけの愛ゆえのご計画を、御心をあなたの内に現し、堅くたたせてくださるのです。イエス様の命にあって確保された命のパン、水を私たちはいただき歩ませていただこうではありませんか。あなたのために命さえ惜しまず与えてくださったイエス様がその御力を現し、御心をなし、私たちがそれを知る、味わえるほどに成されるから。あなたの身代わりに踏みにじられ、裏切られ、それでもあなたを愛することをやめなかった、あなたを救うため、見捨てるのではなく立ち上がり愛を実行されたイエス様のもとに遜り、そのイエス様が新しく建て上げてくださるこの命を喜び歩もうではありませんか。