―聖なる楽しみ、聖なる回復― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「のろくなれ。驚け。目を堅くつぶって見えなくなれ。彼らは酔うが、ぶどう酒によるのではない。ふらつくが、強い酒によるのではない。主が、あなたがたの上に深い眠りの霊を注ぎ、あなたがたの目、預言者たちを閉じ、あなたがたの頭、先見者たちをおおわれたから。そこで、あなたがたにとっては、すべての幻が、封じられた書物のことばのようになった。これを、読み書きのできる人に渡して、『どうぞ、これを読んでください』と言っても、『これは、封じられているから読めない』と言い、また、その書物を、読み書きのできない人に渡して、『どうぞ、これを読んでください』と言っても、『私は、読み書きができない』と答えよう。そこで主は仰せられた。『この民は口先で近づき、くちびるでわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことにすぎない。それゆえ、見よ、わたしはこの民に再び不思議なこと、驚き怪しむべきことをする。この民の知恵ある者の知恵は滅び、悟りある者の悟りは隠される。』ああ。主に自分のはかりごとを深く隠す者たち。彼らはやみの中で事を行ない、そして言う。『だれが、私たちを見ていよう。だれが、私たちを知っていよう』と。ああ、あなたがたは、物をさかさに考えている。陶器師を粘土と同じにみなしてよかろうか。造られた者が、それを造った者に、『彼は私を造らなかった』と言い、陶器が陶器師に、『彼はわからずやだ』と言えようか。もうしばらくすれば、確かに、レバノンは果樹園に変わり、果樹園は森とみなされるようになる。その日、耳の聞こえない者が書物のことばを聞き、目の見えない者の目が暗黒とやみから物を見る。へりくだる者は主によっていよいよ喜び、貧しい人はイスラエルの聖なる方によって楽しむ。横暴な者はいなくなり、あざける者は滅びてしまい、悪をしようとうかがう者はみな、断ち滅ぼされるからだ。彼らは、うわさ話で他人を罪に陥れ、城門でさばきをする者のあげあしを取り、正しい人を、むなしい理由でくつがえす。それゆえ、アブラハムを贖われた主は、ヤコブの家について、こう仰せられる。『今からは、ヤコブは恥を見ることがない。今からは、顔色を失うことがない。彼が自分の子らを見、自分たちの中で、わたしの手のわざを見るとき、彼らはわたしの名を聖とし、ヤコブの聖なる方を聖とし、イスラエルの神を恐れるからだ。心の迷っている者は悟りを得、つぶやく者もおしえを学ぶ。』」

イザヤ書29章9-24節

 

十人十色、ということばがよく使われますが、神様は本当に私たちを様々な形をもって作られましたね。そしてその一人一人を大切に思い、その恵みを注がれます。もちろんハンディを抱えている人もいるのは確かです。私の高祖父(ようするに祖父の祖父)は生まれながらに神童と呼ばれながら、途中生家が全焼、完全失明という悲しい出来事に見舞われましたが、もうどうにもならない高祖父を神様はそれでも憐れまれ、一人の伝道師を遣わし、彼に生きる喜びを与え、目は治らずとも彼は最後まで神様の喜びに包まれ生涯を閉じたと聞きました。神様は、私たちの内側を喜びで満たしてくださる、神様が私たちの楽しみであり、いのちなのです。今日私たちは悲しみゆえに何かに酔うのではなく、神様の喜びに満ち溢れ歩みたいものです。この命は、神様が与えてくださったものなのだから。

 

さて、↑は古代イスラエル王国分裂後、北イスラエル王国がアッシリヤによって滅ぼされ、南ユダはアハズ王が死んで後、ヒゼキヤ王の治世に入る、そのころに預言者イザヤを通して語られたことばになります。イザヤに神様が啓示された終わりの時のメッセージに続き、再びイスラエルについて神様は語られます。↑の前では酔いどれのようにではなく、御霊に満たされること、また神様は純粋な愛、あなたが救われることを願い語られ、御子イエス様の命さえ惜しまなかった、私たちの内に朽ちることのない命の石を、礎を据えられたこと、その神様の愛の火は燃え続けていることを見ました。

 

神様はなおイザヤを通して「のろくなれ。驚け。目を堅くつぶって見えなくなれ。彼らは酔うが、ぶどう酒によるのではない。ふらつくが、強い酒によるのではない。主が、あなたがたの上に深い眠りの霊を注ぎ、あなたがたの目、預言者たちを閉じ、あなたがたの頭、先見者たちをおおわれたから」と語られます。ようするに、神様への不信ゆえ、彼らは神様ご自身がわからなくなっていたのです。

 

しかし神様は、これまでも見てきましたが私たちに本来は祭壇の火を灯し続け、今もなお恵みを注ぎ続けて下さっている、でもその神様の恵みがわからなくなってしまう事、それに対して私たちは危機感を持っているでしょうか。神様は私たちに恵みを注ぎ続けて下さっている、でもその恵みを恵みと気づかず、神様から離れていって私たちはどうして本当の喜びに満たされる事ができるでしょうか。

 

神様は、この状態についてさらに「そこで、あなたがたにとっては、すべての幻が、封じられた書物のことばのようになった。これを、読み書きのできる人に渡して、『どうぞ、これを読んでください』と言っても、『これは、封じられているから読めない』と言い、また、その書物を、読み書きのできない人に渡して、『どうぞ、これを読んでください』と言っても、『私は、読み書きができない』と答えよう」と仰ります。

 

これ、本当に危機的状況です。といいますのも、神様は神様から離れてしまった彼らを見捨てるのではなく、むしろそれでもと恵みの扉を開かれ、注がれようとしている、それなのに彼らにとって「封じられた書物のことば」のようになってしまっているのです。誰が封じているのですか?彼ら自身がこれは自分の理解とは違うからいらない、と自らその関係を封じてしまって何になるでしょう。読み書きのレベルの話ではないですよ?神様は私たちの心にその御言葉を刻み、また私たちの内を御霊様で、いのちで満たして下さる、聖霊様が直接私たちにこの喜びを刻んで下さるのに、これを封じて何になるでしょう。

 

神様はさらに続けて「この民は口先で近づき、くちびるでわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことにすぎない。それゆえ、見よ、わたしはこの民に再び不思議なこと、驚き怪しむべきことをする。この民の知恵ある者の知恵は滅び、悟りある者の悟りは隠される」と語られます。これ、本当に起こりえる話で、神様を求めている人に、飢え渇いている、暗闇の中にいる人に、私たちの手で神様はそんなものだ、と封をしてしまわないように気を付けたいものです。私たち自身がまず神様の喜びを握りしめなければいけません。私は神様を信じているけど、神様はこんなもんだ、と自分たちの知識、理解で神様を矮小化し、神様が私たちの内に刻まれている喜びを、恵みを分かち合わないでどうしますか。というよりも、私たちの内に神様が示されている愛、注がれている恵みと私たちは向き合い、神様に感謝、立ち返るものでありたいですね。

 

実はイエス様もある時、手を洗わないでパンを食べた弟子たちに対して清めのしきたりを守らないで神様の命令をおろそかにしているという当時の宗教家たちの責めに対して、イエス様はこの箇所を引用して、「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている」と言われました。その際、さらに続けて「聞いて悟りなさい。口に入る物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します」と仰られました。口に入るもの、というのは単純に食べ物だけを指すわけではなく、むしろ「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」とイエス様も、また律法でも書かれている通り、神様の口から出る一つ一つの言葉、恵み、その言葉を成就させる神様の恵み、愛があなたを汚すのではなく、聖め楽しませて下さるのです。あなたに神様は悟らせてくださるのです、それを体験させていただき、その喜びに満ち溢れさせて下さるのです、神様ご自身が。

 

神様はなお「ああ。主に自分のはかりごとを深く隠す者たち。彼らはやみの中で事を行ない、そして言う。『だれが、私たちを見ていよう。だれが、私たちを知っていよう』と。ああ、あなたがたは、物をさかさに考えている。陶器師を粘土と同じにみなしてよかろうか。造られた者が、それを造った者に、『彼は私を造らなかった』と言い、陶器が陶器師に、『彼はわからずやだ』と言えようか」と続けて語られます。仰る通り、造られたものが造り主に文句を言う筋合いはありませんが、同時に神様はわからずやでも、自分たちが思った通りにならない神様など神様ではない、というような思いをはるかに超えた神様の恵みが注がれるのです。

 

神様はその時起こる事について、「…その日、耳の聞こえない者が書物のことばを聞き、目の見えない者の目が暗黒とやみから物を見る。へりくだる者は主によっていよいよ喜び、貧しい人はイスラエルの聖なる方によって楽しむ…」と約束されていますが実はここで語られている回復の預言について、イエス様が「あなたがたは行って、自分たちの見たり聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい。目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている」と、イエス様が救い主なのかわからなくなっていたバプテスマのヨハネとその弟子にヨハネに伝えるように、こう仰られた、イエス様にあって成就した事を語られるのです。

 

まさにイエス様によって全人的回復が起こるのです。神様を知らず、暗闇の中をさまよっている人に光を照らし、神様がわからなくなっている私たちの耳を開いてその心に訴えかけ、どこを歩んだらいいのかわからずその道を失っている私たち、神様のイメージされ造られた本来の姿を回復させ、神様の恵みを失い貧しくなってしまった私たち、その魂が死んでどうにもならなくなっている私たちを回復させるために、イエス様は人となって生まれて来られたのです。今から約2000年前に。そして生まれて来て終わりではなく、同じ重荷を背負われ、共に住み、歩んでくださり、ついには私たちが抱えるすべての重荷、何より罪、一切を身代わりに背負われ、十字架にかかられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられた事によって、まさにこの預言が成就、このイエス様の十字架の前に悔い改め、立ち返る全ての人の罪は赦され、神様の子とされる、新しく作り変えられるのです。

 

このイエス様にあって、↑の「今からは、ヤコブは恥を見ることがない。今からは、顔色を失うことがない。彼が自分の子らを見、自分たちの中で、わたしの手のわざを見るとき、彼らはわたしの名を聖とし、ヤコブの聖なる方を聖とし、イスラエルの神を恐れるからだ。心の迷っている者は悟りを得、つぶやく者もおしえを学ぶ」と約束が成就される、このイエス様にあって新しくされた私たちはその聖なる楽しみに喜ばせていただき、顔色はまさに喜びに変えられるのです。私たちの心も体も支えられ、その霊で満たされるのです。今日私たちはこのイエス様の下さった十字架の救いをもう一度覚えようではありませんか。私はこう思う、と感じても、罪人のために、いやその私たちを友と呼び、その友のために身代わりとなり命を惜しまず与えられたイエス様のこの愛以上のものがどこにありましょう。このイエス様にあって与えられる、古い悲しみではなく聖なる楽しみに満たされ、今日も歩ませていただこうではありませんか。