この世で本当に最も美しいものは… | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

ある人が言った。

「この世界で最も美しいものは、水平線に沈む夕陽と、疑うことを知らない赤ちゃんの目である。」

 

なるほど、確かにそれらは美しい。

けれども私は、それにまさる美しいものを知っている。それは頭を垂れ、全能なる神の前で罪を悔い改める人の姿である。人が神の御前で自分の罪を告白し、悔い改めることは決して恥ずかしいことではない。むしろ最高に尊ばれる美しい姿である。

 

たとえそれはこの地上ではさげすまれようとも、その光景を見た幾千幾万もの御使いたちは歓喜の声をあげ、天国の聖歌隊は高らかに歌い出し、先に召された歴代の聖徒たちの間でも大歓声が沸き起こる。一人がささげる悔い改めの祈りと涙は最高に価値あるものだ。演技でもなく、単なる感情からでもない。救い主の足もとにひれ伏し、本気になって赦しを願い、心からささげる悔い改めの祈り…。

 

父なる神はその宝石を何よりも尊ばれた。だから、その心を悲しみで引きちぎりながらも愛するひとり子をこの世に遣わされた。御子なるイエスは、その宝石が「どうしてもなければならないもの」だと知っておられたので、どんなに人々から罵声をあびせられようとも、あの恐ろしい十字架上で最後まで屈辱に耐え、激しい苦痛を味わい、その命を捨てられた。聖霊なる神はその宝石を得るために、私たちにその罪を指摘し、唯一の救い主が誰かなのかをはっきりと示され、私たちの弁護人となって下さった。

 

罪そのものは、醜くて汚いもの。それは悪臭すら放っている。とても聖なる神の国に入れるものではない。

だが悔い改めそのものは、神の目にはキラキラと光を放つ宝石のようであり、美しい花畑のように香りを放っている。すでにその悔い改めという宝石を神にささげ、その価値を体験した人々は、他の人が悔い改める姿を見るたびに言葉にならない大きな感動と喜びを覚える。

 

天国は、そんな芸術品を心から神にささげた人々であふれている。そこに入るための入館料は一切いらない。だが、ひとつだけ求められるものがある。それはとても高価なチケットである。世界のどこに行っても売られてはいない。インタ-ネットでも手にすることはできない。だが世界のどこにいても、あなたはいつでもそれを手にすることができる。それは「悔い改め」という何よりも価値あるチケットだ。それは神の子イエスの命と交換にされたほどに価値あるもの。

 

「私はキリスト教系の学校に通っていました」

「過去に教会に通っていました」

「親がクリスチャンでした」

「昔、教会学校にも通い、洗礼を受けたことがあります」

「聖書だって読んでいましたよ」

 

そんなニセ物のチケットは一切通用しない。そのチケットには確認印が押されているだろうか?あなたが本当に悔い改め、救われた者であるという聖霊の証印があるだろうか?今からでも遅くはない。いや、今こそ「救いの日」なのだ。本物の天国行きのチケットを手にしよう。本気になって罪を悔い改め、イエス・キリストを自分の救い主として心に迎えること以外にそれを得ることはできない。

 

水平線に沈む夕陽を見ても、澄んだ赤ちゃんの目を見つめても、その場で感動して終わるだけだ。でも世界で最も美しいもの、「罪の悔い改め」は、あなたのすべての罪をゆるし、あなたを永遠の天国、喜び、感動へと導く最も価値あるものなのである。

 

ーしろくま先生ー