―最後に勝つのは、最後まで残るのは― | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「その日、主は、鋭い大きな強い剣で、逃げ惑う蛇レビヤタン、曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し、海にいる竜を殺される。」

イザヤ書27章1節

 

このご時世、なぜこんな悪い者たちが放置されているのか、神様がいるならどうしてこんなことがあるのだろうか、と思いたくなることがあります。いつまでですか?とつらい中を通っている人もいるのは私も実感しています。ただ、神様は見捨てることはありません。やがて来る勝利の日へ向けて、神様ご自身があなたを導いて下さり、守ってくださっています。今日私たちはこの神様の御手の中にある事を覚え、信頼し、神様が今日共にいてくださっている喜びに生きようではありませんか。

 

さて、↑は古代イスラエル王国分裂後、北イスラエル王国がアッシリヤによって滅ぼされ、南ユダはアハズ王が死んで後、ヒゼキヤ王の治世に入る、そのころに預言者イザヤを通して語られたことになります。↑のイザヤの黙示録と呼ばれる箇所、ここまでは世の終わりと、そこに残された希望、再臨のイエス様が来られる、永遠へと導こうとされているイエス様が再び来られ、地上がどんなに横暴な者が支配するようになろうとも、終わりの時には地は回復され、完全に静められること、驚くべき花嫁の晩餐をイエス様が私たちを迎える時のため、用意されている、何より、艱難苦難の中にあっても神様ご自身が私たちの城壁となり守り導いて下さる事、平和を「神様が」備えてくださっている事を見ました。

 

そしていよいよ↑で神様はサタンへの裁きの宣告、その最後について告げられます。短くも、厳格な宣告です。迷い一つない、完全な裁きの宣告です。以前ヨブ記の分かち合いの中で、神様が語られた「レビヤタン」、これがサタンになります。神様は、このレビヤタン・サタンについて「その日、主は、鋭い大きな強い剣で、逃げ惑う蛇レビヤタン、曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し、海にいる竜を殺される」と厳格に裁きを宣言するのでした。

 

そもそもの発端はどこにあったのか?まずサタンはもともとは天使だったのですが、神になろうとして戦いを挑み地上に堕とされるわけです。そしてエデンの園でエヴァをだまし、神様が食べてはいけないと言っていた木の実を食べさせ、そこから罪が、死が人間の中に入っていきました。そして塵に変えるということ。

 

その際、蛇・サタン、そしてアダムとエヴァに対し、神様は「蛇に仰せられた。『おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。』女にはこう仰せられた。『わたしは、あなたのうめきと苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。』また、人(アダム)に仰せられた。『あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。』」とそれぞれに宣告されました。

 

アダムとエヴァは罪を犯した、この後エデンの園を追放されるのですが、その前に神様がサタンへの完全勝利を、裁きを実はこの時から約束されているのです。このサタンへの宣告は、ある意味でアダムとエヴァにももちろん問題はあったのですが、彼らを神様から引き離そうとしたその罪は大きい、と。本来神様の恵みに生きるはずだったものを神様から引き離し、生きる者から塵・死ぬものへと陥れたその罪は大きい、と。

 

結局このサタンへの裁きの宣告は、まず第一義的にはサタンはイエス様を十字架にかけることによって勝利した気になったはずが、気が付いたらむしろ十字架の死は死で終わらず、復活されたことによって完全にこのサタンに勝利されることを約束されるのです。アダムとエヴァからしたら遠い未来の話ですが、その勝利を約束されている神様がいる、だから彼らは神様をエデンの園から追放されても求め続け、その子孫たちは、祝福されます。

 

そして、この弱ってしまい力を失ったサタンは、最後のあがきとして一緒に滅びる者たちを、探していることを、イエス様の12弟子のひとりペテロが「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです」と、その手紙をもって書き送ります。ペテロもローマ帝国を含めた多くの迫害に会い、最後は殺されます(殉教)。しかしそれでも、堅く信仰に立つようにということは、裏を返せば神様が、勝利を約束された神様があなたと共にいて、導いて下さる、というこの確信に立つように言うのです。

 

確かに最後のあがきとしてサタンはほえたける獅子のように私たちを何とかして一緒に滅びる巻き添えにしようと、神様から引き離してきます。しかし、同じ苦しみを通られたイエス様が、あなたと一緒にこの苦しみから栄光へと、永遠へと導かれるのです。どんなにサタンがあなたをあらゆる苦しみによって食い尽くそうとしても、神様がいる限り、あなたを食い尽くすことはできません。だから、イザヤを通してもまたサタンの敗北を宣告されているように、私たちは神様の恵みによって生かされ歩みたいものです。「その日」は遠い未来の話ではない、神様を求めるあなたの内に今日、神様の御心がなる、その時それは勝利の日、「その日」となるのです。あなたは今日誰に何を求めますか?苦難苦境、艱難の中にあって、あなたを勝利に導かれると宣言された神様に信頼し続けたいものです。

 

話を戻して、24章からずっと続いている、神様がイザヤに啓示された黙示録の中で、神様は「その日、主は天では天の大軍を、地では地上の王たちを罰せられる。彼らは囚人が地下牢に集められるように集められ、牢獄に閉じ込められ、それから何年かたって後、罰せられる」と語られていましたね。まさにこれは↑のサタンへの勝利とリンクするものがあります。神様に逆らう人間たちだけでなく、人間を神に逆らわせようとするサタンとそのしもべたちである悪霊たちに対するさばきが執行される日が来るのです。

 

さらに、黙示録12章を中心に、20章もですが、地上に落とされた悪魔は御使いによって捕縛されて、千年王国の間中、底知れぬ穴の中に閉じ込められる様子が描かれている、イエス様によって語られています。イエス様は弟子ヨハネに「さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。『今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。…』」と語られています。

 

また、「また私は、御使いが底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から下って来るのを見た。彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕らえ、これを千年の間縛って、底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。サタンは、そのあとでしばらくの間、解き放されなければならない。…しかし千年の終わりに、サタンはその牢から解き放され、地の四方にある諸国の民、すなわち、ゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを召集する。彼らの数は海べの砂のようである。彼らは、地上の広い平地に上って来て、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ。すると、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした。そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける」と、イエス様は黙示録の中で啓示されています。

 

千年王国の間、彼らは閉じ込められる、と言いますが、やがて彼らは本当の裁きを受けるために一時解放されるも、最後の審判を彼らは受けることになります。黙示録についての詳しいことは、新約聖書の分かち合いの中でまた時間をかけて分かち合いたいと思うのですが、一つ言えることは、サタンは先ほど見たように、確かに手負いの獣、ほえたける獅子のようにさ迷っていますが、結局神様の御前に何もすることはできないのです。

 

だからこそ、先ほどのペテロの手紙の「身を慎み、目をさましていなさい。…堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです」という言葉の重要性が見えてくるのではないでしょうか。

 

これはただ単に起きてなさい、ということではないですよ?目を開けて、見るべきお方を見る、自分にはイエス様が必要なんだ、と謙遜になり、御霊の武具を身につけさせていただこうではありませんか。パウロという1世紀の伝道者は、多くの手紙を書き、クリスチャンを励ましたのですが、同時に彼自身多くの迫害をやはり受けます。それゆえに、だからこそイエス様が必要なんだ、と「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい」と、全身を御霊様で覆われ、満たされ、またいつも祈ることを勧めます。

 

私たちは私たちを見捨てないため、私たちの罪を身代わりに背負われ、十字架にかかられ、サタンの攻撃をそれでも耐え忍び、打ち勝たれたイエス様、あなたのためになら命を惜しまないイエス様が同じ苦難を通られたうえで、なお私たちと一緒に永遠の勝利の日へと導かれます。あなたのためになら命を惜しまないイエス様が立ち向かってくださるのだから、私たちはこのイエス様に最後まで離れず共に歩ませていただきたいものです。今日というその日がイエス様にある勝利、栄光の一日となるよう、日々このイエス様の恵みを求め歩みたいものです。主があなたの武具となり、どんな中にあってもあなたを満たし、導かれ、いのちのうちへと共に進んでくださるから。