―大宴会の日が来る!― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「万軍の主はこの山の上で万民のために、あぶらの多い肉の宴会、良いぶどう酒の宴会、髄の多いあぶらみとよくこされたぶどう酒の宴会を催される。この山の上で、万民の上をおおっている顔おおいと、万国の上にかぶさっているおおいを取り除き、永久に死を滅ぼされる。神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。主が語られたのだ。その日、人は言う。『見よ。この方こそ、私たちが救いを待ち望んだ私たちの神。この方こそ、私たちが待ち望んだ主。その御救いを楽しみ喜ぼう。』主の御手がこの山にとどまるとき、わらが肥だめの水の中で踏みつけられるように、モアブはその所で踏みつけられる。泳ぐ者が泳ごうとして手を伸ばすように、モアブはその中で手を伸ばすが、その手を伸ばしてみるごとに、主はその高ぶりを低くされる。主はあなたの城壁のそそり立つ要塞を引き倒して、低くし、地に投げつけて、ちりにされる。」

イザヤ書25章6-12節

 

みなさん、ハイキングとピクニックの違いって知っていますか?どちらも野山など野外に出かけて散策しますが、「ピクニック」には、必ず「野外での食事」が伴い、「食事をすること」が主なる目的なのだそうです。その起源は、ヨーロッパ貴族の遊びの際、貴族仲間、召使い、猟犬など大勢で狩りに出かけて、そのまま外で食事をしていたそうで、その貴族文化が変化して今の形になりました。貴族は、給仕人が食器やテーブルまで用意して本格的な料理を作り、食事を楽しんだが、一般人はもっと簡素に、弁当を持参して、野外で食事を楽しむイベントとしたようです。ところで神様は私たちのために食事を用意してくださり、招いてくださる、貴族を超えた、造り主なる神様が今日もあなたを、恵みの食卓へ。単なる道楽でもイベントでもない、あなたを永遠へと導かれるイエス様があなたと共にいる、この恵みに希望を抱き歩ませていただこうではありませんか。

 

さて、↑は古代イスラエル王国分裂後、北イスラエル王国がアッシリヤによって滅ぼされ、南ユダはアハズ王が死んで後、ヒゼキヤ王の治世に入る、そのころに預言者イザヤを通して語られたことになります。↑の前の24章からは世の終わりについての預言、イザヤの黙示録と呼ばれる箇所、前の章では世の終わりと、そこに残された希望、再臨のイエス様が来られる、永遠へと導こうとされているイエス様が再び来られること、また、地上がどんなに高慢な者、騒がしい者、横暴な者が支配するようになろうとも、終わりの時には主が意図されたとおり、地を回復され、騒ぎや横暴な者たちは完全に静められることを見ました。

 

↑は再臨のイエス様が来られる時に何が起こるのかについて「神様ご自身が」イザヤに示し、彼は「万軍の主はこの山の上で万民のために、あぶらの多い肉の宴会、良いぶどう酒の宴会、髄の多いあぶらみとよくこされたぶどう酒の宴会を催される。この山の上で、万民の上をおおっている顔おおいと、万国の上にかぶさっているおおいを取り除き、永久に死を滅ぼされる。神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。主が語られたのだ」と預言します。

 

終わりの時、裁きの時、もう全部なくなって無になる、とか、そういうわけではないことがここでわかります。何と終わりの時、イエス様は私たちを、イエス様を救い主として受け入れた人を大宴会をもって迎え入れてくださる、というのです。神様がイザヤを通して「万軍の主はこの山の上で万民のために、あぶらの多い肉の宴会、良いぶどう酒の宴会、髄の多いあぶらみとよくこされたぶどう酒の宴会を催される」と語られ約束されたように。

 

そういえば、放蕩息子のたとえ話をルカによる福音書で分かち合った中で、弟息子が父から財産をだまし取ったにもかかわらず、湯水のように使い、飢饉が来たら食べる者もなくなり、反省し、我が家に帰り、謝ったら、父は大喜びで祝宴を開いてくれましたね。最高の着物、指輪、履物、食事、すべてを備えてくださりました。神様は、天国に行って何かを惜しむような方ではないのかな、というのが見えるのですが、実際の食事かどうかは私も天国にまだ行ったことがないのでわかりませんが、ただ、神様は最善を備えてくださっているのは間違いありません。

 

何より、まず御子イエス様のからだ・肉を十字架で割かれ、また血を流され、ぶどう酒を備えられた、また聖霊様という油を私たちに注がれ豊かな実を結んでくださる、という点では、この食事内容にあてはめられないこともないのですが、ただ少なくともあれが食べられる、食べられない、で一喜一憂するどころの騒ぎではない神様の最善が用意されていることはいうまでもなく、パウロという人は「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです」と、この世の価値観を超えた喜びによって満ち溢れていることが語られています。

 

じゃあ↑で語られている、見せられているイエス様の大祝宴は幻なのか?と言われたらそうでもありません。といいますのも、イエス様は「あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます」と、イエス様の来られたユダヤの人たちの地域だけではない、全世界の人たちがやがてイエス様を救い主として受け入れ、その人たちもまた共に食事に与ると約束されているのです。

 

実はイエス様の12弟子のヨハネも、イエス様の昇天後、彼が老年になってイエス様が彼に啓示された終わりの時について「…『ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。』御使いは私に『小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい』と言い、また、『これは神の真実のことばです』と言った」とその啓示された幻を書き記しましたイエス様は私たちを花嫁として迎えてくださり、結婚式の披露宴どころの騒ぎではない、最高の婚宴へと招かれる、とイザヤの時のこの預言だけにとどまらず、約束されているのです。

 

もう、想像するだけでワクワクします。どんな宴会なのか。だって、イスラエルの父祖アブラハムたちも一緒に食事をする、そこから何千年もたっている中でどれだけの救われた人がいるか、を考えると、すごいことですよね。イエス様はよく弟子たちと食事をし、また罪人たちとも喜んで食事をし、みな楽しんでいましたが、イエス様のおられるところ、イエス様の食卓を開かれるところには喜びがあふれるのです。

 

さらには、↑でさらに「この山の上で、万民の上をおおっている顔おおいと、万国の上にかぶさっているおおいを取り除き、永久に死を滅ぼされる。神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる」と語られている、私たちの涙はすっかりぬぐい取られるのです。

 

やはりこのことについて、イエス様はヨハネに啓示し「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、また彼らの神となり、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである」と書き記しました。ただ婚宴、大宴会があるにとどまらず、神様が共にあり、私たちの内に住まわれ、すべての古いものを過ぎ去らせてくださる、完全な勝利の日を迎えさせてくださるというのです。

 

希望が溢れていますね。ある人は、でも天国に行くまで我慢しなければいけないの?という人もいます。そうではないのですむしろ、その永遠へと招かれる、イエス様の花嫁として召してくださるイエス様が、この永遠の祝宴、宴会を用意されているイエス様が、今日もあなたと共にいて、この永遠へと導いてくださるのです。

 

古代イスラエル王国2代目の王、ダビデはこのことについて「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう」と詩で歌い、残します。

 

私たちの命の日の限り、イエス様はとこしえに羊飼いなのです。慰めがあり、私たちの盃を喜び、祝福でいっぱいに、いやあふれさせてくださる。たとえ死の谷の陰を歩むような日であろうとも、的の前に、ただなかにいる中にあっても、それでもイエス様は食卓を整え、あなたと共におられ、進まれる、養われ、導かれることを彼は体験し、詩に残したのです。

 

私たちはこのイエス様に、私たちのためなら、死の陰の谷をむしろ身代わりに進まれ、私たちの痛みも悲しみも、何より罪も一切を身代わりに背負われ、十字架にかかられ、死なれた、そして3日目によみがえられたことによって、この十字架の前に悔い改め立ち返る人の罪は一切赦され、神様の子とされ、この永遠の恵み、祝宴へと招かれている、この喜びをどう受け止めているでしょう。どれだけ待ち望んでいるでしょう。今、イエス様にどれだけ信じ期待しているでしょう。

 

↑のイザヤを通した神様の言葉の中に「その日、人は言う。『見よ。この方こそ、私たちが救いを待ち望んだ私たちの神。この方こそ、私たちが待ち望んだ主。その御救いを楽しみ喜ぼう。』」とありますが、待ち望んでいるからこそ、今の私たちに希望があり、この希望によって救われているのです。

 

↑の最後で神様はイザヤを通して「主の御手がこの山にとどまるとき、わらが肥だめの水の中で踏みつけられるように、モアブはその所で踏みつけられる。泳ぐ者が泳ごうとして手を伸ばすように、モアブはその中で手を伸ばすが、その手を伸ばしてみるごとに、主はその高ぶりを低くされる。主はあなたの城壁のそそり立つ要塞を引き倒して、低くし、地に投げつけて、ちりにされる」と語られていますが、イエス様が再臨されるとき、モアブのボツラと呼ばれるところで隠れているユダヤ人を救うために来られ、そして全世界の軍隊と戦いながら、その戦場をエルサレムへと移していきます。そしてエルサレムのオリーブ山に立たれ、地殻変動が起き、神の国をお建てになるのですが、その戦場となったモアブは、この栄光のイエスの姿を見ても、へりくだらないで、神様に救いを求めず、自分の命を救おうとしてかえって、それを失うというのです。

 

主が来られる、主が命を持ってまで私たちを救うために来られたのに、どうして私たちは隠れている必要があるでしょう。希望がないと言えるでしょう。この方以上にどこに救いがありますか。比較になりません。いや比較にならないほどの恵みをあなたに成すため、いのちさえ惜しまなかったのです、イエス様は。今日私たちはこのイエス様の救いを、愛をいただいたのだから、「見よ。この方こそ、私たちが救いを待ち望んだ私たちの神。この方こそ、私たちが待ち望んだ主。その御救いを楽しみ喜ぼう」と告白し、いつも希望をこの方に抱かせていただき、歩ませていただこうではありませんか。