「主よ。あなたは私の神。私はあなたをあがめ、あなたの御名をほめたたえます。あなたは遠い昔からの不思議なご計画を、まことに、忠実に成し遂げられました。あなたは町を石くれの山とし、城壁のある都を廃墟にされたので、他国人の宮殿は町からうせ、もう、永久に建てられることはありません。それで、力強い民も、あなたをほめたたえ、横暴な国々の都も、あなたを恐れます。あなたは弱っている者のとりで、貧しい者の悩みのときのとりで、あらしのときの避け所、暑さを避ける陰となられたからです。横暴な者たちの息は、壁に吹きつけるあらしのようだからです。砂漠のひでりのように、あなたは他国人の騒ぎを押さえ、濃い雲の陰になってしずまる暑さのように、横暴な者たちの歌はしずめられます。」
イザヤ書25章1-5節
友がいるというのは本当にいいことですよね。私が大学一年生の時、地元から離れ、大学のために一人暮らしとなり、キャンパスライフを楽しむはずが、とんでもない人間不信に陥り、一人暮らしだし、食べなければ死ねるかな、と思っていたところ、特に私のその状態を知らない高校時代の友人から突然電話がかかってきて、ある集会に連れ出され、気が付いたら引きこもりから脱出、その後教会に戻ることもできた。その友はそんなこと考えてもいなかった、と言っていたのですが、ああ神様が遣わしてくださったんだな、と改めて思います。この世の中様々な事がありますね、横暴なこと、理不尽な事。しかし神様に横暴はなく、その希望は失望に終わらせられることはありません。今日、真の救い主なるイエス様に希望を抱き、歩ませていただこうではありませんか。
さて、↑は古代イスラエル王国分裂後、北イスラエル王国がアッシリヤによって滅ぼされ、南ユダはアハズ王が死んで後、ヒゼキヤ王の治世に入る、そのころに預言者イザヤを通して語られたことになります。↑の前の24章からは世の終わりについての預言、イザヤの黙示録と呼ばれる箇所、前の章では世の終わりと、そこに残された希望、再臨のイエス様が来られる、永遠へと導こうとされているイエス様が再び来られることを見ましたが、今回はその続きになります。
イザヤはこの神様の啓示くださった終わりの時、艱難時代の時、神様がいかに勝利してくださるのかを見て「主よ。あなたは私の神。私はあなたをあがめ、あなたの御名をほめたたえます。あなたは遠い昔からの不思議なご計画を、まことに、忠実に成し遂げられました」と歌い始めます。これは実に素晴らしい告白です。え?どこが?と思われる方もいるかもしれませんが、そもそもイザヤも終わりの時ほどではないにしても、今現実としてアッシリヤの脅威を見ています。
そのような中にあって、神様はなにもされないのでは?ではなく、むしろ彼は神様がただ何となく助ける、一時的な救いではなく、永遠に向けた救いを成し遂げようとされている事、それは人間の手で起こせることではない、この天地万物を造られ、すべ治められておられる神様が、すべてを揺り動かし、救いをなしとげてくださる、それを見させていただいたのです。これ以上の喜びはありませんね。いや、イザヤのこの今生きている時代だけにとどまらず、これまで見てきた周辺諸国への宣告でもみたように、その神様のご計画は永遠へと続くのです。イエス様が来られ、その前味を、そしてやがて終わりの時にどうにもならない暗闇、横暴の中にあってもイエス様は見捨てず、その御手を伸ばされる、その希望は失われることがないことを彼は見たのです。
これは何かの偶然が重なっておこった、おこる事ではない、「主よ。あなたは私の神」と告白しているように、他でもない、神様が、たまたま今回だけ憐れんでくださったのではなく、遠い昔からの不思議なご計画を、まことに、忠実に成し遂げてくださる、これからもなして下さる、と預言的に確信して告白しているのです。
私たちは目の前の問題にばかり目が留まって、肝心の見るべき方から目を離したりしていませんか?神様はある時だけ、気が向いた時だけあなたを助けてくれるとか、そんな方ではありませんよ?神様は遠い昔から、あなたへの愛を欠かさず注いでこられた、神様なしに人は生まれることも、生きることもできません。
それは私たちのからだを作り生まれさせてくださっただけではなく、今日まで育ててきてくださった、それらすべてを導いてこられた神様がいるから、私たちは今日があり、これからを保証する方がおられるから、明日もこれからも希望が持てるのです。持たせていただけるのです。
古代イスラエル王国2代目の王ダビデは「あなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに」と、自身の詩に残しています。彼も王になる前、内定している時、在位中の王から命は付け狙われるは、王になってからも息子にクーデターを起こされ、国を追い出されることもありました。しかしそれらの日々にあっても神様がいたから今日がある、昔自分に魂を与え、母の胎内で組み立てられ、組み立てて終わりではなく、産まれて後も彼を導いてくださった神様がいる、今日彼があるのは神様の一つ一つの奇しい愛そのものなんだ、と歌うのです。
神様の愛は徹底され、その愛に忠実。御子イエス様の命を惜しまないほどに。あなたはあなたの作り主、あなたを愛され、今日まで導いてきてくださっている、このあなたの全てともいえる神様から目を離したりしていませんか?今一度この神様の愛に立ち返りたいものです。
話を↑に戻して、イザヤはなお続けて「あなたは町を石くれの山とし、城壁のある都を廃墟にされたので、他国人の宮殿は町からうせ、もう、永久に建てられることはありません。それで、力強い民も、あなたをほめたたえ、横暴な国々の都も、あなたを恐れます。あなたは弱っている者のとりで、貧しい者の悩みのときのとりで、あらしのときの避け所、暑さを避ける陰となられたからです。横暴な者たちの息は、壁に吹きつけるあらしのようだからです」と歌います。
ここで歌われている「城壁のある都」とはバビロンを指しているようなのですが、イザヤはバビロンの崩壊をまだ見ているわけではありません。しかし、前章でみた終わりの時に神様が起こされる裁きしかり、その前の艱難の中にあって残されるものが守られるよう神様が御手を伸ばされた、というように、神様がどのような苦難の中にあっても古い城壁、あなたを囲う様々な問題も打ち砕かれ、どんな横暴をそれらがあなたに仕掛けようとも、最後は打ち砕かれ、もはや再建することはできません。むしろ神様があなたの内に宮を建てられる、完全な御国が立てられ、涙はすっかり拭い去られるのです。いやその前味として、あなたがイエス様を受け入れるその時から、聖霊様の宮があなたの内にたてられ、豊かに働かれる、あなたのうちには恐れではなく喜びが満ち溢れるのです。
イエス様は終わりの時について「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります」と語られ、続けて「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます」と語られました。
イエス様が人となってこられた時も、まだ終わりの時は来ていませんでした。とはいえローマの圧政によって結局ユダヤは崩壊してしまうのですが。しかしじゃあ神様は見捨てたのか?そうではないのです。最後まで一緒に耐え忍び導いてくださる方がいる、イエス様が、自らの死を賭してまで愛された、あなたを苦難の途上であろうと、終わりの時であろうと、最後まで耐え忍ばせてくださるよう導いてくださるのです。友として。そして、イエス様が「そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです」と再臨の約束、神様の希望、約束がそこに成就することがイエス様ご自身が来られ、なされることを語られるのです。
イエス様はなおも「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません」と続けて仰られました。この天地は確かにいつか滅びる、どんなに自分を高くし、権威を持とうと、この世の権力者たちはいつか倒れる、それは歴史で見てきてもわかるでしょう。そして神様の完全な御国がそこに現れるのです。滅びることのないイエス様の愛が、ご統治が来る、その前味としてあなたの内にも、あなたの遣わされているところにも広げられるのです。
↑の詩の最後でイザヤが歌うように、地上は、高慢な者、騒がしい者、横暴な者が支配するようになりました。けれども、終わりの時には主が意図されたとおり、地を回復されます。騒ぎや横暴な者たちは完全に静められるのです。
私たちはそれを、奇しいみわざ、完全なるご統治を、勝利をもたらされるイエス様に、イエス様の十字架によってその前味を今味わわせていただけることにしっかりと心を留めたいものです。イエス様は、ただ、いつか救うからね、とかそういうレベルのものではなく、ご自身の命をかけてでもあなたをこれらの滅びの時から、艱難の前触れであろうと、何よりサタン、罪の支配から救うため、ご自身の御手の内に取り戻すため、神様の家族としてあなたを受け入れるため、私たちの罪の身代わりに十字架にかかられ、死なれたのです。そして3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し、神様の子として受け入れてくださる、その道をまさに開かれたのです。あなたを友と呼んでくださる、いのちさえ惜しまず与えてくださったイエス様があなたと世の終わりまで共にいると約束してくださっている、どんな中にあっても。その中で神様がどれだけのご計画をなそうとしているか。
このイエス様の救いによって呪われた地、また私たちは解放され、解き放たれ、自由とされる、イエス様にある回復、新しいいのち、聖霊様の宮があなたの内に建て上げられるのです。私たちはこのイエス様の命がけの愛によって、天の御国への旅路、開かれたこの新しい命、イエス様の成し遂げられる奇しい御業を大いに期待し、なお御国が来ること、あなたの内に、またあなたの遣わされいてる場所に、主をお迎えしようではありませんか。主があなたの内に成し遂げられる計画は未来に渡る永遠の救い、ご計画へ向かうものなのだから。
