―失われたあなたを捜すために― | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「それからイエスは、エリコに入って、町をお通りになった。ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。『ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。』ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。これを見て、みなは、『あの方は罪人のところに行って客となられた』と言ってつぶやいた。ところがザアカイは立って、主に言った。『主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。』イエスは、彼に言われた。『きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。』」

ルカによる福音書19章1-10節

 

仲間外れ、無視、これほどつらいものはないと言いますか、いるのにいないように扱われる時、これほどつらいものはありませんね。誰も助けてくれる人がいない、孤独、そんな時どうしたらいいのでしょう。ただ忘れてはいけないのは、神様はあなたを忘れない、あなたを救うために来られたのだから。私たちはもう逃げなくていい、イエス様があなたを迎えに来られたのだから、いのちの内に、神様の家族に。

 

さて、神の御子たるイエス様が人となってお生まれになり、その公生涯を歩み続け、様々な人を癒し、救い、また悔い改めに導かれ、ついに十字架にかかる時が近づいたある日のこと、イエス様はエリコという町に来られ、その街を歩いておられると、そこにザアカイという取税人がイエス様に会おうと近づきました。

 

彼は取税人という職業の人でした。要するに税金を集める役割をしていたのですが、ただそれだけならまだ問題はないのでしょう。しかし彼はローマ帝国から頼まれ集まているのですが、その徴収額は必要以上集められ、彼はそのよけいにとった分をローマ帝国に納めるどころか、自分の袖の下に入れていたのでした。まあ、ローマから言われて自分たち同胞から税金を集め、治めているという時点で、同胞のユダヤの民から嫌われていた、その上で彼はわかっていてお金を余分に取り集めていたのでした。彼は金持ちであったけど、背が低かった、とありますが、ある意味では彼は取税人としてしていることからレッテルをはられていたのかもしれません。容姿でそこまで言われてしまうのは悲しいものがあります、ただ悪い評判だけが彼を覆っていたのです。

 

しかしそれでもザアカイはもう仕方がないことなのか、と諦めなかったのです。イエス様が来られたと聞いて、いてもたってもいられず、恥も外聞も捨ててイエス様のもとに向かったのです。もしかしたら彼自身の罪によって裁かれるかもしれない、という可能性もある、それでも彼はイエス様の憐れみを求めて駆け寄ったのです。彼は小さいうえに嫌われていて通してさえもらえなかった、しかし、ひとめでもイエス様を見たい、その一心でいちじく桑の木に登り、イエス様を何とか見ようと必死にのぼりました。ただ、もしかしたら後ろめたい思いもあったかも知れません。

 

ちなみに余談になりますが、イエス様が今おとずれている町エリコは、しゅろ(なつめやし)の木が多く、しゅろ(なつめやし)の町とも呼ばれていました。このなつめやしの木は高さもあり、イエス様を見つけるには最適かもしれません。しかし、彼はいちじく桑の木を選んだのです。たまたま見つけたのがいちじく桑の木ではない、他にもイエス様を見つけるには最適ななつめやしの木がそこら中にあったのです。しかし、彼は低いいちじく桑の木を選んだのでした。いちじく桑にはたいてい何人かの羊飼いたちが登って実の世話をして働いているものでした。葉っぱも茂っていて大きく、隠れるのにも最適です。そう、他に登っている羊飼いもいる、 目立つことなく登ることができたのが、いちじく桑の木だったのです。

 

彼の中にここまでの意図があったかはわかりませんでしたが、しかしそんな誰からも目にとめてももらえない、ばかにされる、罪人として完全にレッテルをはられ、見捨てられたこの彼を、陰に隠れている彼をイエス様は見つけてくださったのです。イエス様は、いくつもある木の中からまさに彼のいるいちじく桑の木のところまで来られ、彼と会ったこともないはずなのに、彼の名前を呼びながら、「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」と仰られるのです。

 

ザアカイからしたらびっくりです。イエス様が自分の名前を知っている、もしうわさで聞いているだけなら、自分を罪人として裁くなりレッテルをはられるかもしれない、しかしイエス様は彼の心を知っておられた、イエス様を求めている心を知っておられたのです。イエス様は彼を知っていたのです。何せ神の御子たるイエス様は神様であられながら人となって生まれてきた、もちろんすべてをご存じ、彼がどれだけのことをしてきたのかも。

 

だからこそ、彼を救いたい、救いが彼の家に来た、というよりもイエス様が彼の内に救いをもたらしたい、と来られたのです。罪人と一緒に食事をするということは当時ではその仲間となるということ、それは罪人と変わりないと言われてもおかしくない、でもイエス様は彼を救うためなら、ザアカイが恥も外聞も捨ててイエス様を、と求めた以上に、むしろ恥とも思わず、彼を神様の家族として受け入れようとされたのです。

 

ザアカイはイエス様と食事をしたから、今までの弁済をしたのではない、イエス様がすべてを満たしてくださる、そこにだまし取るような生活はもう必要ない、イエス様が私の全てを満たしてくださると信じたのです。

 

イエス様の十字架にはすべてを変える力があります。ザアカイの支払うべき罪はイエス様が十字架で身代わりに背負われ、罰せられ、支払われました。そしてこのイエス様を受け入れる時、私たちは神様の子とされ、家族として受け入れられる、私たちの内側を驚くほどに変えてくださるのです。古い自分ではない、最高のあなたに。

 

ザアカイだけではない、イエス様をこっそり探すあなたを、何とかこの古い、どうしようもない自分を変えたいと思う私たちをまず招かれたイエス様が、今日あなたを待っておられる。私たちはまず愛された、まず救いをもたらそうと招かれたイエス様に立ち返ろう。そしてイエス様の広げられる食卓、新しい命の内に生きよう。ここに私たちの全てがあるから。イエス様が驚くべき方法、愛をもって新しくしてくださるから。