「海の荒野に対する宣告。ネゲブに吹きまくるつむじ風のように、それは、荒野から、恐ろしい地からやって来る。きびしい幻が、私に示された。裏切る者は裏切り、荒らす者は荒らす。エラムよ、上れ。メディヤよ、囲め。すべての嘆きを、私は終わらせる。それゆえ、私の腰は苦痛で満ちた。女の産みの苦しみのような苦しみが私を捕らえた。私は、心乱れて聞くにたえない。恐ろしさのあまり、見るにたえない。私の心は迷い、恐怖が私を震え上がらせた。私が恋い慕っていたたそがれも、私にとっては恐れとなった。彼らは食卓を整え、座席を並べて、飲み食いしている。『立ち上がれ、首長たち。盾に油を塗れ。』主は私にこう仰せられた。『さあ、見張りを立たせ、見たことを告げさせよ。戦車や、二列に並んだ騎兵、ろばに乗った者や、らくだに乗った者を見たなら、よくよく注意を払わせよ。』すると獅子が叫んだ。『主よ。私は昼間はずっと物見の塔の上に立ち、夜はいつも私の見張り所についています。ああ、今、戦車や兵士、二列に並んだ騎兵がやって来ます。彼らは互いに言っています。【倒れた。バビロンは倒れた。その神々のすべての刻んだ像も地に打ち砕かれた】と。』踏みにじられた私の民、打ち場の私の子らよ。私はイスラエルの神、万軍の主から聞いた事を、あなたがたに告げたのだ。」
イザヤ書21章1-10節
時、状況を見極めるということはとても大事な事です。いかに状況が厳しい時でも、助けが来るかもしれない。ただ一つ忘れてはいけないのは、神様の助けが遅れるということはないということです。私たちのタイミングでは遅く感じても、神様は24時間365日、いつも働かれているのです。神様は、殉教の時も逆境の時も、確かに共におられ、その御手を伸ばされていることを忘れず、ただ神様を見上げ、待ち望もうではありませんか。神様はあなたに最善をなして下さるから。
さて、↑は古代イスラエル王国が分裂して後、北イスラエルがアッシリヤ帝国に捕囚され、また南ユダ王国をアハズ王が統治していた時期からアハズの死んだ年までの間に、神様が預言者イザヤを通して諸国に預言されたもの、今回はバビロン帝国への宣告になります。
↑を分かち合う前に、少しバビロンの歴史をたどりますと、バビロンは実はかつてはアッシリヤによって征服されていたのですが、アッシリヤから自立したメディア王国と共にバビロンはこのアッシリヤを討ち、覇権を取り戻す形となりました。ただし、彼らの高慢さゆえにか、BC538年には今度はペルシャ帝国に打ち取られます。そしてそのペルシャはイスラエルを捕囚から解放することになります。
ただ、この段階ではまだアハズ王が死んだ後ですので、アッシリヤはまだ滅びる前、バビロンが台頭するよりも前の段階、その中でこれから起こることを神様はバビロンに向けて宣告されます。神様はイザヤを通してこのバビロンについて、「海の荒野に対する宣告。ネゲブに吹きまくるつむじ風のように、それは、荒野から、恐ろしい地からやって来る。きびしい幻が、私に示された。裏切る者は裏切り、荒らす者は荒らす。エラムよ、上れ。メディヤよ、囲め。すべての嘆きを、私は終わらせる。それゆえ、私の腰は苦痛で満ちた。女の産みの苦しみのような苦しみが私を捕らえた。私は、心乱れて聞くにたえない。恐ろしさのあまり、見るにたえない。私の心は迷い、恐怖が私を震え上がらせた。私が恋い慕っていたたそがれも、私にとっては恐れとなった。彼らは食卓を整え、座席を並べて、飲み食いしている。『立ち上がれ、首長たち。盾に油を塗れ。』」と語られます。
海の荒野、これがバビロンにあたるのですが、そう呼ばれるほどの地域にバビロンはいたのです。バビロンの地域は、ユーフラテス川、ティグリス川を始め、水が多く流れている、いや与えられていたといった方がいいでしょうか、そのような中に砂漠があることから、バビロンが海の荒野と呼ばれていました。中東地域を考えれば、荒野、という表現、砂漠という表現が表に立つ中で、海、と表現できるほどに、その土地を潤している川が流れていたのです。
そういえば、神様が天地万物を創造され、エデンの園の詳細を記録した創世記の中には「神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。第一のものの名はピション。それはハビラの全土を巡って流れる。そこには金があった。その地の金は、良質で、また、そこにはベドラハとしまめのうもあった。第二の川の名はギホン。それはクシュの全土を巡って流れる。第三の川の名はティグリス。それはアシュルの東を流れる。第四の川、それはユーフラテスである」と神様は記録を残させているのですが、このエデンの園を潤すためにつくられた、用いられた、そのティグリス川、ユーフラテス川がまさにこのバビロンの地域に流れていたのです。
私の中では、これはすごいことだな、と思うのです。バビロンはその後覇権を握り、やがて彼らの王ネブカデネザルは南ユダを捕囚し、捕囚先でも何度となくイスラエルを苦しめることになる彼ら、その彼らにそのような土地を与えていたこと、それは驚きでなりません。それだけではない、アッシリヤに一時的に支配を受け、その神様の憐れみによって救い出され、アッシリヤを討つ器として選ばれた、そのようなバビロン。彼らは神様の恵みを知っていた、体験していた、それなのに、という裁きがまさに起こるのです。
ただ、まだ神様は憐みをまだここで語られることで示されているのです。このイスラエル・ユダヤ周辺諸国への裁き、宣言が成されているのは、まだアッシリヤによる捕囚前、アハズ王の死の直後に語られています。概数になりますがおよそまだ190年先のバビロンの裁きの時について、今、その前に神様は語られているのです。神様は、これだけの恵みを注がれているのだから、神様の恵みを覚え、これに生きてほしい、という願いがここに込められたのではないでしょうか。
実際イザヤに示されたものは相当なものでした。エラム・ペルシャの都市とメディヤの連合軍が、バビロンの都市を囲んだ幻を見、それゆえに彼の腰は苦痛で満ちた、というほどに苦しみを覚えるのです。預言者はある意味では神様が代理で建てた存在、そう考えると、まだ滅びる前のバビロン、彼らが滅びに向かっていく事、囲まれることを苦しまれていることも見えます。悲しまれていることを見えます。神様は本来彼ら、いや私たちをティグリス、ユーフラテス川をもって潤したいはずのところ、その彼ら、私たちが世の思い業ずらいや、様々な問題によってなすすべなくなることを悲しまれるのです。だからその前に、神様に立ち返るように、と。
実は、ここで使われている「宣告」という言葉は、「目、声、手、頭、顔、心などを上げる」という意味を持っています。声を上げる、というと一番訳されている言葉に近いかもしれませんが、神様は声だけではない、その目、手、頭、顔、心もすべてあげて、彼らに向き合われて、このままでは滅びますよ、と訴えるのです。アッシリヤから解放され、回復したバビロン、彼らはその残虐の道をこの後進むことになるのですが、救われた神様、その地をもう一度神様の恵みでうるおされる神様に彼らは目も声も、手も頭も顔も心も、すべてをもって神様に立ち返ることを願われていたのです。
事実、実は南ユダを捕囚したバビロンの王ネブカデネザルは、捕囚したイスラエルの民を苦しめながらも、高官に神様がつかせてくださったダニエルやその仲間たちを通して神様のすばらしさを知り、何度となく失敗を繰り返すも、彼はダニエルたちを通して神様の御前に遜る事となるのです。しかし、ネブカデネザルはそうでも、その子孫は自分の力を誇り、最終的にバビロンは討たれることになります。
バビロンのネブカデネザルの孫ベルシャツァルが王であった時、彼は大宴会を催しています。ネブカデネザルがエルサレムの神殿から持ってきた、金や銀の器と使って酒を飲み、金、銀、鉄、石、木で造られた神々をあがめ、乱痴気騒ぎをしていたのです。
その時、突然壁に人の手が現れ、ベルシャツァルの足はがくがく震え、彼の母を通して、すでに90歳以上になっていただろうダニエルを呼びます。彼は、ベルシャツァルがネブカデネザルに身に起こったことも知らずに、なおも天地を造られた神を拝まず、偶像に浸っていることを咎め、その文字の意味を解き明かしました。あなたの治世はこれで終わった、あなたの悪は積み上げられた。今、この国は分割される、と。そしてその夜、ベルシャツァルはメディヤ・ペルシヤによって殺されるのです。
一方、このイザヤの預言を見ると、バビロンの人々が、食卓を整え、座席を並べて飲み食い、どんちゃん騒ぎをしている時、メディヤとペルシヤの軍は冷静に、「立ち上がれ、首長たち。盾に油を塗れ」と出陣する呼びかけを行なっていたのでした。そして神様によって霊を震え起こされたペルシャの王クロス王は神様の御前に、ベルシャツァルとは逆に遜り、勝利をつかみ取り、彼はイスラエルを捕囚から解放させ、さらにはその道中を含め、必要な物資をサポートするなど、神様の恵みに与る事となるのでした。
このバビロン、ペルシャ・メディアを見るとよく見えてくるのは、神様はそれぞれの時、神様の恵みを示されている、その神様の恵みを受け取るか、私たちはある時だけ、困った時だけ、都合のいい時だけ神様を見上げるのではなく、困った時の神頼みのように祈るのではなく、いつも神様に目を向けたいものです。目も心も声も全部。主はすべてをもって応えてくださるはずです。あのバビロンに、その御手を伸ばされ、救いの機会を何度となく示されていたように、主の園のように潤いで満たそうとされたように。
神様はイザヤを通してなお「主は私にこう仰せられた。『さあ、見張りを立たせ、見たことを告げさせよ。戦車や、二列に並んだ騎兵、ろばに乗った者や、らくだに乗った者を見たなら、よくよく注意を払わせよ。』…踏みにじられた私の民、打ち場の私の子らよ。私はイスラエルの神、万軍の主から聞いた事を、あなたがたに告げたのだ」と語られます。
見張り人を立てるように、と。神様は動かれている。神様の恵みを見逃してはいけない。神様を軽んじて、神様を侮るのではなく、神様の恵み一つ一つを私たちは覚えようではありませんか。神様はかのバビロンに憐れみを示されただけではなく、そのバビロンに苦しめられるイスラエルの民を憐れまれていた、見張られ、守られたように、神様はあなたが失われることを良しとせず、あなたを救うために御子イエス様を人として生まれさせてくださり、遣わしてくださったのです。あなたのただなかに住まわれ、あなたの重荷を、何より罪も一切を身代わりに背負ってくださり、十字架にかかられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださるのです。
イエス様はあなたを見過ごすことができず、見て見ぬふりをせず、その命を持ってまであなたを救われた、このイエス様が、あなたと共に世の終わりまで歩んでくださるのです。なんという幸いでしょう。私たちはこのイエス様から目を離さず、その声に従い、ついていかせていただきたいものですね。その先に待つ、イエス様の命をかけられてまで取り戻された、その神様の豊かなご計画が待っているから。