―この始末、最後にそれをぬぐうのは― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「アッシリヤの王サルゴンによって派遣されたタルタンがアシュドデに来て、アシュドデを攻め、これを取った年―そのとき、主はアモツの子イザヤによって、語られた。こうである。『行って、あなたの腰の荒布を解き、あなたの足のはきものを脱げ。』それで、彼はそのようにし、裸になり、はだしで歩いた。そのとき、主は仰せられた。『わたしのしもべイザヤが、三年間、エジプトとクシュに対するしるしとして、また前兆として、裸になり、はだしで歩いたように、アッシリヤの王は、エジプトのとりことクシュの捕囚の民を、若い者も年寄りも裸にし、はだしにし、尻をまくり、エジプトの隠しどころをむき出しにして連れて行く。人々は、クシュを頼みとし、エジプトを栄えとしていたので、おののき恥じる。その日、この海辺の住民は言う。【見よ。アッシリヤの王の手から救ってもらおうと、助けを求めて逃げて来た私たちの拠り所は、この始末だ。私たちはどうしてのがれることができようか。】』」

イザヤ書20章1-6節

 

私たちは何か苦難に会う時、助けてくれる人、心の拠り所があるというのはいいことですね。あなたにはそのような友はいますか?ただ、頼りにしていたのに、肝心な時にやっぱりやめておくわ、とされた時ほどつらいものはありませんね。私にそういう経験があったかどうかは伏せておきますが、ただ、神様は私たちを裏切らない。形だけの、うわべだけの薄っぺらい関係ではなく、御子イエス様の命をもってまであなたを取り戻してくださった。この愛を私たちは受け取り、私たちも薄っぺらい関係ではなく、心から私たちの思いをささげ、歩ませていただこうではありませんか。

 

さて、↑は古代イスラエル王国が分裂して後、北イスラエルがアッシリヤ帝国に捕囚され、また南ユダ王国をアハズ王が統治していた時期からアハズの死んだ年までの間に、神様が預言者イザヤを通して諸国に預言されたもの、今回はペリシテ(パレスチナ)の中の都市、アシュドテへの神様の宣告になります。

 

アシュドテってどこ?と思う方もいるかもしれません。地図を残しておきますが、

 

 

これは現在でいうところのガザ地域に近いかもしれません。その北部にペリシテ(現在のパレスチナ)人が住んでいたのですが、ここはかつてはかなりの力を持っていた国でした。イスラエルの歴史の中で何度となくペリシテ人がイスラエルを苦しめてきました。特に士師の時代には、サムソンをはじめ多くの戦いを挑み、苦しめます。

 

そんな中、イスラエル王国建国前、サムエルが最後の士師、預言者であった時、イスラエルはペリシテと争って敗北を喫しました。その時イスラエルの長老たちが状況打破のためシロから「主の契約の箱」(神の箱)を運んでこようと提案しました。それは直ちに実行されたのですが、ペリシテ軍はとても強力で、イスラエルの陣地から神の箱を奪って行ってしまうのです。そしてそれは最初にこのアシュドデという場所に運ばれ、置かれます。

 

しかし、ペリシテ・アシュドテ人たちはこれを戦利品という程度にしか見ておらず、飾り物と言いますか、その程度の扱い、神様ご自身を求めなかった、そうして神の箱が置かれたことでこの地の住民たちの体は腫れ、災害が起こったのです。そのため、神の箱は他の町(ガト、エクロン)へ移しましたが、やはり結果は同じでした。結局彼らは話し合い、「神の箱」はイスラエル領へと返されるのでした。そして結局彼らは神様に立ち返ることなく、初代イスラエル王国の王、サウルを打ち破るも最終的に2代目の王ダビデによって打ち破られることになるのですが。

 

そんなこともあり、一時的に栄華を極めていた彼らは弱体化します。ただ、神様はじゃあ彼らを最初から見捨てていたのか、といったらそうではありません。サムエルを通して神様が働かれていた姿、またダビデを通してどんな力、巨人も、神様の御前にはどうにもならないこと、弱いと思っていたイスラエルを強め、励まし支えていた神様の御業を見ていたはずなのです。そしてまさに神様に立ち返る機会は、神様にそうしてイスラエルを通して触れる機会があった、しかし彼らはそれを拒否し続けたのです。それでも滅ぼしつくさなかったのは神様の憐れみでしょう。それでも彼らは神様に帰らず、力を失っていきます。

 

話を↑に進めて、神様はイザヤを通して「アッシリヤの王サルゴンによって派遣されたタルタンがアシュドデに来て、アシュドデを攻め、これを取った年―そのとき、主はアモツの子イザヤによって、語られた。こうである。『行って、あなたの腰の荒布を解き、あなたの足のはきものを脱げ。』それで、彼はそのようにし、裸になり、はだしで歩いた。そのとき、主は仰せられた。『わたしのしもべイザヤが、三年間、エジプトとクシュに対するしるしとして、また前兆として、裸になり、はだしで歩いたように、アッシリヤの王は、エジプトのとりことクシュの捕囚の民を、若い者も年寄りも裸にし、はだしにし、尻をまくり、エジプトの隠しどころをむき出しにして連れて行く。人々は、クシュを頼みとし、エジプトを栄えとしていたので、おののき恥じる」と語られます。

 

アシュドテ、彼らはアッシリヤと戦うために、ここまでの章で見たクシュ(エチオピア)、そしてエジプトに頼り、彼らと一緒にアッシリヤに対抗しようとします。しかし、アシュドデは歴史を見る限り、BC713年にアッシリヤと同盟関係を結んでいたアズリ王を追放し、暴動を先導したヤマニが指導者となってアッシリヤに謀反を起こしましたが、結果彼らを抑えるため、アッシリヤの王サルゴンは、タルタンを彼らのもとに派遣し、彼らを攻めとるのでした。結局彼らが頼っていたクシュも、エジプトも、彼らの拠り所としては何の力も持ち合わせなかったのです。

 

ここで先ほどあえてアシュドテ(ペリシテ・パレスチナ)との歴史について触れましたが、イスラエルはサムエル王も殺され、ペリシテとの戦いで敗戦が続いていたのです。普通に考えたら勝てるわけがない、しかもゴリアテという巨人が彼らを打ち破ろうとかかってきたときももう彼らには絶望しかありませんでした。しかし、アシュドテ、もといペリシテはイスラエルがどうしていたのかを見ていたはずです。彼らから見たらもう弱い存在のはずの彼らがなぜペリシテに、巨人ゴリアテに勝つことができたのか、しかもゴリアテを討ったのは当時の少年ダビデです、常識ではありえない話です。しかし、彼らがその避けどころとして身を寄せていた神様が彼らを守り、勝利に導かれたではありませんか。神様は、ペリシテ、もといアシュドテに神様の内にこそ救いがある、避けどころ、拠り所がある事を具体的に経験的に見せてくださっていたのです。それでも彼らは神様に頼らず結果アッシリヤによってうち滅ぼされてしまうのでした。

 

そのような中、神様はイザヤを通して驚くべきことを示されます。どちらかというとそのような諸外国、イスラエルを囲む強国の恥じ入る姿を語りながら、神様の御思いを告げたい、回復させたいという思いがあったようですが。神様は、ご自身のたてられた預言者イザヤに、「行って、あなたの腰の荒布を解き、あなたの足のはきものを脱げ」と語られるのです。アシュドテがそのような恥じる行為をさせられるなら分かりますが、それを命じられたのは、神様が立てられた預言者イザヤ、その彼に裸になってはだしで過ごせ、と。しかも3年間。普通に考えたらあり得ないですよね。寵愛する人をそのように恥を晒させるなんて。

 

あ、別にすっぽんぽんで過ごせ、ということではないですよ?今の、いわゆる下着のようなものは身に着けていました。ただ、預言者、神様によって遣わされ、その神様の御言葉を語る人がそのような格好になれ、というのはとてもみじめ以外の何ものでもないでしょう。そのうえで神様は彼らに「わたしのしもべイザヤが、三年間、エジプトとクシュに対するしるしとして、また前兆として、裸になり、はだしで歩いたように、アッシリヤの王は、エジプトのとりことクシュの捕囚の民を、若い者も年寄りも裸にし、はだしにし、尻をまくり、エジプトの隠しどころをむき出しにして連れて行く。人々は、クシュを頼みとし、エジプトを栄えとしていたので、おののき恥じる」と語られるのです。

 

そう、まさにアシュドテ(ペリシテ)はもとよりアシュドデが拠り頼んだエジプトとクシュ(エチオピヤ)も、アシュドデもろともアッシリヤによって征服されるのでした。そして彼らはまさに自分たちが誇っていた、着飾っていたすべての栄華を失い、イザヤがしたように、恥を見ることとなるのです。

 

なぜに神様はそのように滅びた彼ら、その年にイザヤに恥を見させるようなことをされたのか。神様は本当は私たちの恥を拭い去り、その裸を御子イエス様の命をもって本来私たちを負いたいのです、神様の愛で、恵みで、いのちそのもので私たちを覆いたいのです。神様は彼らのように民がなることを、私たちがなることを望まれない、本来アシュドテなどだってそうならずに神様に帰ることを長い歴史の中で待っていたはずなのです。そんな彼らを待って何になる、と思わず、それでも待って待って待たれていたのです。しかし、ついには彼らは彼らの栄華を失ってしまった。神様はそのようして今、ユダヤに神様に立ち返ることを、イザヤのその姿を持ってでも願い、示されたのです。その御思いを。

 

イザヤを通して神様はユダヤ(南ユダ)に対し、「見よ。アッシリヤの王の手から救ってもらおうと、助けを求めて逃げて来た私たちの拠り所は、この始末だ。私たちはどうしてのがれることができようか」と語ることを示されましたが、しかし、その彼らの不始末をそれでも神様は身代わりにイザヤをもって受けてくださった。だからもうわたしのもとに帰っていいんだよ、と。そしてこのイザヤの行動をもって示された神様の愛を受け、南ユダは一時的に神様に立ち返るのでした。

 

同じように、神様は私たちが世のあらゆる煩いによって傷つき倒れること、恥じ入ることを悲しまれ、むしろその私たちが負うべき恥を、その始末を御子イエス様に背負わせたのです。預言者イザヤどころの騒ぎではありません。罵られ、鞭うたれ、裏切られ、どれだけの悲しみを背負うことになったのか、それでも私たちが罪を負ったまま死にゆくことを我慢できず、世に、サタンに支配され続けることを良しとせず、むしろ御子イエス様に神様は身代わりに背負わせ、十字架に彼ら、身代わりのその始末をつけさせたのです。イエス様が身代わりに罰せられ、死なれたのです。なぜ何の罪もないイエス様が?しかしそれでもあなたが生きることを願われ、最後まで神様はイエス様を十字架から降ろすことなく死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦され、その恥は取り除かれ、神様の子とされる、その義の衣を着せていただけるのです。

 

神様は御子イエス様の命を持ってまであなたが死にゆくことを我慢できず愛されることを選ばれたのです。そこまでされてまであなたを救い出そうとされた、その愛に私たちはどうこたえるでしょうか。そのイエス様の命にあって開かれた新しい命、神様との歩み。そこにどれだけの恵みが広がっているのでしょうか。もういつかは失われるようなものに私たちは支配されるのではなく、ただ神様により頼もう。御子イエス様の命を惜しまなかった神様があなたの前に広げられた新しい、この永遠の命を喜び、信頼し、歩もうではありませんか。あなたの前をこのイエス様が進まれ導かれるから。