「その日、エジプト人は、女のようになり、万軍の主が自分たちに向かって振り上げる御手を見て、恐れおののく。ユダの地はエジプトにとっては恐れとなる。これを思い出す者はみな、万軍の主がエジプトに対して計るはかりごとのためにおののく。その日、エジプトの国には、カナン語を話し、万軍の主に誓いを立てる五つの町が起こり、その一つは、イル・ハヘレスと言われる。その日、エジプトの国の真ん中に、主のために、一つの祭壇が建てられ、その国境のそばには、主のために一つの石の柱が立てられ、それがエジプトの国で、万軍の主のしるしとなり、あかしとなる。彼らがしいたげられて主に叫ぶとき、主は、彼らのために戦って彼らを救い出す救い主を送られる。そのようにして主はエジプト人にご自身を示し、その日、エジプト人は主を知り、いけにえとささげ物をもって仕え、主に誓願を立ててこれを果たす。主はエジプト人を打ち、打って彼らをいやされる。彼らが主に立ち返れば、彼らの願いを聞き入れ、彼らをいやされる。その日、エジプトからアッシリヤへの大路ができ、アッシリヤ人はエジプトに、エジプト人はアッシリヤに行き、エジプト人はアッシリヤ人とともに主に仕える。その日、イスラエルはエジプトとアッシリヤと並んで、第三のものとなり、大地の真ん中で祝福を受ける。万軍の主は祝福して言われる。『わたしの民エジプト、わたしの手でつくったアッシリヤ、わたしのものである民イスラエルに祝福があるように。』」
イザヤ書19章16-25節
今の時代ではそんなことをしたら問題になるかもしれませんが、私の世代はそうかな、最後は父親の雷、げんこつ、なんてありましたよね。それで終わり、と。でもそれが怖いんですよね。ただ、そこにそれでも赦したい、という思いを感じました。一方で、私の中学時代の教師は、キレると生徒の机を蹴り飛ばしたり、ということがありました。ただ、神様はそれでも本来その恵みに与ることの赦されないはずの私たちをもう一度回復させようと、その御手を伸ばされます。神様はまだあなたをあきらめていません。神様の恵みの中に今一度立ち返ろうではありませんか。
さて、↑は古代イスラエル王国が分裂して後、北イスラエルがアッシリヤ帝国に捕囚され、また南ユダ王国をアハズ王が統治していた時期からアハズの死んだ年までの間に、神様が預言者イザヤを通して諸国に預言されたもの、今回もクシュ・エチオピアと組んで反アッシリア勢力を結んでいたエジプトへの宣告になります。
↑の前のところではエジプトへの裁きの時について語られました。予めエジプトが滅びる前にこれが語られたということは、神様はそれでも彼らにその御目を注がれ、何とか彼らもまた立ち返ることを願われていた、実はそれが↑のこの19章後半に現れているのです。
ただ、イスラエルはエジプトにこれまでさんざん虐げられ、イスラエルのこの地に彼らが帰ってくる前には、約400年近くにわたって、奴隷としてとらえられ、信じられないほどの迫害を受けてきました。なぜそんなエジプトに対して神様は憐みを示されるのか、ある意味では不思議で仕方ありません。
私達だって、あの人がいい目を見るなんて許せない、とか思うことだってあります。自分をこんな目に合わせたこの人は呪われた方がいい、とか。でもイエス様は「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです」と仰るのです。↑の19章の本質はある意味でここにあるのかもしれない。
確かに自分を苦しめる相手が神様の憐れみを受けるなんて理解できないかもしれない。しかし、もし彼らが変わったら?イエス様は隣人(あなたの苦手な人でも、迫害する人でも)を愛することを教えられているのです。ありえない、と思うかもしれません。しかし、もしあなたがその苦手な人のために祈り、その人が変えられるなら、私たちの手で復讐したり呪いを願ったり、それを超えた神様の御心が現わされるのではないでしょうか。何より私達だって誰一人神様の御前に義人はいない、その私たちのためにさえ神様は愛を示されている、そのことを忘れてはいけません。
実際、彼らエジプトを討つアッシリヤについても、この時の100年ほど前に、預言者ヨナという人をアッシリヤの首都ニネベに遣わして、彼らが悔い改めないと滅びるということを伝えに行くようにヨナは言われ、いろいろありましたが、彼はついにアッシリヤの地で語り、なんと彼らは悔い改め、アッシリヤはこの時より100年ほどイスラエルへの攻撃の手を止めます。100年後攻撃を再開するのですが、もし、ヨナがこの地に残って神様の愛をもって仕えていたなら、とある伝道師は仰っていました。神様の愛はすべてを変える、私たちの想像をはるかに超えて。私たちはこのことを忘れてはいけません。
話はだいぶそれましたが、なんと神様は↑でまさに、エジプトの回復、癒し、リバイバルを語るのです。神様はイザヤを通してエジプト人について、「その日、エジプト人は、女のようになり、万軍の主が自分たちに向かって振り上げる御手を見て、恐れおののく。ユダの地はエジプトにとっては恐れとなる。これを思い出す者はみな、万軍の主がエジプトに対して計るはかりごとのためにおののく。その日、エジプトの国には、カナン語を話し、万軍の主に誓いを立てる五つの町が起こり、その一つは、イル・ハヘレスと言われる。その日、エジプトの国の真ん中に、主のために、一つの祭壇が建てられ、その国境のそばには、主のために一つの石の柱が立てられ、それがエジプトの国で、万軍の主のしるしとなり、あかしとなる。彼らがしいたげられて主に叫ぶとき、主は、彼らのために戦って彼らを救い出す救い主を送られる…」と語られるのです。
神様は、やがて来る「その日」についてまず語られていますが、まず「女のようになり」とありますが、歴史の長いプライドだけは高いエジプトが、弱くなるというのです。エジプトの歴史はここから末期状態に向かっていきます。アッシリヤの後にはバビロン、ペルシヤに攻められ、ギリシヤ時代にはプトレマイオス朝の一部になり、さらにローマの時代には完全に国としての単位は失われてしまいます。そのようなプライドがなくなった時、彼らは「万軍の主が自分たちに向かって振り上げる御手」を見ておののくのです。
私たちも世の中生きていれば、何で自分はこんなに苦しめられなければいけないんだ?と思いたくなることがたくさんあるかもしれません。こんな時に神様はどうして助けてくれないんだ?と嘆きたくなることもあるでしょう。むしろ神様は自分を苦しめたいの?とも。でもそうではないのです。むしろ、この伸ばされた御手はあなたを救う時でもあるのです。
覚えているでしょうか?数章前で見ました、ダマスコへの預言で「その日、人は自分を造られた方に目を向け、その目はイスラエルの聖なる方を見」ると神様はイザヤを通して語られていたことを。その日、神様は同時に私たちの救いともなられる。彼らが、私たちが神様に立ち返る時、神様を求める時、神様はその聖なる御業をなしてくださるのです。それを私たちは目撃させていただけるのです。私たちは苦難の日、何を見ていますか?苦難の状況を見ていますか?世の伸ばすあなたの魂をすり減らす手か、万軍の主の救いの御手か?
私たちは神様の御手の下に遜ろうではありませんか。神様は驚くべき御業を、聖なることをなしてくださる、義の太陽が、神様の栄光が輝くことを私たちは見させていただけるのです。そしてその恵みに私たちは生かされるのです。あなたの作り主の御手があなたを守られ導かれる、なんという幸いでしょう。
神様の御国が私たちの内に広がり、主がすべ治められる、↑では5つの町と言いますが、数の問題を超えた完全なる御国がやがて来る、その前味を私たちは味わわせていただけるのです。そこは↑で「カナン語」と語られていますが、それは当時イスラエルの民が話していたヘブル語になるのですが、もっと言うなら、神様の語られる言葉によってその国が満ち溢れる、あなたのうちが満ち溢れる、神様の栄光がこの地に満ち溢れるのです。私たちはこの神様の御業をどれだけ待ち望んでいるでしょうか。
私たちが苦難の中にいる中にあっても、先ほど引用させていただきましたイエス様の御言葉にあるように、私たちはそれでも彼らのために祈る、その中で、今エジプトについて語られているように、彼らが主の御手を前に遜り立ち返るなら、その状況は変えられる。神様が変えてくださるのです。私たちの努力ではない、ただ神様の大いなる御業がすべてを変えてくださる。神様が変えてくださるなら、それはどれだけ素晴らしいものでしょう。人の手で変えるのでは限界はあっても神様には限界はありません。
ただ手放しで変わるのではない、彼らの内に神様の御手が伸ばされ、御心がなることを祈る時、あのアッシリヤが一時変えられたように、彼らは神様を知り、「そのようにして主はエジプト人にご自身を示し、その日、エジプト人は主を知り、いけにえとささげ物をもって仕え、主に誓願を立ててこれを果たす。主はエジプト人を打ち、打って彼らをいやされる。彼らが主に立ち返れば、彼らの願いを聞き入れ、彼らをいやされる」とあるように、神様の癒し、彼らが神様の恵みによって作り変えられるのです。
もちろん苦しめられた過去、あなた自身の傷もあるでしょう。すぐは祈れない、そんな人たちを愛することはできない、そんな時だってあります。ならばそのような苦しみのある人、敵の進行、世の攻撃を受けているあなたの友のために祈ろうではありませんか。イエス様も、迫害する者のために祈るようにおっしゃりますが、隣人のために祈ってはいけない、とは言っていません。むしろあなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい、と勧めています。ただあなたの隣人も、あなたを迫害する者をも結局変え、癒される、神様の似姿に回復させてくださるのは神様です。まさかの「わたしの民エジプト、わたしの手でつくったアッシリヤ、わたしのものである民イスラエルに祝福があるように」と語られたように、あなたの内に、あなたのまわりの民の上に神様の祝福が溢れる日が、逆転の日が来るから。
その日、逆転の日を神様は迎えさせてくださる。御子イエス様の命の約束をもって。神様はあなたを失われたままにできないゆえに、私たちの思い煩いも、痛みも、何より罪も一切御子イエス様に神様は背負わせ、十字架にかけられ、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し、神様の子、神様の家族として受け入れてくださったのです。「イスラエル・神様の家族」のように、いや本当に神様の家族として迎え入れてくださるのです。
このイエス様の救いを受け取った日から逆転の日は始まる。その日は、もう滅びに向かう日々ではない、主の御手が共にあり、導かれる、聖なる御業を私たちは仰ぎ見させていただけるのです。私たちはこの罪の赦しを、本来受けられるはずのない私たちに、御子イエス様の命をもってまで与えられたことを覚え、今ひとたびイエス様の十字架の意味前に遜り、私の思いではなく、ただ神様の圧倒的な御心が、聖なる御業がこの地になり、主の癒しが、回復がなることを祈ろうではありませんか。