「子羊を、この国の支配者に送れ。セラから荒野を経てシオンの娘の山に。モアブの娘たちはアルノンの渡し場で、逃げ惑う鳥、投げ出された巣のようになる。助言を与え、事を決めよ。昼のさなかにも、あなたの影を夜のようにせよ。散らされた者をかくまい、のがれて来る者を渡すな。あなたの中に、モアブの散らされた者を宿らせ、荒らす者からのがれて来る者の隠れ家となれ。しいたげる者が死に、破壊も終わり、踏みつける者が地から消えうせるとき、一つの王座が恵みによって堅く立てられ、さばきをなし、公正を求め、正義をすみやかに行なう者が、ダビデの天幕で、真実をもって、そこにすわる。…』」
イザヤ書16章1-5節
人に生きる権利はあるのか、いやどんな人に生きる権利があるか、と問われたら、皆さんだったらどう答えますか?残念ながら、こういう人、と今頭をよぎった人は不正解です。というのも、私たちの誰かがこの人には生きる権利がある、ない、と定める権利などないのです。意地の悪い問いかけをして申し訳ないです。ただ、私たちが忘れてはいけないのは、あなたの苦手な人、隣人、あなたの周りの人、彼らは神様によってつくられた大切な存在であり、神様に愛されているものです。何よりあなたも神様によってつくられ、また御子イエス様の命をもって取り戻されたほどに愛されたものです。私たちはこの神様の御国が豊かに広がり、その栄光が触れることを切に願おうではありませんか。
さて、↑は古代イスラエル王国が分裂して後、北イスラエルがアッシリヤ帝国に捕囚され、また南ユダ王国をアハズ王が統治していた時期からアハズの死んだ年までの間に、神様が預言者イザヤを通して諸国に預言されたもの、その中で今回も、一昨日の分かち合いと同様、モアブという国への宣告の続きになります。
↑の前の箇所では、モアブはイスラエルのある意味では兄弟国でありながら、彼らを攻撃し、北イスラエルが奪い去られた後、我が物顔でそこを自分たちのものとしたり、神様の憐れみの御手がそれでも伸ばされ続けていたのに、彼らは高慢になり、神様がいて何になるのか、と神様から離れた、そして別な存在もしない偽りの神々に頼った結果、それらは彼らを助けることなく、結局一夜にして滅びる事、しかしそんな彼らを神様はそれでもなお憐れまれ、廃墟のままにはされないことを宣言されました。神様はそれでも彼らにその御手を伸ばされていたのです。↑この先の章でも触れますが、確かに一時的には彼らは土地を失う、それでも御子イエス様の命にあって救いの道を示される、神様はその救いの御手を閉ざされるのではなく、当時も、今も広げられているのです。そして終わりの時にも。
そんな中で、神様はなおイザヤを通してモアブに対し、「子羊を、この国の支配者に送れ。セラから荒野を経てシオンの娘の山に」と語られます。どういうこと?と思われるかもしれませんが、今、アッシリヤからの脅威ゆえにモアブは疲弊し、苦しみ、モアブから国外に人々が逃げようとしている人がいる状態にあります。そこで主はモアブに、ユダに、そしてエルサレムに助けを求めるように、と神様はそれでも憐れまれていることが見えますね。
ただこれはただ単純に何か貢物を贈ってその見返りに助けてもらえるとか、そういうレベルの話ではないのです。これは歴史から紐解かないと意味が分からないところがあるのですが、古代イスラエル王国2代目の王ダビデがモアブを制圧して以来、モアブは貢ぎ物を、ここで語られているように羊を貢物としてイスラエルに納めていました。しかし、イスラエルの王アハブが死ぬと、モアブの王は背きました。けれども今、再び羊を送れ、と神様はモアブにおっしゃるのです。
ただこの貢物は、ダビデが彼らからむしり取っていた、というわけではなく、彼らの贈り物は礼拝にかかわるものでした。そう、彼らはこのことを通して幕屋、神様の御もとに仕えることで、神様は彼らをご自身の御もとに招かれていたのです。イスラエルを、兄弟国でありながら出エジプト時から散々攻撃していた、その彼らを神様はそれでも憐れまれていたのです。神様は、もう一度彼らに救いの御手をのべられていた、神様のご自身の恵みを受けてほしい、と。それがかつてのダビデ時代、そして今アッシリヤの脅威にさらされている中で示された神様の愛だったのです。
もっといいますと、これはただ羊さえ捧げればいい、と言う貢物の考え方ではないのです。古代イスラエル王国初期の時代、最後の士師であり預言者サムエルは「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる」と言っていました。本当に大事なのはあれをすればいいんでしょ、という物と取引して自分によいことをしてもらう、というご利益信仰ではなく、神様がそれをささげるように、と言うことは、神様がすべてのいけにえに勝る喜びを注ごうと呼びかけられているのです。まず神様の約束がそこにあるのです。聴き従う、それは何か無理やり首根っこひっつかまえて従わせるというものではなく、ここにいのちがある、と神様ご自身がそのいけにえや何かによって選別するのではなく、まず最大の愛をもって彼らを招かれたのです。
イザヤ書のここのところの預言はバビロンだったり、モアブ、そしてこの後はさらに別な諸国への宣告が成されるのですが、それは自分たちには関係ない、と思う方もいるかもしれません。自分はそんなことをしないから、と。しかしそうではないのです。私達だって神様から離れ歩んでいます。しかし私たちの現実はどうにもならない諸問題に囲まれ、逃げ出したくなる、でも本当の救い、逃げ場はどこにあるのか、と彷徨い歩きますが、神様はその御手を広げ、私たちが神様に立ち返るよう、その御声をもって呼びかけられているのです。隷属ではない、無理やり従わせようとするものでもなく、神様の恵みの内に招かれているのです。
↑の支配者は当時は「ヒゼキヤ」、そして「セラ」は死海の南東に広がる荒野のところ、そこにモアブはいるので、エルサレム、神様のご臨在の内から離れている私たち、荒野のような中にさ迷う私たちに向かっても、エルサレム、もとい神様のうちにおられる神様に助けを求めて良いんだよ、と訴えるのです。私たちは神様を遠く離れている、と感じる時が多いのですが、むしろ神様はそんな遠く離れてしまった私たちに、大声をあげてあなたを招かれるのです。見捨てるつもりなら声はかけません。彼らに、あなたに生きてほしいからこそ語られるのです。神様の御目は、あなたが神様から離れてどうにもならなくなる、その状態を放置できない、神様はあなたを今日、心配されているのです。
それは次のイザヤを通して語られる神様の「モアブの娘たちはアルノンの渡し場で、逃げ惑う鳥、投げ出された巣のようになる。助言を与え、事を決めよ。昼のさなかにも、あなたの影を夜のようにせよ。散らされた者をかくまい、のがれて来る者を渡すな。あなたの中に、モアブの散らされた者を宿らせ、荒らす者からのがれて来る者の隠れ家となれ」と言う訴えにも出ています。
神様は彼らの状況、私たちの状況をうわべだけで語るのではなく、彼らの、あなた自身の人生を丸ごと心配されている、状況を把握されているのです。ここで「モアブの娘たちはアルノンの渡し場で、逃げ惑う鳥、投げ出された巣のようになる」と言われていますが、アルノンというのは、モアブから死海に流れる川を指しています。ユダのほうに逃げようとしても死海によって阻まれています。そうすると、絶体絶命です。逃げ惑う鳥、投げ出された巣のようになってしまいます。そこで神様は、モアブの中に隠れ場を設けてくださるというのです。
そう、神様ご自身を求めるとき、神様ご自身が私たちの内にご自身の御心を現して下さる、遠く離れているのではなく、むしろあなたのすぐそばに、あなたの内に住まわれあなたを守られる、私たちの拠り所となってくださるのです。神様が助言を与え、あなたを守られるから。私たちが自分で我慢する、頑張って耐えるのではなく、神様ご自身が試練の中にあってもあなたと共に進まれ、脱出させてくださるのです。
投げ出された巣ではなく、神様ご自身が私たちの住まいとなられ、私たちを守ってくださる、なんと感謝な事でしょう。あなたの人生の家主、主は神様なのです。苦しみ散らされたものを、私たちを神様が宿る場所となって守ってくださる。これ以上の憐れみがどこにあるでしょう。神様から、自分には神様など不要、自分でやっていけるから、と好き勝手に離れた私たちをそれでも心配され、呼びかけ、守ってくださるのだから。
神様はイザヤを通してなお「しいたげる者が死に、破壊も終わり、踏みつける者が地から消えうせるとき、一つの王座が恵みによって堅く立てられ、さばきをなし、公正を求め、正義をすみやかに行なう者が、ダビデの天幕で、真実をもって、そこにすわる」と語られます。神様がご統治成されるその御国の前に、もはやあなたを虐げるものはない、と。この神様の宣言は当時からすればアッシリヤ、バビロンの先にイエス様の誕生、十字架と復活による救いの完成がみられるのですが、しかし、ただ来られたからいい、ではなく、救いに来られたイエス様をお迎えする中にこそ、イエス様を王座に迎える時にこそ、まさに神様の完全なる御国がそこにあらわされるのです。それはやがてくる終わりの時にもいえたことなのです(詳しくはイザヤ書34章の分かち合いの時に)。
神様は、私たちをご自身のもとにもう一度招くために、御子イエス様に私たちの罪の代価を身代わりに背負わせ、十字架にかけ、死なせたのです。十字架上で、十字架にかけた民たちをさばいてください、と叫ぶのではなく、むしろ「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と、私たちの罪を赦してほしい、と父なる神様に懇願してくださったのです。ご自身の命をもって。そして、イエス様は十字架上から降りれば信じると言われても最後まで私たちをあきらめないため、一時的な救いではなく、完全な救いのため、十字架から降りることなく、死なれたのです。そして3日目によみがえられたことによって、この御子イエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し、神様の子・家族として迎え入れられるのです。復活のイエス様ご自身があなたの内に幕屋をはり、住まわれ、あなたと世の終わりまで共にいてくださるのです。
イエス様ご自身が今日もあなたの身代わりのいけにえとなってあなたを救い出すべくあなたを招かれる。イエス様はあなたを救うためなら、全焼のいけにえとなってまで、いのちを惜しまず与えてまでその愛を示される、実行されるのです。この愛は、救いは一時的なものではなく完全なものとしてあなたの内に今日現そうと招かれる。あなたの救いはここにあるんだよ、とご自身を今日あなたの内に現され、招かれるのです。このイエス様の命がけの愛の前にあなたは今日、どうこたえるでしょう。ここに命がある、救いがある、どこか遠い昔話でも何でもない、イエス様が命がけであなたの内に現そうとされたその愛を今日、私たちは受け取り、この恵みからとこしえにはなれることなく歩ませていただこうではありませんか。イエス様も、世の終わりまであなたと共におられると約束された、その離れることのない御業に期待して。