―怒りの後の慰め― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「その日、あなたは言おう。『主よ。感謝します。あなたは、私を怒られたのに、あなたの怒りは去り、私を慰めてくださいました。』見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。その日、あなたがたは言う。『主に感謝せよ。その御名を呼び求めよ。そのみわざを、国々の民の中に知らせよ。御名があがめられていることを語り告げよ。主をほめ歌え。主はすばらしいことをされた。これを、全世界に知らせよ。シオンに住む者。大声をあげて、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は、あなたの中におられる、大いなる方。』」

イザヤ書12章1-6節

 

赦す、赦される、これは私たちに大きな影響を与えますよね。赦さないことは人のエネルギーを奪わいますし、赦されないでいると、いつまでも気を病み疲れ果て、さらにそこにはあまり良い実は結ばれません。しかし赦されるとどうでしょう。本当に気が晴れると言いますか、元気が出ますよね。神様は、時に厳しいことを語られることもありますが、ダメなことをしている時に、いいよいいよありのままで、なんて言わないでしょう?むしろ本来あるべき道へと立ち返ってほしいと願うじゃないですか。神様はあなたが滅びゆくことよりも命を得る、この世の思い煩いではなく神様の恵みに喜び歩むことを何よりも願われているのです。私たちは今日、この神様に立ち返ろうではありませんか。神様は御子イエス様の命を持ってまであなたを愛し、あなたを待っておられるから。

 

さて、↑は古代イスラエル王国が分裂し、北イスラエルがアッシリヤに捕囚され、南ユダも世界情勢に翻弄され、苦しみながら、それでもこれまで彼らを養い守り、導いて記くださった神様が、預言者イザヤを遣わし、このような状況でも彼らを忘れていないこと、また彼らを苦しめる様々な状況に対して神様は助け、また導きだすことを語るも、南ユダの王アハズは神様に頼らず、かえって北イスラエルを滅ぼしたアッシリヤと手を組み、隷属し、まあ自分たちは何とかなるだろう、と神様を徹底的に無視。もう見捨てられてもおかしくない、そんな中でイエス様の誕生の預言、周辺国への裁きの宣言、彼らの救いの約束をされた神様が語られる慰めの言葉になります。おおよそ11章までの一つの結論、とも言えないこともないのですが。

 

神様は裁きの宣告をして終わり、赦して終わりではなく、前章で未来の話まで神様は語られていましたが、神様は私たちを一時的に困った時だけ助ける、そういう神様ではなく、インマヌエル、永遠へと導かれる神様、今も私たちを導かれる神様なのです。それはただ口約束をして終わりではなく、実行をもって愛され、導かれます。

 

イザヤは神様に導かれながら、「その日、あなたは言おう。『主よ。感謝します。あなたは、私を怒られたのに、あなたの怒りは去り、私を慰めてくださいました。』」と歌います。イザヤの力でも、アハズの力でもない、ただただ神様の憐れみによって。「その日」は、確かに未来の話です。アハズ王の子、ヒゼキヤ王の時代に一時的に回復、そしてやがて来るイエス様の誕生の預言通り、イエス様にあって成就、さらにそこから恵みが広がっていきます。来神様の怒りによって、私たちが取り去られてもおかしくない、そのような中、この怒りが取り去られ、慰めを受ける日が来る、と歌うのです。

 

ここから先の時代、一昨日の分かち合いでも見た通り、神様に立ち返ったり離れたり、を繰り返し、ついには南ユダ王国も、バビロン帝国に捕囚されていきます(バビロンへの裁きの宣言もあるのですが、それは次の章で)しかし、神様はもう知らない、と見捨てるのではなく、彼らを、まだ何も良いことをしたわけでもないのにもかかわらず神様は、70年先、バビロンから彼らを、しかも異国の王を通して解放し、連れ戻されるのです。そして解放して終わりではなく、その地にあっても助け手を建てながら、彼らを神様の恵みの中に招きます。

 

ただ、実際はその先、ギリシャやめどペルシャ、ローマと言った列強国に苦しめられ、ついにはローマ帝国によって一時完全にイスラエル・ユダヤは崩壊します。じゃあ神様はこの約束を反故にされたのか?いえ、そうではないのです。もちろん一時的に彼らは苦しみにあい、また釈放され、回復します。しかし神様はそうした一時的な軍事面からの解放ではなく、この世の思い煩いやら支配、何よりも罪、一切から解放するためにあなたを導かれる。救われてはい、終わり、ではなくあるべき姿に回復させてくださるのです。

 

ここで指摘されているイスラエルへの神様の怒りは、イスラエルを滅ぼすためのものではありません。神様が抱かれていた怒りは、自分が愛しているイスラエル、また造られし私たちが離れていくような激しい悲しみの怒り、ねたみの怒りなのです。彼らを、私たちを遺棄するためのものでは決してなく、むしろ彼ら・私たちを救いのためなのです。神様のこの宣言、またこの愛、十字架による解放、あなたはこれをどれだけ喜び感謝しているでしょうか。

 

1世紀の伝道者、パウロは「今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、あなたがたが悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちのために何の害も受けなかったのです。神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします」と手紙で諸教会に書き送ります。神様は、確かに救いに至らせるために、あなたが世の状況、周りの状況、何より罪によって害されるのではなく、いのちを得ることを何より願い、イエス様は私たちの身代わりに十字架にかかられたのです。神様の罪への、私たちが離れていき失われていくことを、何よりも悲しまれ、あなたへの怒りをイエス様へ注ぎ、私たちを救いへと招かれたのです。御子イエス様の命を持ってまで。なんという恵みでしょう。

 

まさにパウロの言う通り、イザヤもまた「神(様)は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む」と宣言されるのです。まだ目の前では起こっていない、しかし神様の伸ばされている御手はすでに動いている、御子イエス様の誕生の預言と共に、すでに彼らの内にあり、導きだそうとしているのです。この変わることのない神様の愛、救いの内にこそ力がある、私たちに褒め歌を歌いたくなるほどの御心を現して下さる、なんと感謝な事でしょう。

 

ちなみにイザヤのこの、「あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む」と言う言葉ですが、これは一時的なものを指すものではありません。この先のヒゼキヤ王の時代やヨシヤ王といった一時的に回復期を迎える王様の時代やバビロン捕囚からの解放された時、喜びを確かに得ますが、それは救いの泉にはつながらず、また枯れ果ててしまいます。

 

イエス様が人となってお生まれになり、その公生涯を歩んでいたころ、サマリヤ(当時でいうなら北イスラエル)の女性が生きることに疲れ果てていた、そんな彼女にイエス様は出会われ、井戸の傍にたたずむ女性に、「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」と仰られました。彼女は先祖代々彼らが慕い求め飲んでいた、その伝統の井戸により頼んでいました。しかし、確かにある一時彼女を、私たちを潤すなにかはあっても、それはいつかは渇きます。それはそうです、水の質量には限りはありますし、天候によっては枯れ果てることだってあります。それは現在の世界を見回しても、井戸の限界は理解できますよね。

 

しかし、イエス様はその源となり、渇くことがないよう、イエス様ご自身が住まわれ私たちを満たしてくださる、と言うのです。一時的にイエス様は来られたのではなく、私たちを渇くこの世の中の思い煩い一切から解き放つ、罪の支配から解放し、自由とされ、神様の恵み、いのちに、永遠の命に招こうとイエス様は私たちの罪、渇きを満たすため、イエス様は十字架上に身代わりにかかられ、その渇きを受けられ、死なれた。そして3日目によみがえられたことによって、救いの道を示されたのです。このイエス様の十字架の御前に立ち返るすべての人の罪を赦し、神様の子とされる、渇くことのない、新しい、復活のイエス様ご自身が住まわれ、あなたの胎の底から、豊かにその愛を、御心を現して下さるのです。そこに希望があり、喜びがあるのです。

 

このイエス様の恵みはもう終わったものではありません。今も、終わりの時が来るまでその御手は伸ばされています。もう希望がない、と言う日はまだ来ていないのです。実はこのイザヤの歌う「あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む」と言う告白ですが、イエス様が仮庵の祭り(イエス様がもう一度来られる再臨の時を待ち望む祭り)で宣言された「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」ということば、これにもつながってきます。まさに十字架は十字架で終わらず、その恵みは尽きることなくあふれ流れる、と言うのです。

 

ちなみに、日本では「マイム・マイム」というフォークダンスがありますよね。これを幼いころ、キャンプファイヤーなどで踊ったことはあるでしょうか?これは実はイスラエルのフォークソングになります。そしてこの踊りの中で一つの輪を作りながら、「グレープ・バイン」(ぶどうのつる)というイスラエル特有のステップで踊りながら、中心に向かう動きの中で「マイム・マイム・マイム・マイム・マイム・べサソン」と歌います。このフレーズこそ、↑の「喜びながら、水を(汲む)」(マイム・ベサソン)という意味なのです。なんとこれはメシア王国到来(千年王国)に実現する輝かしい救いの預言なのです。神様の恵みはイエス様の時代で終わらず、今もなお、終わりの時、再臨の時、御国の完成の時まであなたにその愛は変わらず、伸ばされているのです。

 

私たちは、このイエス様の到来、救いを待ち望もう、今こそ祈ろう。もう駄目だ、と諦めるような状況にあろうとも、ここに希望がある、とイエス様のもとに水を汲みに行かせていただこうではありませんか。神様は喜びをもってまたあなたの遣わされているところに連れ帰り、また導かれる、共に進んでくださるから。イザヤが↑で「主に感謝せよ。その御名を呼び求めよ。そのみわざを、国々の民の中に知らせよ。御名があがめられていることを語り告げよ。主をほめ歌え。主はすばらしいことをされた。これを、全世界に知らせよ。シオンに住む者。大声をあげて、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は、あなたの中におられる、大いなる方」と歌うように、大声で喜び歌おう、私たちは私たちの救いとなられたイエス様、大いなる方の大いなる愛、希望が満ち溢れることを切に祈るものであろうではありませんか。イエス様の希望は遠い過去でも未来でもない、今もここにあなたに示されているのだから。