「ああ。不義のおきてを制定する者、わざわいを引き起こす判決を書いている者たち。彼らは、寄るべのない者の正しい訴えを退け、わたしの民のうちの悩む者の権利をかすめ、やもめを自分のとりこにし、みなしごたちをかすめ奪っている。刑罰の日、遠くからあらしが来るときに、あなたがたはどうするのか。だれに助けを求めて逃げ、どこに自分の栄光を残すのか。ただ、捕らわれ人の足もとにひざをつき、殺された者たちのそばに倒れるだけだ。それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている。」
イザヤ書10章1-4節
「なぜ」という疑問。ある人は、何か事件を起こした人に向けて、なぜこの人が?なぜこんなことを?と言う一方で、逆に何とか更生してほしいと「なんで」この人のために?と動いてくださる方もいる。またそれが起こる原因を調べて、何とか生きる道筋をつけたい、と思う方もいる。私たちの「なぜ」、それは途中で終わってはいけない。神様はあなたの「なぜ」にそれでも「なぜ」そこまでするの?と言われてもなお愛を注がれ救わんと御子イエス様を私たちの罪の身代わりに十字架にかけるほどに愛されました。私たちはこの神様の愛に今日、どうこたえるでしょうか。それでもなぜそんなことを、と言われる道を進むのか。あなたはどうでしょう。
さて、↑は古代イスラエル王国分裂後、今北イスラエルがアッシリヤ捕囚に向かっているころの時代、南ユダ王国をアハズ王が統治していた時代に、神様が預言者イザヤを通して語られている言葉になります。↑の一番最後を読んで気づかれた方もいるかもしれませんが、これは昨日分かち合わせていただいた、神様の裁きの宣言、その続きになります(原本では10章ではなく9章の続きにそのまま記されています)。
アハズ王の治世についてはこれまで何度となく触れてきましたが、これでもか、何でそこまで、と言わんばかりに徹底して神様から離れます。実際に、南ユダの苦しみが拭い去られるのは彼の子供、ヒゼキヤ王の悔い改めの時です。まだ先の話。もう神様に見捨てられてもおかしくない、「それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている」神様は、それでもなお、インマヌエルなる救い主イエス様の誕生の約束を、こんなひどい状況にあっても取り下げることはなさりませんでした。ヒゼキヤ王の内に神様の霊が豊かに注がれ、一時的にとはいえ、南ユダは回復し、彼らを圧迫するアッシリヤ帝国は撤退、その後、アッシリヤの王セナケリブは自国で討たれ、弱体化していくのでした。同時にバビロン帝国が台頭してくるのですが。
ここまで神様は、預言者イザヤを通して「主がヤコブに一つのことばを送られた。それはイスラエルに落ちた。この民、エフライムとサマリヤに住む者たちはみな、それを知り、高ぶり、思い上がって言う。『れんがが落ちたから、切り石で建て直そう。いちじく桑の木が切り倒されたから、杉の木でこれに代えよう。』そこで主は、レツィンに仇する者たちをのし上がらせ、その敵たちをあおりたてる。東からはアラムが、西からはペリシテ人が、イスラエルをほおばって食らう。それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている。しかし、この民は、自分を打った方に帰らず、万軍の主を求めなかったそこで、主はイスラエルから、かしらも尾も、なつめやしの葉も葦も、ただ一日で切り取られた。そのかしらとは、長老や身分の高い者。その尾とは、偽りを教える預言者。この民の指導者は迷わす者となり、彼らに導かれる者は惑わされる。それゆえ、主はその若い男たちを喜ばず、そのみなしごをも、やもめをもあわれまない。みなが神を敬わず、悪を行ない、すべての口が恥ずべきことを語っているからだ。それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている。悪は火のように燃えさかり、いばらとおどろをなめ尽くし、林の茂みに燃えついて、煙となって巻き上がる。万軍の主の激しい怒りによって地は焼かれ、民は火のえじきのようになり、だれも互いにいたわり合わない。右にかぶりついても、飢え、左に食いついても、満ち足りず、おのおの自分の腕の肉を食べる。マナセはエフライムとともに、エフライムはマナセとともに、彼らはいっしょにユダを襲う。それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている」と、民の虚勢に対する裁き、北イスラエルの指導者たちへの裁き、同じイスラエル民族でありなら、ユダ(南ユダ王国)を攻撃しようとするエフライムとマナセに対するさばきの宣言をされていました。
そして今度は神様は、北イスラエルで不正な裁判、といいますか掟を捻じ曲げている現状について語られ、また裁かれます。ちょうど明日分かち合わせていただきますルカによる福音書でも、不正な裁判についてちょうど触れるところなのですが、そもそも、社会のルールにしても何にしても、それは何のためにあると思いますか?そもそもの話が、自分たちの都合に合わせていちいち法律なり、ルールを変えていったらどうなるか、明白ですよね。そのコミュニティ、会社、社会は崩壊します。
そもそも、法律は何のためにあるのかと言いますと、簡単に言いますと、善を促進させるため、そして悪を抑制するために作るものです。では神様の仰る御言葉はどうなのか。時に↑の裁きのように厳しいことを語られることもありますが、それは私たちが生きるため、神様の口から出る一つ一つの御言葉、恵みに生きるためです。また、イザヤ書を見る前までさんざん律法についてみてきましたが、掟と言いますか、律法は神様の義を示すためのもの、そして弱った人々を建て上げるためのものであるはずです。しかし、それを捻じ曲げてしまった。自分に都合のいいように。
ただ、神様はさばいて終わり、ならもうとっくに救い主イエス様のご降誕が取り下げられてもおかしくないはずです。この先どんどん南ユダも一時回復しながらも堕落の一途をたどっていきます。北イスラエルがそうであったように。だからこそ、北イスラエルを例に挙げながら、神様は彼らが本来ある神様の正しい掟、といいますか義の内に生きることを願っておられるのではないでしょうか。
神様は捻じ曲げる方ではない、弱いものを見捨てる方ではありません。神様はイエス様を通して、7章、9章で預言されていたように、本当に共におられる方だった、どこか遠くから見守るだけ、とか口先だけ心配しているよ、とかそういうことをされる方ではないのです。実際に社会から見捨てられ、家族からも見はされるような、また神様に仕える祭司にさえ気にくわないから見捨てる、村八分にするようなかたではない、出会われ、共にその重荷を負い、癒される、仰られる言葉を実行に移される方なのです。
前の章で、主権はその肩にあり、とありましたが、イエス様こそ主権者なのです。もちろんこのように北イスラエルの問題を取り上げる以上、イエス様はその主権を乱用したりされない、捻じ曲げられない。むしろ、なんでこんな人たちをそれでも救おうとされるの?と思う中にあって、神様は、彼らを捨てようとはせず、むしろ彼らが立ち返るように訴えるのです。神様はご自身の愛を、義を曲げる方ではありません。だから罪故に罰して終わり、それもできますが、神様はそれを良しとはされないのです。
北イスラエルについて、神様はイザヤを通して「ああ。不義のおきてを制定する者、わざわいを引き起こす判決を書いている者たち。彼らは、寄るべのない者の正しい訴えを退け、わたしの民のうちの悩む者の権利をかすめ、やもめを自分のとりこにし、みなしごたちをかすめ奪っている」と語られます。ただ、そんな掟を捻じ曲げて不正な裁判をし、弱者からかすめ取るようなことをしていた結果どうなったか。神様はなお「刑罰の日、遠くからあらしが来るときに、あなたがたはどうするのか。だれに助けを求めて逃げ、どこに自分の栄光を残すのか。ただ、捕らわれ人の足もとにひざをつき、殺された者たちのそばに倒れるだけだ」と語られる通り、それで北イスラエルは、アッシリアによって捕え移されます。彼らが助けを呼んでも、そこに神様はおられません。自分たちが豊かであった時の栄光を残すところは、どこにもありません。倒れるしかなかったのです。
神様は彼ら・北イスラエルの避けどころとなるべく、昨日も分かち合わせていただいた通り、それでも愛を示されていた、実行に移されていたのです。本来見捨てられてもおかしくない中にあって、神様はそれでも裁きの前に彼らが命を得てほしい、とご自身の愛をはじめに愛され、立ち返る場所を用意していた、しかし、その神様の愛を何の役に立とうか、と信用せず、その素晴らしさを捻じ曲げて、どうしどうしますか。誰に助けを求めたらいいかわからない、ではなく、その神様の愛を捻じ曲げてしまった結果、自分の変える場所はここではない、となってしまっていたのです。神様は、彼らもまた寄る辺のない罪人、それゆえに彼らに愛を示されていたのに。
しかし、9章の預言、「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った」、と言う預言で見たように、神様はイエス様を通してこの北イスラエルをも回復を願われ、失われた彼らの地に光をともそうとされたのです。そのご降誕の時、彼らを見捨てず、いやイエス様の愛を、それは不当なものだと捻じ曲げる宗教家たちをも悔い改めに導こうと何度も語られ、また奇跡を目の前で見せながら、神様の愛が今あなたにも伸ばされている、覆いが覆われている、それを示そうとされたのです。
彼らは、私たちは、北イスラエルがしていたように、下手をしたら今の世の中によって「寄るべのない者の正しい訴えを退けられ、悩む者の権利をかすめとられ、みなしごたちをかすめ奪っている」ような何もかも失ってしまった、そのような私たちをもう一度取り戻すために、本来私たちが裁かれるべきその判決を、御子イエス様に神様は負わせたのです。ありえない話でしょう。しかし、それでもあなたへの愛を捻じ曲げることはできなかった。そして私たちの本来支払うべき罪の代価、死をイエス様に身代わりに背負わせ、十字架にかけ、身代わりに罰し、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の前に悔い改めるすべての人の罪を赦し、神様の子としてくださるのです。
こんな私たちを、あなたを、その愛ゆえにイエス様の命を与えてまでも、あなたが生きることを選ばれた、この十字架の愛、あなたはどう受け取るでしょうか。イエス様の命にあってああなたは今日、神様の家族としてあたしくされたこの命をとこしえに歩ませていただけるのです。なんという幸い。この言葉では言い尽くせない十字架の愛の前に遜り、もう神様を疑わず、神様の御心、愛があふれ、すべての人がイエス様を主と告白する日が来ることを祈り願おうではありませんか。ねじ曲がってしまった状況の中に神様の御心が現わされ、ここに主の栄光が溢れることを祈り願い。