―それでもあなたのために生まれてこられる方は― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。あなたはその国民をふやし、その喜びを増し加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ。あなたが彼の重荷のくびきと、肩のむち、彼をしいたげる者の杖を、ミデヤンの日になされたように粉々に砕かれたからだ。戦場ではいたすべてのくつ、血にまみれた着物は、焼かれて、火のえじきとなる。ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」

イザヤ書9章1-7節

 

どうしようもなくなり、立ち上がれない時、私たちの方を背負い、一緒に立ち上がらせてくれる人がいたら、どんなに幸いだろう、心が軽くなるだろう。しかし人それぞれ思いがあるので、簡単にはいかないかもしれません。しかし、あなたを造られあなたを愛されている神様は、あなたを立ち上がらせるためなら、御子イエス様さえ惜しまず与えてくださる。そのイエス様をもってあなたの内にまことの命をもたらしてくださる。今日、私たちはこの神様が照らしてくださるこの道を歩ませていただこうではありませんか。

 

さて、古代イスラエル王国が分裂後、北イスラエルがアッシリヤに捕囚される直前、南ユダはこともあろうに北イスラエルと別の国の連合軍にあえぎ苦しみ、南ユダ王アハズはそれでも神様から離れ、神様を求めず、こともあろうにそのアッシリヤ帝国と手を結んでいました。アハズはアッシリヤの問題(北イスラエルを堕としても、南ユダを堕とすことはできない)、神様から離れたことで起こったウジヤ王の問題を預言者イザヤを通して聴きながら、なお神様に従わなかったのでした。う神様に見捨てられてもおかしくない、状態になっていたのです。それでも神様は彼らを見捨てず、神様に立ち返るその道をまず示され、インマヌエルなる救い主イエス様のご降誕をお約束され、その神様が共にいると宣言されるのでした。

 

そしてその中で神様はなお、↑で、「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。あなたはその国民をふやし、その喜びを増し加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ。あなたが彼の重荷のくびきと、肩のむち、彼をしいたげる者の杖を、ミデヤンの日になされたように粉々に砕かれたからだ。戦場ではいたすべてのくつ、血にまみれた着物は、焼かれて、火のえじきとなる」と語られます。

 

これは預言者イザヤが神様に導かれて語ったこと、そしてそれはとても大きな意味を持ちます。この預言は人の手によって実行されるのではなく、神様が実行してくださるということなのです。というのも、「あなた」と使われているところがところどころありますが、これは神様です。自分で自分の国民を増やし、喜びを自分で増し加える、なんて無理な時代です。むしろアッシリヤやバビロンによってこれからどんどん削られていきます。ひどい最期を迎える王もいれば、捕囚によって連れ去られるのが多くの民です。神様がいるから、増し加えられる。何が?神様の恵みが。神様の恵みを受ける人たちが。

 

その前に、イザヤは「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた」と語ります。ゼブルンとナフタリってどのへんだっけ?と思う方、ヨシュア記や士師記でも地図を出しましたが、ここでも残しておきますね。

 

 

地図を見てお分かりのように、これらはおおよそイスラエルの相続地の北部の方になるのですが、実際は北イスラエルでひとくくりで見るなら、アッシリヤ帝国によって侵攻され壊滅的なダメージを負います。そして、同時にアッシリヤ帝国は連れ去る捕囚よりも、どちらかというと他の民族をそこに移住させ、雑婚によって自分たちのアイデンティティをあいまいにさせ、逆らわせない、という手法をとっていたのです。なぜ異邦人の地、とイスラエルの相続地であったのにもかかわらず、そのように言われたのかは、ここにあるわけですね。

 

ここまで見てきたように、北イスラエル、特にこの時代はペカ王になりますが、他国と手を組み、兄弟国南ユダを襲撃します。そして、ついにはアッシリヤによって捕囚される、もうあらゆる意味で暗闇の中に彼らはいたのです。神様に見捨てられても仕方がない。異邦人と言われて、もう何の関係があなたとあるのか、と見捨てられてもおかしくはない、それでも神様は、イザヤを通して、「先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った」と語られるのです。

 

そう、ガリラヤからなんの良いものが出ようか、とイエス様が来られた時に言われていた、その地は人の目には見捨てられたかもしれない。しかし神様がよいものを現してくださる、御子イエス様がかの地に来られ、その栄光を豊かにあらわされた、神様の御心を存分にあらわされたのです。もちろんイエス様はほかの地でも多くの御業を行われましたが、そんな見捨てられてもおかしくない、ゼブルン・ナフタリの地を暗闇のまま放置せず、御子イエス様を遣わされたことで、この地にまことの光を照らされたのです。イエス様もこのガリラヤの地で公生涯が始まる前は育ちました。公生涯が始まって希望があったのではなく、神様の希望はずっと続いていた、それを信じ受け取るかどうかは、これを聞いたあなた次第なのです。

 

ちなみに、イエス様の12弟子は、実はイスカリオテのユダの他は全員このガリラヤの地出身の人だったのは驚きですが、逆にイスカリオテのユダは自分とはある意味では何の関係もなく、むしろ自分の損得で見る対象でしかなかった、それゆえにイエス様が自分の思い描くメシア像と違った時に失望し、離れ、サタンの誘惑に陥ってしまったのです。しかし、それに勝利されるのはイエス様。イエス様こそ、あなたのつらさ、暗闇、何より罪という状態を照らし出し、救い出してくださる唯一の方であることを忘れてはいけません。あなたのうちに恵みで溢れ返させてくださる、輝かせてくださるイエス様があなたの内に留まるからこそ命あるものとされるのです。

 

北イスラエルもある意味では知識としては神様を知っていた、しかし自分の利益にならない、と考えていた北イスラエルは別な国に頼り、結局暗闇に陥ることになるのです。アッシリヤによってあらゆるものが奪われ、別な霊が彼らの内に入ることで、彼らはずっと悩み続けることになります。しかし、神様を私たちは求めよう。神様にとどまってください、と祈ろうではありませんか。その時、もうどうにもならない、と感じるあなたの遣わされた場所、問題、一切の上に神様の光が照らされ、私たちは神様の栄光を見させていただける、御業を、愛を知ることとなるのです。こんな腐敗してしまった北イスラエルをもそれでも憐れまれた神様があなたを憐れまれている、なんという幸いでしょう。

 

そして再びイエス様誕生の預言が「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」となされます。今目の前の時だけではない、インマヌエル、とこしえに共におられる神様が、御子イエス様を人として生まれさせてくださる。それは神様の熱心な愛ゆえに約束されるのです。

 

イエス様は、ただ旅行者のように一時的に、気まぐれで来られるのではなく、赤ちゃんから人と同じように育ち、重荷を背負われ、ただ何となく眺めて、大変だね、と同情して終わるのでもなく、時々助ける者でもなく、神様から預かられた主権をもって、不思議な助言者として、力ある神様として、永遠に父の愛を現される、平和を実現してくださるのです。とこしえのこの愛に御子イエス様を通して神様は招かれるのです。暗闇に光を、罪の報酬である死を命へ変えるべく。

 

そのため、神様は、御子イエス様をただ生まれさせて終わり、ではなく、私たちの罪を御子イエス様に身代わりに背負わせ、十字架にかけられ、身代わりに罰し、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださるのです。死を命に代え、永遠の命を与えてくださる。

 

このイエス様の命にあって与えられる新しい命の内にあらわされる神様の恵みは尽きることがありません。まし加わり、主の熱心があなたの内に行われる、暗闇を照らすまことの光が、あなたのうちだけではなく、あなたを通してあなたのまわりまで希望の光がともされるのです。イエス様が来られた時にこの約束が成されるのではなく、その700年以上前から約束されていたこのイエス様のご降誕の預言。このイエス様の十字架があなたを貫き、成就するのです。あなたがどんなところにあろうとも。だからこそ、私たちは昔の話、状況が違う、と自分をごまかすのではなく、ただ神様の平和が、御心が現わされることを切に祈り求めようではありませんか。永遠の愛が、熱心な愛があなたの内に驚くべき実を結ばせてくださるから。