―わが愛する者の歌― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「『さあ、わが愛する者のためにわたしは歌おう。そのぶどう畑についてのわが愛の歌を。わが愛する者は、よく肥えた山腹に、ぶどう畑を持っていた。彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。ところが、酸いぶどうができてしまった。そこで今、エルサレムの住民とユダの人よ、さあ、わたしとわがぶどう畑との間をさばけ。わがぶどう畑になすべきことで、なお、何かわたしがしなかったことがあるのか。なぜ、甘いぶどうのなるのを待ち望んだのに、酸いぶどうができたのか。さあ、今度はわたしが、あなたがたに知らせよう。わたしがわがぶどう畑に対してすることを。その垣を除いて、荒れすたれるに任せ、その石垣をくずして、踏みつけるままにする。わたしは、これを滅びるままにしておく。枝はおろされず、草は刈られず、いばらとおどろが生い茂る。わたしは雲に命じて、この上に雨を降らせない。』まことに、万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家。ユダの人は、主が喜んで植えつけたもの。主は公正を待ち望まれたのに、見よ、流血。正義を待ち望まれたのに、見よ、泣き叫び。」

イザヤ書5章1-7節

 

私たちは農作物にしても、何かを育てるにしても、期待をもってしますよね。しかしそれが何か気象や様々な問題で思っていた収穫を得られなかった時、これは本当に痛い。泣き叫びたくなることもあるでしょう。しかし忘れてはいけないのは、神様はあなたに最高の命を本来用意してくださっている。それでも、神様から離れていくあなたを何とか命あるものへと回復させようと、その御手を伸ばし、ついには御子イエス様の命を持ってまで取り返そうとされた愛を。神様はあなたを忘れていない。私たちは神様の愛の中、養いの中、信頼し、歩ませていただこうではありませんか。

 

さて、ユダとエルサレムについて、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に預言者イザヤを通して神様が語られた言葉が続きます。ここまで見てきたように、神様は預言者イザヤを通してとても厳しい言葉を語られていますが、もしもう見捨てる、というなら語ることもないでしょう、捕囚前に。なんとかそこから立ち返ってほしいという願いがあったからこその、神様の語りかけなのです。それが実は↑の最初の歌に現れています。

 

ちなみに、この「わが愛する者の歌」はだれが歌っているのか、と思いたくなるところですが、これはどうも元の原語から見るに、預言者イザヤが歌っていることがわかります。また、愛する者というのは神様のことを指しているようです。まあ、神様が愛する私たちのために歌おう、じゃあそもそも歌の内容がおかしくなるのは目に見えていますが。

 

預言者イザヤはこれまでの神様の訴えを思い起こしつつ、現状を見て「さあ、わが愛する者のためにわたしは歌おう。そのぶどう畑についてのわが愛の歌を。わが愛する者は、よく肥えた山腹に、ぶどう畑を持っていた。彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。ところが、酸いぶどうができてしまった。そこで今、エルサレムの住民とユダの人よ、さあ、わたしとわがぶどう畑との間をさばけ。わがぶどう畑になすべきことで、なお、何かわたしがしなかったことがあるのか。なぜ、甘いぶどうのなるのを待ち望んだのに、酸いぶどうができたのか。さあ、今度はわたしが、あなたがたに知らせよう。わたしがわがぶどう畑に対してすることを。その垣を除いて、荒れすたれるに任せ、その石垣をくずして、踏みつけるままにする。わたしは、これを滅びるままにしておく。枝はおろされず、草は刈られず、いばらとおどろが生い茂る。わたしは雲に命じて、この上に雨を降らせない」と歌います。

 

ここまでも、神様は丹精込めて私たちを育ててくださっていたことを見てきましたが、今回は神様はブドウ畑を懇切丁寧に開墾し、よいぶどう、私たちを育てようとされていることを見て取れます。今と違うところはあるかもしれませんが、実際にぶどうの栽培は大変です。特に中東では地を這うように根があるため、これを持ち上げ、栄養がしっかりと行き届くようにしなければいけません。また、荒れ地の中にあってはどうやっても苦労がつきものです。環境が実際に日本とは違いますから言うまでもなりませんね。

 

ただ、そのような開墾困難、神様を神様とも思わず、好き勝手に生きる私たちを何とか甘いぶどうになることを切に願い、まず土地の開墾を行ないました。そして掘り起こし、石を取り除き、いつでも監視できるように、やぐらまで作られるのです。そしてぶどう汁を作るための酒ぶねまで作っています。神様の私たちへの思いが徹底されているのが見えますね。私たちが本当の意味で生きたものとなることを望み、そのためなら徹底されている。私たちが育つためにそれをふさぐ岩、時には世の煩いとなる茨、固い心、様々な問題を取り除かれる、それは私たちが好き勝手にやっている中では大変な事でしょう。しかし、それでも、あなたを守るために、監視する、というよりもあなたを守るためなら、やぐらを作って守ってくださる、あなたが世の思い煩いに支配されることがないように。

 

しかし、そこまで神様が育て、養ってくださっているのに、どういうわけか苦いぶどうとなってしまいました。神様の育て方が下手なんじゃないの?という方がいるかもしれませんが、この天地万物を造られ、この驚くべき人間を作られ、今も保持されている神様がどうして下手、などと言えるでしょう。逆に当時の民は、神様のなさることは自分の思うことではない、ある意味では自分を良いものにするのに下手、と勝手に思い込み、レッテルを張り、むしろ神様を愛するどころか、神様を苦いものとし、離れようとするのでした。

 

しかし、実はその木によって決まるごとく、神様に私たちがつながっているからこそ、本当の意味で良い実、命あるあなたとなるのです。神様は力を尽くし、いのちを尽くし、あなたを愛する、そのための行動を徹底されている、それなのに私たちが神様から離れて、どうして神様に文句を言うことができるでしょうか。

 

そこで「そこで今、エルサレムの住民とユダの人よ、さあ、わたしとわがぶどう畑との間をさばけ」とイザヤは歌いますが、これまで神様は、ユダとエルサレムをご自分が裁判官と務める法廷へと引き出されていましたが、ここでは反対となり、あなたがたが判断しなさい、とエルサレムとユダが裁判官になって、わたしを裁きなさいとおっしゃられているのです。

 

神様が、彼ら・私たちが良い実を結ぶために、行なわれなかったことは何も他に残されていない、神様は最大限のことを行なったのに、甘いぶどうの実ができない理由を見つけることができないぐらい、完璧に育ててくださったのです。しかし、私たちはなぜ自分の求める通りに神様はしてくれないんだ、と神様をさばく、でもその資格がどうして私たちにあるのでしょう。神様が完全な愛をもって私たちを憐れんでくださっているのに、自分たちは神様を自分の好き勝手にできる操り人形的に見て、どうして文句が言えるでしょう。

 

なお「さあ、今度はわたしが、あなたがたに知らせよう。わたしがわがぶどう畑に対してすることを。その垣を除いて、荒れすたれるに任せ、その石垣をくずして、踏みつけるままにする」と歌われますが、そのまま放置されても本来私たちには文句を言う資格がどうしてあるでしょう。神様は完全なほどに愛を注がれたのに、注がれているのに、いつまでもうまくいかない、と自分の事情に神様を合わせようとして、どうして不平不満が言えるでしょう。

 

それゆえ、神様はさらに、周囲の敵にそのまま踏みつけさせるようにする、外側からだけでなく、内側からの力もなくすようにする、経済力、教育の力、社会的な安定、それらの国力をないままにする、というのです。「さあ、今度はわたしが、あなたがたに知らせよう。わたしがわがぶどう畑に対してすることを。その垣を除いて、荒れすたれるに任せ、その石垣をくずして、踏みつけるままにする。わたしは、これを滅びるままにしておく。枝はおろされず、草は刈られず、いばらとおどろが生い茂る。わたしは雲に命じて、この上に雨を降らせない」とあるように。

 

私たちは神様の口から出る、いや神様ご自身から出る命、恵みによって生きるのに、どうして神様から離れていられましょう。実が枝から好きに離れてどうして、よい実を結ぶことができるでしょう。私たちは神様から離れていませんか?

 

しかしそれでも神様はあなたが帰ってくるのを待ってくださります。以前ルカによる福音書の中でイエス様のたとえ話の、「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。』番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」というものを分かち合わせていただきましたが、番人は主人にある意味で逆らうことは赦されないのです。番人はそれでも何とか実を結ぶように、肥料をまくなりしてなんとか肥やしますから、見捨てないでください、と主人に訴えるのです。それでもだめなら、自分を切り倒してください、と。それがまさにイエス様の十字架だったのです。

 

イエス様が私たちが失われる代わりに、身代わりにご自身の命を持って私たちの罪が赦されることを懇願されたのです。その死をもって、私たちの身代わりとなられたのです。そして3日目にイエス様がよみがえられたことによって、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪が赦され、同じイエス様の復活の恵みに与らせていただける、新しいあなたへと生まれ変わらせていただけるのです。なんという幸いでしょう。切り捨てられ、見捨てられたのはイエス様。十字架上で、どんなに罵られようとも十字架から降りることなく最後までその愛を全うされ、死にまで従われたのです。なんの罪もないイエス様が。

 

私たちはこの愛を受け、今何を願うでしょうか。私たちは自分は自分だから好きにさせてほしい、と願うのではなく、この御子イエス様の命を持ってまで愛され、徹底的に甘いぶどうにあなたをしようとされた神様の愛をどう受け止めるでしょうか。私たちは今こそ、顧みてください、と主の前に祈ろうではありませんか。苦いぶどうではなく、新しいあなたの命、恵みによって回復させてください、と。そしてそこから神様の栄光が溢れ流れるように、御心がなるよう祈り求めようではありませんか。神様の願いは、あなたが苦いぶどうのままでいることではなく、義の実、神様の恵みにみちあふれること。愛する神様に悔い改めと賛美のいけにえを心から捧げようではありませんか。神様が愛するあなたのために注がれた、注がれる大いなる恵みに期待して。