―その日:すがりついていいんだよ― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「その日、七人の女がひとりの男にすがりついて言う。『私たちは自分たちのパンを食べ、自分たちの着物を着ます。私たちをあなたの名で呼ばれるようにし、私たちへのそしりを除いてください。』その日、主の若枝は、麗しく、栄光に輝き、地の実は、イスラエルののがれた者の威光と飾りになる。シオンに残された者、エルサレムに残った者は、聖と呼ばれるようになる。みなエルサレムでいのちの書にしるされた者である。主が、さばきの霊と焼き尽くす霊によって、シオンの娘たちの汚れを洗い、エルサレムの血をその中からすすぎ清めるとき、主は、シオンの山のすべての場所とその会合の上に、昼は雲、夜は煙と燃える火の輝きを創造される。それはすべての栄光の上に、おおいとなり、仮庵となり、昼は暑さを避ける陰となり、あらしと雨を防ぐ避け所と隠れ家になるからだ。」

イザヤ書4章1-6節

 

私たちはどうにもならなくなった時、何かにすがりつこうと必死になります。それはそうですよね。ある意味ではすがりつくものが無いとつらいものがあります。自分で何とか頑張ろうとしても限界があります。ただ、どうか忘れないでください、神様があなたを忘れていないということを。だから私たちも神様を求め続けよう。神様があなたを引き上げてくださる、いのちの道へと導いてくださるから。

 

さて、ユダとエルサレムについて、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に預言者イザヤを通して神様が語られた言葉が続きます。ここまで見てきたように、神様は預言者イザヤを通してとても厳しい言葉を語られていますが、もしもう見捨てる、というなら語ることもないでしょう、捕囚前に。なんとかそこから立ち返ってほしいという願いがあったからこその、神様の語りかけなのです。

 

私たちは調子のいい時は神様から離れ、ちょっと問題が起きると神様に頼ることが多くありますね。自分の思う時に自分の思う通りのことを神様がしてくださらないと不平不満を言うことだってしばしば。じゃあ答えてくれない時は神様は私たちを無視されているのか、と言われたらそうではありません。これまで見てきたように、神様は私たちが立ち返り命を得ることを願って、語り続けている、預言者を遣わされたり、預言者を通して何度も神様が彼らを見捨てていないことを体験しています。一方で奇跡的な事がなければ神様をないがしろにする、私たちもこれについては陥りやすいことですね。

 

ただ、神様は24時間365日、私たちを守り導こうといつも語られています。私たちが自分の時間に神様を合わせようとしているだけで、神様はいつも導いてくださっている、語ってくださっているのです。それが自分の思う通りではないから、神様は私を愛していない、と思うだけで。様は、あなたが帰ってくる日をいつでも待っているのです。あなたはこの神様の愛にどうこたえるでしょう。

 

さて話を↑に戻して、神様は続けて預言者イザヤを通して「その日、七人の女がひとりの男にすがりついて言う。『私たちは自分たちのパンを食べ、自分たちの着物を着ます。私たちをあなたの名で呼ばれるようにし、私たちへのそしりを除いてください。』」と語られます。その日がくる、と。ちょっと理解するのが難しい箇所なのですが、7人の女、といいますが、分かりやすくいえば、イスラエル、また私達です。7という数字は完全数と言われているのですが、それにこだわらなくとも、数字では表せないほどの人が一人の方にすがりつく日が来る、と。

 

7人の女性が、好き勝手に自分の望むことにこたえるものを求めるのではなく、まことに真実なる方、神様に立ち返る日が必ず来る、と。それは裏を返しますと、私たちが神様の愛に気づき立ち返る日まで、私たちが気付かない間も神様はその愛を、御手を伸ばされ続けている、御心を洗あされる、御力を注がれていることが見えてきます。その日が来たら、しょうがないな、と手を伸ばされるのではない、神様はいつでもあなたを受け入れる準備は万端なのです。あなたがその神様を求めているかどうかなのです。神様がくださっている恵みを恵みと思って受け取るかどうかの話なのです。

 

神様おひとりで何ができる?と思いますか?しかし、神様はこの天地万物を、正確な基準をもって作られ、また私たちを造られた、いまだに私たち人間のすべてを人間は理解しきれていない、それにもかかわらず、神様は私たちを造られ、なお神様の天地創造から今に至るまで神様はこの世界を保持してくださり、また私たち一人一人を導いてくださっているのです。誰一人神様なしに生きることなどできません。

 

人にはできないことも、神様に不可能はありません。思い出してみてください。御子イエス様は聖霊様によってマリヤの胎内に宿ったわけですが、彼女は男性を知りません。そんなことありえない、でもそのありえないことをなしてくださるのです。新約聖書の分かち合いでは今イエス様の話をずっと追ってきていますが、イエス様がどれだけの奇跡を見せてくださったか。死人を生き返らせたり、時には5つのパンと2匹の魚で約2万人の人を満腹にさせるというありえない奇跡をおこなわれたこともありましたね。神様は人の常識ではかることのできないほどすべてに勝る、偉大な方であることを忘れてはいけません。驚くべき神様のご計画が、現わされる、それは私たちが求める以上の神様の最高の御心であることを。

 

話を7人の女性たちが語った言葉に戻して、彼女たちは「私たちは自分たちのパンを食べ、自分たちの着物を着ます。私たちをあなたの名で呼ばれるようにし、私たちへのそしりを除いてください」と言います。これはずいぶん身勝手な言葉に聞こえるといいますか、疑問符が付きそうな言葉なのですが、しかし、その身勝手かどうか、というのが実は大きなポイントなんです。

 

士師記を分かち合っていた時の象徴的な事で、王たちが当時いなかった、そのために後半ではとんでもない出来事が続きましたが、「私たち」が食べる自分たちのパン、とはなんでしょう、自分たちの着る着物とは何でしょう。彼らは自分たちのそしりがのぞかれ、神様の家族として、子として呼ばれることを願い、本来自分たちが食べるべきものは神様が備えてくださる、着るべきものは備えてくださる、神様の口から出る一つ一つのパン、御言葉、いや全ての恵みを食べ生かしてください、古い自分、罪に汚れ、また疲れ果てた古い自分という名の着物を脱がせて、新しい神様の子としての衣、義の衣をきせてください、と訴えているのです。

 

自分たちが食べたいものを食べ、着たいものを着るけど、神様の子として扱ってくださいね、というのはおこがましいと言いますか、むしろそれでは結局自分たちが自ら招いた問題が彼らを取り囲んでいるだけで、何の解決にもならない、神様ご自身が彼らの内に住まわれ、彼らを覆い、養ってくださるからこそ、本来あるべき姿に回復するのではないでしょうか。

 

私たちは今、何にすがりついているでしょうか。自分がよいと思うものを食べるといいますか、それを生きる指針にしているか、それともあなたを愛し造られ今日まで導いてくださってこられた神様に信頼し歩むか。あなたがその日、神様の恵みを受けることはもちろん、天の前味を味わう、神様の子に立ち返って本当の命を得る「その日」が来るのを神様は待ち望んでいます。その扉はこれまでの章で見てきたように開かれているのです。

 

神様はイザヤを通して一人の男の人、といいますかイエス様なのですが、イエス様に信頼する、立ち返る人について、「その日、主の若枝は、麗しく、栄光に輝き、地の実は、イスラエルののがれた者の威光と飾りになる。シオンに残された者、エルサレムに残った者は、聖と呼ばれるようになる。みなエルサレムでいのちの書にしるされた者である。主が、さばきの霊と焼き尽くす霊によって、シオンの娘たちの汚れを洗い、エルサレムの血をその中からすすぎ清めるとき、主は、シオンの山のすべての場所とその会合の上に、昼は雲、夜は煙と燃える火の輝きを創造される。それはすべての栄光の上に、おおいとなり、仮庵となり、昼は暑さを避ける陰となり、あらしと雨を防ぐ避け所と隠れ家になるからだ」と約束されています。

 

またその日、と来ましたね。ある意味では特定されている日に見えますが、この日はあなたが主の御前に立ち返るその時がその日となり、終わりの日には最終的な勝利を治める日となります。その前味と言いますか、そこに向けた歩みはその日から始まるのです。神様の永遠への、勝利への旅路が。イザヤを通してなぜ神様が語られたのか、この時。それは後のずっと未来にまで我慢しなさい、ということではなく、立ち返ったその日から始まるのです。

 

主の若枝、これは後の章にも登場しますがイエス様です。イエス様が麗しく、栄光に輝き、そのイエス様を通してあなたのうちに命の実を結ばせてくださるのです。あなたの内に神様がくださる一つ一つの恵みを食べさせていただく、味わわせていただき、神様のすばらしさが、着物、あなたを通して輝くのです。それは、私たちがのがれるべき場所、希望をまさにそこに輝かせてくださるのです。そして目に見える形で生まれてこられたのが、御子イエス様に他なりません。イエス様は希望的観測ではなく、真実なる方なのです。真実で聖さですべてを覆い、変えてくだださるのです。このイエス様の前に立ちふさがるものも、あなたを打ち砕くものも存在しません。主が、あなたのために立ち上がられるのだから。

 

あなたは神様の書、いのちの書に名を刻みたいほどの愛をもってあなたがその日を迎えることを待っています。↑で「主が、さばきの霊と焼き尽くす霊によって、シオンの娘たちの汚れを洗い、エルサレムの血をその中からすすぎ清めるとき、主は、シオンの山のすべての場所とその会合の上に、昼は雲、夜は煙と燃える火の輝きを創造される。それはすべての栄光の上に、おおいとなり、仮庵となり、昼は暑さを避ける陰となり、あらしと雨を防ぐ避け所と隠れ家になるからだ」と神様は語られていますが本来「さばきの霊と焼き尽くす霊」と言われたら恐るべき裁きに感じるかもしれません。

 

しかしその恐るべき裁きを神様は御子イエス様に背負わせた、私たちの汚れも痛みも、何よりも罪も一切を身代わりに背負わせ、十字架にかけ、罰せられ、死なせたのです。そしてイエス様を3日目によみがえらせてくださったことによって、汚れを、傷を、裁きを、死を一切打ち砕き、復活されたイエス様と共にそれらは聖められ、新しいものとされる、復活のイエス様の命があなたの内に住まわれ、この愛があなたの内にあふれるのです。このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人が。

 

主があなたという仮庵、あなたの内に住まわれる、なんという恵みでしょう。このイエス様のいのちをもってあなたは天にその名が刻まれている、覚えられている、あなたを神様の子として今日も養い導こうとされているのです。いつか変わってしまうものではない、変わることのない、まだ私たちが罪の内にある時からそれでも私たちを愛し、見捨てず、その血を注ぎだされてもあなたを愛するため、見捨てず、死にまで従われた。このイエス様が招かれたその日、にあなたは招かれているのです。私たちが頑張って耐えるのではない、これほどまで愛されるイエス様があなたの道を輝かせ、導かれ、養われ、天の御国に行くその日まであなたと共にいてくださる。

 

私たちは「その日」、イエス様のくださったこの一日一日をイエス様から離れることなく信頼し、歩もうではありませんか。主が与えてくださる一瞬一瞬の恵みに感謝し、またイエス様の恵みがさらに溢れ、すべての人がイエス様の命をもってなされる「その日」を迎えることができることを祈りつつ。